概 要:
バッハのオルガン作品および古代ギリシア、中世、ルネサンス、バロック、古典派、ロマン派、20世紀のオルガン音楽の主要な作曲家と作品を紹介。
※本稿を改稿し、掲載曲のYouTube動画へのリンクを掲載したKindle本を2023年1月に出版しました。
目 次:(※このページ内のアンカー)
オルガン音楽はバッハ Johann Sebastian Bach(1685-1750)なしには語れない。バッハはさまざまなジャンルの作品を残したが、生前は「大作曲家」としてではなく、「名オルガニスト」として知られていたほどだ。
バッハのオルガン作品は多数聴くことができるが、荘厳な短調の作品なら
《前奏曲とフーガ》ホ短調 BWV548
《幻想曲とフーガ》ト短調 BWV542
《パッサカリアとフーガ》ハ短調 BWV582
がお薦め。いずれも妥協のない厳しい音楽を聴くことができる。
長調の作品なら、
《前奏曲とフーガ》変ホ長調 BWV552
《トッカータ、アダージョとフーガ》ハ長調 BWV564
《6曲のトリオ・ソナタ》 BWV525-530より、第1番、第5番
短調の作品とはまったく違った明朗さと躍動感を聴くことができる。
特に《6曲のトリオ・ソナタ》はユニークな作品。これは2つの旋律楽器(通例2つのヴァイオリン)と通奏低音からなる室内楽としてのトリオ・ソナタをオルガンに移し替えたもの。右手が第1ヴァイオリン、左手が第2ヴァイオリン、ペダルがチェロに相当する。えてして荘厳ではあるが鈍重で躍動感を表現しにくいオルガンという楽器で、軽快さと生気を聴かせる名品だ。音楽としてはシンプルで簡単に聴こえるが、左右の手と足の完全な独立が要求されるので技巧的には後述のニ短調トッカータなどよりはるかに難易度が高い。この曲を聴けばそのオルガニストの力量がわかるといっても過言ではない。これらは反応のよいアクションを持ち、20〜40ストップ、2段〜3段手鍵盤を備える小型〜中型のバロックオルガンで演奏したときに真価を発揮する。中でもおすすめは第1番と第5番。すぐれたオルガニストが演奏すれば、飛翔するかのように軽やかで、しかも暖かい響きを聴くことができる。
ところでオルガン曲の定番ともいうべき《トッカータとフーガ》ニ短調 BWV 565は、バッハの自筆譜は現存せず、写本が残っているだけ。また純粋に音楽的に見ても、トッカータ、フーガともに表面的で安直な作品であり、「バッハの代表作」とはとてもいえないものだ。現在は「バッハの若い頃の作品」ということで落ち着いているが、もともとオルガン曲であったかどうか疑わしく(ヴァイオリン曲との説もある)、さらにはバッハの作であるかどうかも疑わしい。
バッハのオルガン作品にはこの他ルター派の讃美歌(コラール)の旋律を用いた作品群があるが、バッハのカンタータと同様、宗教的意味との関連で聴かれるべきもので、やや取っつきにくい。
敢えていえばバッハがオルガン音楽の頂点であり、その前にも、後にも彼をしのぐ作曲家は存在しない。また楽器としてのオルガンもバッハの時代に頂点を迎え、その後は巨大化はしたが、ある意味で機械的で単調な側面が次第に飽きられていった、ともいえる。
A. シュヴァイツァーは「オルガンはバッハが弾ければよい」と述べたといわれるが、筆者も同感だ。この意味でオルガンは古楽器のひとつと認識するべき。つまり、過去の楽器ということだ。
ちなみにチェンバロの場合には19世紀末に復興したいわゆる「モダンチェンバロ」は結局、主流とはならず、近現代のチェンバロ作品も限定された範囲でしか作られなかったし、現在ではほとんど演奏されることはない。
とはいえ筆者はバッハだけを排他的に崇拝するという意味でのバッハ信奉者ではない。バッハはあくまで後期バロックのドイツオルガン楽派の代表、デファクト・スタンダードということ。バッハよりも先輩格のブクステフーデ D. Buxtehude、ほぼ同世代といってよいブルーンス N. Bruhns、ベーム G. Böhm、リューベック V. Lübeck、若い世代のクレプス J. L. Krebsのオルガン作品も広く取り上げられるべきだと思っている。彼らのオルガン作品は、ブラインドテストをされたらおそらくバッハと区別するのが極めて困難だ。
関連ページ:bcc:032「こんな曲、ぼく知らないよ」とバッハいい/《トッカータとフーガニ短調》
パイプオルガンは古代ギリシア時代にはすでに存在していた。名称はヒュドラウリスhydraulis。「hydr-」は「水」を意味し、「aulis」はダブル・リードの管楽器アウロスを意味する。これは当時は送風に水圧ポンプを使用していたことによると考えられている。このヒュドラウリスは「水オルガン」、「水力オルガン」と訳されることもある。
この楽器を描いたモザイク画や粘土製ミニチュア(一種の模型)が残っており、古代ローマ時代の実物がハンガリー、ブダペスト近郊のアクインクム Aquincumなどで発掘されているが、パイプがどのように調律されていたかなどの詳細はわからない。またアクインクムのオルガンの送風機構は出土していないが、銘板に「HYDRAM」とあるので、送風に水圧を用いたと考えられる。
古代ギリシャの音楽もまた現存するのは10曲程度に過ぎず、しかもいずれも断片的なもの。したがって古代ギリシャ〜ローマ時代のオルガンでどのような音楽が演奏されたのかは不明だ。ただ当時の記録から総合的に判断すると、オルガンは屋外で大音量を出していたようで、実際に当時のモザイク画の中に、剣闘士試合の横でホルン、トランペットとともにヒュドラウリスを演奏している様子を描いたものがある。屋外で、大音量でファンファーレ風の音楽を演奏していたのかも知れない。また上述のアクィンクムのオルガンは、当時の消防団(collegium centonariorum)の建物跡から出土しているため、現在のサイレンのような使われ方をした可能性もある。
なおグレゴリオ・パニアグワのCD『古代ギリシャの音楽』(1978年録音)ではトラック18で「ゼノン・パピュルス、カイロの断片」という短い曲をアウロスとヒュドラウリスで演奏している。これが現在私たちが聴くことのできる最古のオルガン曲かもしれない。
【Discography】
『古代ギリシャの音楽』
グレゴリオ・パニアグワ指揮
アトリウム・ムジケー古楽合奏団
Musique de la Grece Antique
Atrium Musicae de Madrid
Gregorio Paniagua
harmonia mundi france1901015
ヨーロッパ中世にオルガンが存在したことは確かだが、その実態はよくわかっていない。古い文献に「オルガヌム organum」とか「オルガーナ organa」という言葉が出てきても、具体的な楽器としての記述が伴わなければそれが必ずしもパイプオルガンを意味するとは限らず、典礼書などの意味で使われた可能性もあるからだ。
オルガン音楽もまた謎に包まれている。一般的には、教会のオルガン演奏は、まずは単旋律聖歌(グレゴリオ聖歌)のメロディーをなぞることから始まったと考えられる。
他方、教会外では小型のオルガンが主に舞踏の伴奏に使われていた。このために、現存する最古のオルガン曲は「エスタンピー Estampie」という中世の舞曲。これは14世紀前半にイギリスで書かれたロバーツブリッジ写本 Robertsbridge Codexに収められており、音楽そのものはイタリア起源だろうと考えられている。
このロバーツブリッジ写本の1曲が、デイヴィッド・マンローの『中世・ルネサンスの楽器』に収録されている。3度和声は聴かれず、和声音程としては4度音程が主体で、ちょっと奇妙な感じの曲だ。
以後の世俗音楽では、特に「オルガン」と指定されていなくても、舞曲や歌曲をオルガンで演奏した可能性がある。また声楽曲のオルガン編曲も残っている。
【Discography】
『中世・ルネサンスの楽器』
東芝EMI/Yamano Music YMCD-1031-32
「Instruments of the Middle Ages and Renaissance」として発売されていたLPのCD化。このLPには中世・ルネサンスの楽器についての写真、図版を豊富に含む詳細な解説書が付属していた。このLPも上掲のCDも現在は入手不可能だが、国内あるいは海外でまた再発されるかもしれない。
【Bibiliography】
初期のオルガンの歴史については、以下の本が非常に興味深い。
Peter Williams:
The King of Instruments--How churches came to have organs
London: SPCK, (c)1993.
ISBN 0-281-04664-6
この時代、オルガン音楽はかなり広範囲に作られていたが、現代人の感覚からすると、いかんせん古色蒼然としたものに感じられる。簡単に言えば、渋くて地味。しかしそこには、たとえばフラ・アンジェリコのフレスコ画に通じるような味わいがあるともいえる。この時代、現存する作品は数多いが、パウマン K. Paumannの硬質な響きのオルガン作品と、スペインのカベソン A. Cabezonの《「騎士の歌」による変奏曲 Diferencias sobre el canto llano del Cavallero》を挙げるにとどめておく。
バロック時代はオルガンの黄金時代。イタリアのフレスコバルディ G. Frescobaldi、オランダのスウェーリンク J. P. Sweelinck、ドイツ・オーストリアではヴェックマン M. Weckmann、フローベルガー J. J. Froberger、パッヘルベル J. Pachelbel、シャイト S. Scheidt、ブルーンス N. Bruhns、ブクステフーデ D. Buxtehude、ベーム G. Böhm、リューベック V. Lübeckなどの作曲家がオルガン曲を書いている。中でも北ドイツのオルガン音楽は足鍵盤(ペダル)の技法が高度に発達した点が重要だ。
また、この時代にフランスでは独特の響きのオルガンとオルガン音楽が開花した。クープラン F. Couperin、グリニーN. Grigny、クレランボー L.-N. Clérambaultなどの作品がある。リード管を好むのもフランスの特徴。
なおこの時代のフランスのオルガン音楽は足鍵盤に高度な技術を要求せず、バッハなど北ドイツのオルガン音楽に比べて技術的には平易なものが多いので趣味で演奏して楽しむにも適している。
バッハの死後、オルガン音楽は衰退期を迎える。これは音楽の趣味の変化と、啓蒙思想の普及によって相対的にキリスト教の社会的影響力が衰えたこと、人々がより柔軟な表現を求めたことが背景となっているようだ。そのため古典派の作曲家は概してオルガンには関心が薄い。
ハイドンは礼拝用のオルガン協奏曲をいくつか残しているが、彼の交響曲や弦楽四重奏曲ほど魅力的ではない。モーツァルトもオルガン演奏は巧みだったようだが、オルガン作品はほとんど残していない。現在モーツァルト、ベートーヴェンの作品として演奏される可愛らしいオルガン小品は、ほとんどが当時流行した機械時計(自動オルガン)のために書かれたものだ。
この時代では、まずメンデルスゾーンのオルガン作品が挙げられる。裕福な家庭に育った彼は、保守的な面も持っていたが、それは彼のオルガンへの関心に反映しているといえるだろう。《前奏曲とフーガ 作品37》などは、明らかにバッハの精神を受け継いだものだ。
さて、この時代のオルガン音楽の最大の巨匠といえばフランク C. Franck(1822-1890)。19世紀のピアノ音楽がショパンなしでは語れないように、19世紀のオルガン音楽もフランクなしでは語れない。この二人に共通しているのは、それぞれピアノとオルガンという鍵盤楽器の長所を最大限に活かし、欠点を最小限に抑えることによってすぐれた作品を生み出したこと。
フランクは、ともすれば一本調子になりがちなオルガンを用いて微妙なニュアンスを表現した。この意味では、フランクはピアノの語法に立脚しているとみなせる(もともと彼は名人芸的ピアニストとして出発している)。代表作は静かで淡々とした前奏曲が印象的な《前奏曲、フーガと変奏曲 op.18-4》、大作《3つのコラール》。また《カンタービレ》のような瞑想的な作品も味わい深い。
ただし、彼のオルガン作品を演奏するためには、フランスのオルガン製作家、カヴァイエ=コル Cavaille-Coll一族のオルガンあるいはこの様式で製作されたオルガンを使用することが望ましく、わが国に多いドイツバロック様式のオルガンでは適切に表現することがむずかしい。なおフランクは19世紀に、パイプオルガンよりも安価で「表情をつけられるオルガン」として登場したリードオルガン(アルモニウム harmonium)のための作品も残している。
この他、リストの《バッハの名による前奏曲とフーガ》、レーガー M. Regerの《バッハの主題による幻想曲とフーガ op. 46》、《序奏、パッサカリアとフーガ ホ短調 op. 127》、ヴィドール C.-M. Widorの10曲の《オルガン交響曲》、ロイプケ J. Reubkeの《オルガン・ソナタ ハ短調〈詩編94〉》といった、重厚長大で名人芸的かつシンフォニック志向のオルガン作品もロマン派特有のものだ。
またあまり知られていないがシューマン、ブラームス、ブルックナーもオルガン作品を残している。
この時代、まずはフランクを聴けば充分。ヴィドールの《オルガン交響曲》は、欧米の大聖堂で生演奏を聴けば音楽というよりはオルガンの大音響に圧倒されて感動することもあるかもしれないが、音楽的には深みがない。レーガーのオルガン作品は概して理屈っぽく、冗長に感じられる。
20世紀のオルガン音楽で聴くべきものはほぼフランスに限定される。ヴィエルヌ L. Vierneの6曲の《オルガン交響曲》やトゥルヌミール C. Tournemireの《神秘的オルガン》L'Orgue mystiqueはフランスならではの響きだ。
そしてデュプレ M. Dupré。わが国での知名度は低いがオルガンを縦横無尽に駆使するという点ではバッハやフランクをしのぐといっても過言ではない。《古いノエルによる変奏曲 op. 20》は、いわばオルガンの音色と演奏テクニックのカタログ。この曲を一曲聴くだけで、オルガンの多様な響きをほとんどすべて体験できる。
デュプレの弟子にあたる、同じくフランスのアラン J. Alainとメシアン O. Messiaenも、オルガン音楽には大きく貢献した。特にアランはその短い生涯の間に個性的なオルガン作品を残した。《連祷(リタニー)》op. 79がよく演奏される。長生きしたメシアンは、膨大な数のオルガン曲を残したが、ここでは《主の降誕》を挙げるにとどめる。この2人の作品はいずれも独得の不協和音と複雑なリズムを特徴とし、従来のオルガン音楽から一歩踏み出したものとなっている。
どちらかといえば、J.アランの方が才能があったのではないか。メシアンはいささかくどい。
この他、オルガン音楽に力を注いだ作曲家には、ラングレー J. Langlais、デュリュフレ M. Durufle、ペータース F. Petersがいる。
また、シェーンベルグ A. Schönbergの《レシタティーフによる変奏op. 40》も一度は聴く価値があるとは思うが、この種の現代作品は概して難解で、一般にはなかなか受け入れられないだろう。
リゲティ G. Ligetiの《ヴォルーミナ Volumina》(1961/62、1966改稿)は20世紀後半のオルガン音楽の傑作。その理由は、オルガンでしか出せない響きを出した作品だからだ。この響きはフルオーケストラでも無理だし、まして薄っぺらな電子楽器でも無理。
冒頭の全音域、フルストップのクラスターの激しく耳を覆いたくなるような響きはまさにオルガンの真骨頂というべきで、ローマ時代のオルガンはこんな破壊的な響きで剣闘士試合を盛り上げていたのかも知れない、と思わせる(当時のオルガンは全パイプが一斉に鳴って、いわばサイレンのような使われ方をしていたのではないか、という説がある)。また後半で送風機の電源をオンオフしてピッチが不安定な響きを出すところ(1966年版では削除されたようだ)はジョン・ケージ的なアイディアだが、これまでにはないオルガンの使い方であると同時に、オルガンでしか聴くことのできない響きだ。
この曲は、無骨で機械的、非人間的で硬質、というオルガンの音響的特質をそのままさらけ出しているところに作曲者の「音」への感覚の鋭さを感じる。筆者はこの曲を40年間にわたって聴いてきたが、いつ聴いても、文字通り、身の毛のよだつような戦慄を覚える。
ところで、あまり演奏される機会はないが、オルガンのための協奏曲もある。これはヘンデルに始まり、ハイドンも礼拝用のものをいくつか残してるが、大規模なものが作られるようになるのはロマン派以降のこと。ラインベルガー J. Rheinbergerの《オルガン協奏曲第1番ヘ長調 op. 137》、デュプレの《オルガンと管弦楽のための交響曲ト短調 op. 25》、プーランク F. Poulencの《オルガン・弦楽とティンパニーのための協奏曲》などがあるが、やはりオルガンを熟知していたデュプレのものが巧みだ。
ということで、オルガン本来のおもしろさ、つまり、オルガンで聴いてはじめて意味のある音楽を聴くとすれば、まずは
の3人の作品を聴くことをおすすめする。
オルガンでは現在でも即興演奏が行われる。ミサや礼拝の中で、主として時間調整のために短い演奏をする必要があるからだ。演奏会で「与えられた主題」(しばしば聴衆から提示される)による即興演奏を行うオルガニストもいる。
かつて来日したフランスの名オルガニスト、ピエール・コシュローは、提示された主題によって手鍵盤で4声、ペダル鍵盤で2声の計6声のフーガを即興演奏した。これは確かに驚嘆すべき技量ではあるが、では「音楽としてどうか」ということになると、それほど感動的な演奏ではなかった。
ヨーロッパ音楽の大きな特徴として、同時的には複雑な音の構成(和声、対位法)と、経時的には建築的な構成(形式)を挙げることができる。そしてこれを可能にしたのは音高と音長を厳密に表現できる記譜法だ。
ヨーロッパ音楽の楽譜は単に音楽(あるいは演奏)の記録手段ではなく、楽譜があって初めて作曲可能、演奏可能となる音楽もある。そして近代ヨーロッパ音楽の本質は、このあらかじめ入念に作曲された音楽にあるといえる。この意味において、即興演奏には同時的にも経時的にも限界があり、音楽の構築姓や音響の精妙な変化・推移の点で、入念に書かれた音楽には及ばない。かといって、ジャズの即興のような、演奏者の個性的な音色やリズム感のセンスといった要素は、不器用なオルガンでは伝わりにくく、結果としてオルガンの即興演奏はつまらないものになってしまう。
教会における即興演奏には存在理由があるが、演奏会における即興演奏には聴くべきものは少ないだろう。
さまざまな理由から、オルガンの演奏会ではしばしば本来オルガン曲として作られたものではない曲をオルガン用に編曲したものが演奏されることがある。もっとも多いのが管弦楽曲のオルガン編曲。
これには歴史的背景がある。まだ録音手段が存在しなかった19世紀には、オーケストラによる管弦楽の演奏はそうそう頻繁に聴けるものではなかった。そのため当時はオペラや管弦楽曲をピアノ連弾に編曲した楽譜に人気があり、家庭で演奏して楽しんだ。
オルガン編曲もこれに似た発想で、いわばオーケストラの代用品として用いられたものだ。この目的のために、大オーケストラに対抗しようとした19世紀の大オルガンは進化の袋小路に入り込んで絶滅した恐竜のようなもので、大コンサートホールと同様、この現代にあっては時代錯誤の存在だ。
オルガンではオーケストラの柔軟な表現には太刀打ちできない。緩徐楽章は単調で平板となり、急速な楽章ではしばしば破綻をきたす。「ひとりでオーケストラ」はどだい無理な話なのだ。
しかし、オルガンの歴史が浅いわが国では、時として「有名な曲をオルガンで演奏すればオルガンに親しみがわくだろう」という発想から、名曲のオルガン編曲を積極的にプログラムに取り上げることがある。安直な発想だ。有名曲であればあるほど、原曲と比較されて、かえってオルガンのデメリットが露呈してしまう。
管弦楽のオルガン編曲、古くはヴィヴァルディの協奏曲 op. 8の一部をバッハがオルガン・ソロに編曲した例がある。これらの編曲はバロック音楽ということもあって他の編曲モノよりはまだオルガン曲として聴けるものになっている。しかしオルガンは概して鈍重で一本調子であり、原曲の弦楽器による生気あふれる明快な音楽には及ばない。
「餅は餅屋」。オルガンは「オルガンで演奏してはじめて意味のある音楽」を演奏するべきだろう。
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last updated: 2023.02.03
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