bogomil's CD collection: 1999
113-124

※このページは以下の12編のエッセイを収録しています。

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bcc: 113
マジメで明るいクラシック音楽
---ルロイ・アンダーソン名曲集

1999.01

 「クラシック音楽」のイメージ。まずプラスイメージとしては、「上品」、「洗練」、「時代を超えた価値」などなど。これらに加えてバブル期には「高級感」や「上流イメージ」が強調され、きらびやかな大ホールがここかしこに建設され、華やかな雰囲気が演出された。

 しかし、そこに押し寄せたのは本来の音楽ファンというよりは、バブリーな即席クラシックファン。着飾ってオメカシし、コンサートのあとは、情報誌で見つけた知る人ぞ知る(ハズの)高級レストランで、これまた情報誌おススメのワインのグラス片手に、おひとり様ウン万円のディナーコースを楽しむ、といった具合だ。こういった楽しみ方が豊かさの象徴のように喧伝され、「これぞクラシック本来の楽しみ方」ともてはやされた。

 ところがバブルの崩壊と、それに続く不況で状況は一変した。クラシックの演奏会は確実に減少しているし、コンサートホールでは閑古鳥が鳴き、豪華なシャンデリアには、よく見るとクモの巣が…とまではいかないが、もはや、かつてのような華やかさは感じられない。

 しかし、これが正常な状態だろう。バブル期が異常だったのだ。

 仕事を早めに切り上げてコンサートに出かけ、帰りが遅くなって翌日遅刻したら、「もう来なくていいよ」とリストラされかねない。そもそも、マジメに働いていても給与カット、ボーナスカットが当たり前のご時世だ。不要な出費は抑えなくてはならず、まずは「遊び」のための予算を減額せざるをえない。

 となると、クラシックコンサートに行くことをファッションの一部とし、遊びや浪費の口実にしていたようなファンが、まず最初に脱落する。彼らは、オシャレもせず、おいしい食事もせず、リッチな雰囲気も楽しめなかったら、コンサートに行く意味がなくなってしまうからだ。

 そして、コツコツ小遣いをためてチケットやCDを買っていたファンでさえ、「ゼイタクをしている」後ろめたさが付きまとうようになったら、やはり今までのようには楽しめなくなってしまう。これからはクラシックも妥当な費用で、等身大の音楽を楽しむ方向に向かうことになるだろうし、それが本来のあり方だ。そのためにはクラシックに成金趣味的な高級感を演出するべきではないし、価格破壊も必要だ。すでにCDでは、新録音で1枚1,000円前後のナクソスNAXOSレーベルが出てきている。

 さて、クラシックのマイナスイメージ。「マジメ」、「暗い」、「固い」、「長い」、「つまらない」、「むずかしい」といったところか。特にわが国では明治以降の学校教育において、国民を従順に育てるための手段としてクラシック音楽(西洋芸術音楽)を利用してきたので、自由に音楽を楽しもうとする子供たちにとっては、どうも息苦しいイメージがつきまとう。

 オトナの世界でも、わが国ではクラシックというと、どうも教養だの、歴史と文化だの、お固い話になりがち。クラシックの「高尚」なイメージも、一歩間違えると、必要以上にむずかしく考える衒学趣味に結びつく。やれ「クラシックの理解には、ヨーロッパ文化の理解が不可欠」とかなんとか。

 つまりは、日本人は「マジメでほがらか」が苦手で、マジメだと暗く、つまらなくなる。その裏返しで、明るく楽しむ、となるとハメを外したバカ騒ぎになってしまう。要するに遊ぶのがヘタ、楽しむのがヘタなのである。

 だから昨今の不況で、ものごとをマジメに考えなければならなくなってくると、意気消沈し、暗いムードが蔓延してしまう。これは、経済的にどうのこうの以前に、気分的に負けているのだ。これから先、厳しい状況がまだまだ続きそうだが、こういう時代には、マジメに質素に生きながら、明るい気持ちで人生を楽しむ「心のゆとり」が必要だろう。

 そこで今回紹介するのは、ルロイ・アンダーソン(1908-1975)の、マジメで明るく庶民的で、適度に上品な名曲の数々*。1930年代から50年代にかけて、アメリカで、また日本で広く聴かれたもの。その後も現在にいたるまで、格式ばったコンサートではまず演奏されないが、イージーリスニングやBGMとして聴かれ続けている。

 お固いクラシック・ファンは、クラシックとは認めないかもしれないが、筆者は、これはこれで20世紀の古典的名曲だと思うし、何よりも、日常生活のなかで広く親しまれてきた点を評価したい。

 代表的なのは《ラッパ吹きの休日》、《そり滑り》、《タイプライター》、《シンコペイティッド・クロック》などなど。え?知らない?いえいえ、題名はご存じなくとも、音楽を耳にすれば、必ず「あっ、この曲知ってる!」というのがあるはず。

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*ルロイ・アンダーソン・コレクション (MCA CLASSICS MVCE-3033〜34)

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お休み前のノクターン
---ショパン:ノクターン集

1999.02

 音楽との付き合い方は人それぞれ。さまざまなスタイルがあるが、クラシック・ファンは、概して「お行儀」がよく、ほとんどの人が演奏会では、きちんとマナーを守る。物音を立てずに静かに聴くし、咳はできるだけ我慢する。もちろん、あらかじめ携帯が着信しても音が出ないようにしておく。そして演奏後は、きちんと拍手をする。ヘタな演奏で気乗りがしなくても、5回ぐらいは手をたたく。決してブーイングなどしない。

 自宅でCDを聴くオーディオ・マニアも同じ。部屋は可能な限り静かにし、人によっては照明まで少し暗くする。まるで聖なる儀式を執行するかのように、無駄のない手の動きでCDプレーヤのトレーを開き、CDをセットし、トレーを閉じる。そして、左右のスピーカから等距離に置かれたソファに座り、リモコンでCDをスタートする…。

 このように音楽を聴く雰囲気を大切にし、それなりの心構えで聴こうというのは立派な態度だ。しかし行きすぎるとカタ苦しい。それに、こういう「正式な聴き方」にこだわると、気軽に音楽を聴けなくなってしまう。カタ肘張らずに、日常生活の中で適度に音楽を楽しんでもよいのではないか。極度に頭を使う作業をしているときには、なまじ音楽が流れていると妨げになることもあるが、音楽を上手く使えば、逆に仕事がはかどることもあるのだ。

 背景音楽=バック・グラウンド・ミュージック、略してBGM。日本でBGMというと、喫茶店やレストラン、スーパーやデパートで流れている音楽、テレビ番組の背景の音楽のイメージが強いが、もともとは第2次大戦中、イギリスやアメリカで、工場や事務所といった職場の作業能率改善のために音楽を利用する研究が行われるようになったのが始まりらしい。

 たとえば1940年代のアメリカで、工場で労働者に音楽を聴かせ、作業能率の変化を調べた研究がある*1。それによると、BGMはテンポや強弱があまり大きく変化しない方がよく、歌詞のある音楽はダメで、器楽がよいのだそうだ。テンポや音量が急に変化すると、音楽に注意が向いてしまって作業がおろそかになり、歌詞の意味を理解しようとすることが、作業の妨げになるからだ。

 また、8時間労働中、2時間半ないし3時間の音楽が最大限で、これ以上音楽を流すとかえって、能率は落ちる。労働者が退屈して能率が下がることが問題となるような作業の場合には、規則的に、断続的に短く音楽を流すとよい。夜間の作業の場合は、音楽を流すことでかなりの能率向上が見られる、などなど。

 まあ、この研究は今となってはいささか古いし、音楽の心理作用は微妙で、調査方法によって結果が大きく変わることもあるから、額面通りに受け取るべきではないが、それでも、なるほど、と思い当たるフシはある。BGMに限らず、およそ音楽というものは、ツボを押さえた聴き方、聴かせ方をするとよいといえそうだ。

 というわけで、のべつ音楽を流すのはやめて、ちょっと気分転換、というときに上手に音楽を聴くことをお薦めしたいが、他の気分転換の方法も同時に組み合わせるのがポイント。たとえば、雑誌を読みながら、あるいはコーヒーを飲みながら聴くと、効果的に気分転換できるだろう。

 かくいう筆者も、ここ数カ月、夜、就寝前にピリスの演奏するショパンのノクターン*2を聴いている。「夜想曲」という表題にちょっと引きずられてしまうが、静かな夜にはピッタリの感じ。

 もっとも、ひとくちにノクターンといっても、いろいろあり、気分に応じて選ぶ楽しみもある。古い方では、フィールドのノクターンが古典派的なシンプルさを感じさせる*3。フォーレのノクターンはショパンに近い。20世紀新古典主義のプーランクのノクターンは、どこかポピュラー音楽的。

 寝る前のひとときに音楽を聴く。こんなゼイタク、昔は王侯貴族といえども、おいそれとできることではなかった。早い話が、ルイ14世だって、ショパンは聴けなかったのだ。「オットギばなしの王子でも、昔っは、とても食べられないアイスクリーム」と同じ。

 現代社会には、たとえば環境ホルモンやら、ダイオキシン汚染といった負の側面も多いのだが、しかし、筆者のような庶民でさえ、手軽にアイスクリームを食べたり、ショパンが聴ける、という点では、恵まれた時代といわなければならない。

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*1:桜林仁:『生活の芸術』(誠信書房、1966)15~21ページ。
*2:Chopin: The Nocturnes/ Pires (独グラモフォン447 096-2)
*3:同じような曲想の小品が「ロマンツェ Romanze(独)」、「ロマンス Romance(仏英)」と題されることもあった。フィールドも、最初は「ロマンツェ」と題していた曲を、後に「ノクターン」と改めている。

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そんなに急いで何を弾く
---リスト:《超絶技巧練習曲》第4番《マゼッパ》

1999.03

 今回考えてみたいのは「音楽のスピード」、つまりテンポのこと。一般には「速いテンポで弾く」イコール「上手」、「テクニックがある」とみなされているが、本当にそうなのだろうか・・・確かに、ある程度のテクニックがないと速く弾くことはできない。ある曲をゆっくり弾けても、速くは弾けない、ということもある。速く弾くためには、かなりの練習が必要だ。

 しかし、では速く弾けさえすればいいのか?たとえば、グレン・グールドの演奏するモーツァルトのソナタやバッハの作品の中には、信じられない速さのものがある。こういった、聴衆がアッと息をのむような速いテンポでの演奏は、確かに「スゴイ!」と思わせる。爽快でもある。

 しばしばピアノ専攻の音大生にグールドのファンが見られるが、自分がピアノで演奏するむづかしさを知っていればこそ、グールドのスピードに驚嘆するのだろう。しかし、ピアノをまったく弾いたことがなく、他のピアニストの演奏も聴いたことのないよう人は、かえって「ふーん、こんなものか」と聴き流してしまうのではないか。

 つまり、グールドのインパクトが強いのは、速く演奏しているから、というよりは、「これまでの常識」を覆したテンポ設定をしているからだろう。曲によっては、逆に極端に遅く演奏しているものもあり、これまた、ある意味でインパクトがある。そしてグールドの「おそろしく速いテンポ」の演奏が、意外性のインパクトが去った後でもよい演奏に聴こえるとすれば、それは、テンポが速いからではなく、細部の表現の巧みさによるところが大きいのだ。

 これは、パソコンやシーケンサを使って、MIDIの打ち込みでバッハやモーツァルトの曲を自動演奏させてみればよくわかる。一度、データを入力してしまえば、MIDIでは、かなり速いテンポでも演奏できるのだが、ただ単に楽譜の音符をそのまま入力したような自動演奏は、速くても、平板でつまらない。

 つまり、テンポの速い、遅いは、演奏の質には直接関係しない、ということ。場合によっては、テクニックの欠陥と表現力のなさを、速く弾くことでゴマかしてしまうような演奏がないわけではなく、必ずしも「速く弾ければテクニックがある」ともいえないのである。

 ここに、リストの《超絶技巧練習曲》第4番《マゼッパ》の新旧2つの録音がある。まず、クラウディオ・アラウ。1974~76の録音で、7分35秒で弾いている*1。もうひとつは、フランソワ=ルネ・デュシャーブル。1998年の録音で、6分24秒*2。その差は1分以上で、印象はだいぶ違う。

 まずアラウだが、長年、聴いてきたこともあって、「うん、なかなか上手に弾いているな」という感じ。

 次にデュシャーブルを聴くと、かなり速く感じられる。ところが、デュシャーブルを聴いた後にもういちどアラウを聴くと「あれ、こんなに遅めだったのか??」と感じる。つまり前後関係で印象が変わってしまうのだ。人間の感覚というのは不思議なもので、音楽に関しては、絶対値を記憶しているわけではなく、相対的な記憶しか保持していないようだ。

 このために、コンクールや音大の入試では、演奏の順番というのが、評価に影響するのだろう。同じ演奏でも、ヘタな人の後に聴けば上手に聴こえるし、上手な人の後に聴けば、ヘタに聴こえる。この「順番による影響」を排除するには、順番を変えて何回か演奏させ、総合評価するしかない。

 さて《マゼッパ》。テンポ以外で気になるのは、音色や強弱。ピアノという楽器のむずかしさを痛感させられる。アラウとデュシャーブル、音色も違えば、強調する音も違うし、ペダリングも違う。録音にもよるのだろうが、アラウは、どちらかといえば、柔らかい音色、デュシャーブルは、硬質で鋭い。

 筆者はアラウを聴きなれているためか、どうしてもデュシャーブルには違和感をおぼえる。だから、公正な判断を下すためには、こういった自分自身の「バイアス=偏り」を割り引いて考える必要があり、デュシャーブルはダメ、と断言するのは控えたい。

 それでも、デュシャーブルの演奏は速すぎて、いささか雑な感じがしてしまう…まあ、ダイナミックで速めの演奏が好みの人にはデュシャーブル、丁寧な演奏が好みの人にはアラウ、ということになるだろうか。できれば、両方の演奏を聴き比べてみてほしい。

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*1:Listzt・12 Etude d'exécution transcendante/ Caludio Arrau(PHILIPS 416 458-2 )
*2:Liszt: Etudes d'exécusion transcendante/ Duchable(EMI 7243 5 56684 2 4)

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どこにもさわらずに演奏する楽器テルミン
---ラフマニノフ:《ヴォカリーズ》

1999.04

 音楽は音なしには存在しない。音とは、空気の振動(空気の疎密の変化)で、音にはすべて音源がある。そして、この音源から、どのようにして微妙な陰影に富んだ音を引きだすかが演奏家の課題となる。

 声楽家や管楽器奏者は、自分の「息づかい」によって相当程度まで柔軟な表現が可能だし、ヴァイオリンなどの弓奏弦楽器では、弦を振動させる右手の弓の動かし方、左手の弦の押さえ方によって、これまた柔軟な表現が可能だ。

 さて、声楽や管楽器、弓奏弦楽器には、音が持続し、そして音が持続している過程で、ピッチ、音色、音量の各要素を微妙にコントロールできる、という共通の特徴がある。

 このため、音の立ち上がりの鋭さ、なめらかさ、持続している途中での音量変化やピッチ変化によって、メリハリのある力強い表現から、すすり泣くような繊細な表現まで、幅広いニュアンスを与えることができる。

 ただし、出せる音はひとつに限られるので、旋律の演奏はよいが、和声的な響きを出そうとすれば、ひとりでは無理で合唱や合奏の形態を取らざるをえない。  

 これに対してピアノやパイプオルガンなどの鍵盤楽器は、演奏者ひとりで複数の音を出せるという、声楽や管弦楽器にはない能力を持つが、それと引き換えに個々の音に微妙な変化を付けることはほとんど不可能となる。

 ピアノの場合は、打鍵のスピードと強さによって音色と音量をコントロールできるので、訓練を積めば、ある程度までニュアンスの表現が可能だが、それでも声楽や管弦楽器の表現には及ばない。

 これがパイプオルガンや電子オルガン、電子キーボードになると、キーは単なるオンオフ・スイッチで、演奏者は音を出すか出さないか、というタイミングの制御しかできなくなる。

 もちろん、そのタイミングによって、時間軸上での多様な表現が可能なのだが、個々の音の鳴り方は固定されてしまっている。声楽や管弦楽器のように自由に変化させることはできないので、どうしても一本調子で硬直した音になってしまう。

 声楽、管弦楽器よりもピアノが、ピアノよりもパイプオルガンが、またパイプオルガンよりも電子オルガンが無機的で、無味乾燥になりがちだとすれば、それは身体が発音に関与する度合いが低くなっていくにつれて、ひとつひとつの音をどのように鳴らすかを柔軟にコントロールできなくなっていくからだろう。

 ところが世の中には独創的な発想によって、音の鳴り方を極めて微妙にコントロールできる電子楽器を考案した人がいる。彼の名はレオン・テルミンLeon Theremin(テレミンと呼ばれることもある)。

 彼が1920年頃考案した楽器は、そのものズバリ、「テルミン」と呼ばれるが、これは電気回路を収めた箱にアンテナ状の金属棒と金属リングが取りつけられたもの。

 演奏者から見て楽器の右側に垂直に立っているのが、音高(ピッチ)コントロール用のアンテナで、このアンテナに手を近づけると音高が高くなり、遠ざけると低くなる。

 楽器の左側に、横向きに突き出しているリングは、音量調節用。このリングに手を入れると、音量はゼロとなり、手をリングから遠ざけると音量は増大する。  

 つまり演奏者は楽器にはまったく触れずに演奏するのだ。筆者はこの楽器の演奏を試みたことがあるが、いやもう、とんでもなくむずかしい。とにかく手を空中で動かすのだから基準点がなく、しかも無段階に音高が変化するので、音階音を確定することがむずかしく、旋律を演奏するのは至難のワザだ。

 しかし、世の中にはこのテルミンを使って、通常の音階からなる旋律を演奏してしまう奏者=テルミニストがいるのだから驚きである。

 今回紹介するのは、数少ないテルミニスト(筆者は2人しか知らない)の第一人者というべき、クララ・ロックモアの演奏するCD*。12曲収録されているが、なんといっても圧巻は、ラフマニノフの《ヴォカリーズ》。bcc:001で紹介したチェロ版もよいが、このテルミン版は、なんともいえない微妙な表現がなされていて、切々としたメロディーが迫ってくる。

 テルミンは単音楽器で、音色は単純かつ原始的な、いわゆるパルス波形(矩形波)のみ。しかしピッチと音量を無段階にコントロールできるので、いい加減に楽器音を模倣した電子音を単にオンオフするだけの電子オルガンやシンセサイザーなどよりは、はるかに人声や弦楽器に近いニュアンスを得ることができ、表現によってはちょっとゾクッとするところさえある。

 音楽において、ひとつひとつの音の鳴り方の微妙な表現がいかに重要であるかを痛感させるユニークな電子楽器だ。

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*The Art of the Theremin. Clara Rockmore (DELOS DE 1014)

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自分自身の感覚を疑う
---オルフの《カルミナ・ブラーナ》なんて知らない?

1999.05

 人間には自覚できる「意識」の部分と、通常は自覚できない「無意識」の部分があるという。この無意識の存在はフロイト以来、さまざまな心理実験によって立証されているのだが、私たちの日常的な体験にも、その存在を示す例がある。

 たとえば、あなたが、テレビドラマで見た俳優の名前を忘れてしまったとしよう。で、友人とこんな会話をすることはないだろうか。

「ねえ、ゆうべ、9時からのドラマに出てた、あのカッコイイ人、誰だっけ?」
「ああ、○○ね」、
「そうそう、○○。あの人、ホントにステキね!」

 他愛ない会話だが、よーく考えてみると不思議な会話だ。あなたは、○○の名前を忘れていた。そして、もし完全に忘れていたとすれば、友人が「ああ、○○ね」と答えても、確信が持てないはずだ。しかし、あなたはその俳優が○○であることを「思い出す」ことができた。

 ということは、あなたは、完全に忘れていたわけではない。どこかで、ちゃんと、その俳優が○○であることを覚えていた、ということになる。そう、こういう自覚できない記憶がたくわえられているところが、無意識なのだ。

 この無意識は、知らず知らずのうちに私たちの自覚的な意識に影響を及ぼす。たとえば、テレビ・コマーシャル(以下CF)は、主に商品を視聴者に知らせ、買わせよう、という目的で作られるが、視聴者が「そのCFを見た」という体験を思い出せない場合に大きな効果を発揮するという。

 「というのも、コマーシャルを自覚的に覚えている場合には、自分がその商品に惹かれて思わず買いそうになっても、コマーシャルのせいにできる。しかし、覚えていない場合には、コマーシャルのせいにはできない。つまり外的な正当化が不十分なので、商品のデザインや中身が気に入ったからというふうに、つまり自分が本当に好きだからと思い込んでしまうわけです。」*1  

 音楽の場合で考えてみよう。最近、CFの背景に、けっこうクラシックが使われている。ちょっと思いつくだけでも、ドリンク剤のCFにマーラーの第6交響曲第1楽章、ウィスキーのCFにバッハの無伴奏チェロ組曲ト長調前奏曲、外車のCFに、オルフの《カルミナ・ブラーナ》冒頭の《おお、運命の女神よ》などなど*2

 いずれもCFの中では、ほんの数秒~10数秒程度、提示されるだけだが、筆者はたまたまこれらの曲を知っていたので、自覚的に「ああ、あの曲だ」と気が付いた。しかし、これらの曲を知らない人の大部分は、気にも止めずに聴き流していると思われる。そして、これらの音楽が自覚的に記憶されずに、無意識的に記憶されたとしたら…

 何カ月後かに、あるいは何年後かに、ふたたびこれらの曲を聴いたときに、どういうことが起こるか。

 まず、無意識的にこれらの曲に反応するが、過去に聴いた、という明確な(自覚的な)記憶がないので、自分の無意識的反応を理由付けすることができない。そこで「これはいい曲だから、感動したに違いない」という理由付けをしてしまうのである。

 さらにこの考え方を拡大すれば、なぜ多くの人が好む「名曲」が存在するか、も説明できそうだ。簡単にいえば、それは無意識的に聴く機会が多いから、ということになる。

 名作映画のテーマ音楽や、クラシックの名曲は、しばしばスーパーやデパート、商店街、レストラン、あるいはテレビ番組のBGMとして流される。それを無意識的に聴いた人は、次にその曲を聴いたときには、その曲を「いい曲だ」と思うようになる。

 そうすると、その曲のCDが売れ、その曲の評判が高まり、いろいろな場面で流されるようになり、それをまた無意識的に聴いた人がその曲を好きになり…といったサイクルで自己増殖していくのではないか。

 こう考えると、「ワタシはこの曲が好きだ」などということを確信を持って言えなくなってしまう。音楽に限らず、好き嫌い、というのは極めて主観的な問題で、他人にとやかく言われることではない、と考えられがち。

 しかし、私たちが知らず知らずのうちに周囲から影響を受け、無意識的な記憶を植えつけられているにもかかわらず、「ワタシはこれが好きだ」と、あたかも自分で主体的に選び取ったような気になっているとしたら…

 この情報過多の現代社会では、他人の言うことを安易に信じない、というだけでは不十分であり、なぜ自分はそう思うのか、自分自身をも疑ってみなければならないだろう。

 あなたは例の外車のCFを聴いたかもしれない。そして将来あるとき、あなたは《カルミナ・ブラーナ》を聴いて感動するのである。

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*1:下條信輔著『サブリミナル・マインド』(中公新書1324)26ページ
*2:オルフ:カルミナ・ブラーナ デュトワ/OSM(LONDON POCL-1740)

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歌詞よりも音楽
---プッチーニ:《ある晴れた日に》

1999.06

 大ヒットした《だんご3兄弟》。最初に聴いてまず感じたのは、この曲がタンゴのリズムであること。おそらく「だんご」に掛けたシャレなのだろうが、筆者はかつて大流行した《黒ネコのタンゴ》を思い出してしまった。

 その後、テレビのニュース番組で、保育園の子供たちが、この曲のテレビ番組を見ている場面を見た。そこで気づいたのだが、どうも、子供たちはこの曲のリズムとアニメーションに反応しているようで、一緒に歌を歌っている子供も、フレーズの最後の部分以外はあまりきちんと歌っていない。つまり、長男や次男がどうのこうの、という部分は、子供たちにはほとんど理解されていないように見えた。

 おそらく子供たちにとっては、内容的なことはあまり興味の対象にはならないし、そもそも理解できないのだろう。今回は、この「歌詞の意味はわからないが聴いてしまう」ということを考えてみたい。

 以前、タモリが何やらデタラメの外国語を話すのを聴いたことがある。ドイツ語は、やたらに子音が鋭くブツブツ切れる、フランス語はズラズラ音がつながってアクセントが最後の音節にくる、中国語は独特の抑揚がある…というふうな特徴をうまくつかめば、単語や文法がまったくデタラメでも、その国の言葉らしく聴こえるから不思議だ。

 このことを拡大解釈すると、歌における歌詞の機能というのは、言語的・記号的な意味によるというよりも、抑揚、母音の音色の違い、子音の雑音的=打楽器的効果、韻律=リズムなどなど、純粋に音楽的なもの、あるいは音声学的なものと見ることができそうだ。

 だからイタリア・オペラやハリウッド・ミュージカルを、「日本語にすれば意味が通じる」と考えて、日本語の訳詞で歌うと、どうもしっくりこない、不自然な感じ、間の抜けた感じになってしまうのだろう。

 また、日本の作曲家が西洋音楽の技法で作曲した日本語のオペラのほとんどが、聴いていて歌詞がわかりにくいのも、日本語の音楽的な特性が、西洋の旋律様式、演奏様式、発声法と合致していないことからくると考えられる。

 そもそも北東アジア人である私たちが、言語的・宗教的にまったく異なる背景から生まれたクラシック音楽=ヨーロッパ芸術音楽を聴く、というのは、考えてみれば不思議なことだ。

 しかし、言語的・宗教的背景が異なるからこそ、かえって予断や先入観なしに、ヨーロッパ人よりも、純粋に音楽そのものを聴けるのではないか。

 たとえば、ドイツ語の歌詞を持つバッハのカンタータは、17~18世紀のドイツの社会的・宗教的背景を抜きにしては成立しなかったものだ。また、バッハ自身も、ルター派の教会音楽として聴かれることを前提としてカンタータを作曲したのだろう。

 しかし、その結果として生まれたバッハのカンタータの音楽的な部分は、あくまで抽象的な音の構成(歌詞の音声学的な側面も含めて)としての音楽であり、まさにその部分が、時代を超えて、また言語や宗教を超えて、現在でも多くの人々の心を打つのだ。

 ところで「感情の高まりが言葉に抑揚を与え、それが音楽的な旋律となって、歌に発展していった」という説がある。これは、一見、もっともらしく、私たちの日常的な体験にも一致するように思える。確かに、興奮すると大きく抑揚を付けて話しがちだ。ふつうは短く「ヤダ」というのを、感情が高まると「イヤ~~ダ~~」とフシをつけて言ったりすることがある。

 しかし、この場合は、すでに言葉の意味は後退していて、「何をしゃべっているか」という言語的・記号論理的な側面よりも、「どのように抑揚をつけてしゃべっているか」という音楽的な側面が優位に立っている、と見るべきだろう。

 歌の場合も、歌詞の内容そのものよりも、「どのように歌うか」が重要な意味を持つ。端的な例がイタリア・オペラのアリア。マリア・カラスと並ぶ大歌手、レナータ・テバルディの歌うオペラ・アリア集を聴いてみよう*。

 プッチーニのオペラ《蝶々夫人》の中の有名なアリア《ある晴れた日に》。改めて、その表現の激しさに驚かされる。しかし、それは歌詞の内容からくるものではない。

 このアリアが心を打つのは、あくまで激しい感情を託すことのできる旋律=音楽の作用と、テバルディの声と表現力による。もちろん、イタリア語の歌詞は、音声学的に重要な役割を果たしているが、純粋な記号としての歌詞には、これほどまでの感情を引き起こす力はない。

 試しに、これらの歌詞の日本語訳を朗読してみればわかる。たとえプロのナレーターが朗読したとしても、アリアのような感動までは引き起こさないだろう。

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*レナータ・テバルディ/ソプラノ・アリア名曲集(ロンドン POCL-1439/40)

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バッハ:アリアと種々の変奏 ト長調
---通称《ゴルトベルク変奏曲》

1999.07

 《ゴルトベルク変奏曲》BWV 988は、バッハの生前に出版された数少ない作品のひとつだが、出版譜では《2つの手鍵盤を有するクラヴィツィンバルのための、アリアと種々の変奏からなるクラヴィーア練習曲集》と表記されているだけ。

 では、「ゴルトベルク」とは何か。これは、J.N.フォルケル著『バッハの生涯と芸術』の中のエピソードに由来する。

 「(カイザーリンク)伯爵はしばしばライプツィヒに滞在したことがあり、先に名を挙げた〔クラヴィーア奏者〕ゴルトベルクをも、バッハの許で音楽を習わせようとして連れて来た。伯爵は病気がちで、よく不眠に陥った。伯爵の家に住んでいたゴルトベルクは、そんな時には隣室で夜を過ごし、伯爵の寝つかない間、何かを弾いて聴かせなければならなかった。ある時伯爵はバッハに向かって、自分が眠られない晩に少しは元気付けられそうな、穏やかで、いくらか陽気な調子のクラヴィーア曲を幾つか、ゴルトベルクのために作って欲しいものだ、と洩らした。…(中略)…それゆえ伯爵はこれをただ『私の変奏曲』と称した。彼はこれを、どんなに聴いても倦きることがなかった。そして永いあいだ、眠られぬ夜が来ると、『ゴルトベルク君、ひとつ私の変奏曲を弾いてくれ』と命じた。」
(柴田治三郎訳、岩波文庫青507-1、150~51ページ)

 なかなかもっともらしいエピソードだが、感心する前にちょっと待ってほしい。この本を書いたフォルケルは1749年生まれ。バッハが没したのは1750年。ということは、彼は生前のバッハは知らず、すべて「また聞き」でこの評伝を書いたことになる。

 だから、このエピソードを頭から信用するのは危険だ。実際、近年の研究では、上掲のフォルケルの記述は、当時の他の記録と照合したとき矛盾点がいくつかあり、信頼できないと考えられている。とすれば、本来、この曲は「アリアと種々の変奏 ト長調」と呼ぶべきなのだ。

 さて、バッハはこの曲では2段鍵盤チェンバロを指定している。当時の2段鍵盤チェンバロは、下鍵盤が余韻の長い響きであるの対し、上鍵盤の響きはわずかに余韻が短く、また倍音構成も異なって音色も微妙に違っていた。だからこの曲は2段鍵盤チェンバロで演奏したとき、独特の響きを聴かせる。特に第7変奏や第17変奏では、この2つの鍵盤の音色が織りなす響きが絶妙だ。

 ということで、今回は、最近発売された、日本の2人のチェンバリストによるCDを聴いてみよう。

 まず曽根麻矢子*1。使用しているのは18世紀にフランスで製作された楽器。いわゆるフレンチ2段鍵盤で、なかなかよい響きだ。しかし演奏は、やや硬質で無機的に感じられる。また、よくも悪くも気合いが入っていて、全体的にテンポは速め。「女性の演奏家」ということで、なまじ優雅で繊細な演奏を期待すると、裏切られるかもしれない。

 次に渡邊順生*2。使用楽器はこれもフレンチ2段鍵盤で、ルフェーブル(1755年)のコピーだが、曽根の楽器とは、だいぶ音色が違う。テンポも曽根よりは概して遅めだ。しかし決して地味とか、控え目な演奏ではなく、変奏によっては、かなりダイナミックだ。

 この二人、いずれも非常に上手に弾いていて、文句の付けようがない。ただ細かいことをいえば、ときおり、響きがガシャガシャした感じになるのが気になる。

 チェンバロの場合、その機構上、キーから指を離したとき、まずプレクトラム(弦を弾くツメ)が上から下へ弦をすり抜けて待機位置にもどり、その後にダンパーが弦を消音する。このとき、弦の振動が充分、減衰していれば、プレクトラムが触れてもほとんど雑音は出ないのだが、弦が大きい振幅で振動しているときに、プレクトラムがすり抜けようとすると弦がビリつき、不快な雑音を発生する。

 このため、チェンバロでは、速いテンポで演奏すればするほど、弦の振動が減衰しないうちにプレクトラムが弦に触れることになり、この雑音が耳につくのである。

 この点、武久源蔵*3やキース・ジャレット*4は、全体的に遅めのテンポで演奏していて、前述のようなガシャガシャしたイヤな音はほとんど聴かれない。おそらく、武久もキースも、速く弾こうと思えば、もっと速く弾けるはず。それを敢えて、遅めのテンポを採用しているのは、このチェンバロ特有の問題も考慮してのことと思われる。

 曽根と渡邊の《ゴルトベルク》、演奏も録音も一定水準をクリアしているので、大きく失望することはまずないだろう。ただ筆者としては、どちらかといえば武久やキースの方が気持ちよく聴ける。-

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*1:ERATO WPCS-10152
*2:CECILE RECORD IMS 9802
*3:ALM RECORD ALCD-1013
*4:ECM NEW SERIES POCC-1504

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bcc: 120
フレッシュな秋、見つけた!
---ヴィヴァルディ:《四季》より《秋》

1999.08

 秋。収穫の秋、読書の秋、食欲の秋、芸術の秋…。秋をテーマにした音楽もいろいろあるが、クラシックでまず思いつくのはヴィヴァルディの《四季》の中の協奏曲ヘ長調 op.8-3《秋》。今回は、1990年代に録音された4種類のCDを聴いてみよう。

◎ビオンディ/エウローパ・ガランテ(1991年録音)*1

 現代の古楽器系の演奏としては標準的な演奏だろう。特徴的なのは、通奏低音のチェンバロが目立つこと。それもそのはずで、チェンバロを演奏しているのはソリストとしても多くのCDを出している R.アレッサンドリーニ。使用している18世紀のイタリアン・チェンバロ自体も、なかなかよい響きだ。同じ曲でも、通奏低音の即興演奏の仕方によって、だいぶ趣きが変わることがわかる。

 これに対して独奏ヴァイオリンのビオンディは、いささか物足りない。音色が地味なのは好みの問題としても、音程がちょっと気になる。録音はよいが、ダイナミック・レンジは控え目で、音量レベルもあまり高くない。

◎カルミニョーラ/ソナトーリ・デ・ラ・ジョイオーザ・マルカ(1992年録音)*2  

 攻撃的な演奏。全体にメリハリが効いていて、テンポも速め。第1楽章のトゥッティなど、弦の響きが雑音的・衝撃的に聴こえるほどだ。特にソロのカルミニョーラの気迫がすさまじい。音色もかなり鋭く、耳あたりのよい滑らかな響きばかりではないが、しかしグッと引きつけるものがある。

 通奏低音には、チェンバロと、リュート属の低音楽器であるアーチリュートを使用しており、やわらかいアルペジョの響きが聴かれる。録音は高解像度でダイナミック・レンジが広く、音量レベルも高い。

◎コープマン/アムステルダム・バロック管弦楽団(1993年録音)*3

 ビオンディと同様、標準的な演奏で、ここでもまたコープマンのチェンバロが目立つ。これではヴァイオリン協奏曲ではなくてチェンバロ協奏曲。第2楽章では、上述のアレッサンドリーニよりもさらにチェンバロが前面に出ていて「チェンバリストが遊んでいる」という感じ。

 他方、独奏ヴァイオリンのマンゼはちょっとクセのある弾き方で、イマイチ、パッとしない。テンポはやや遅め。録音は標準的で、聴きやすい。

◎シルブ/イ・ムジチ(1995年録音)*4

 《四季》といえばイ・ムジチ、というくらい、日本ではなじみの深いグループ。この曲も、過去何回も録音している。今回聴いたのはイ・ムジチとしては新しい録音。モダン楽器を使っているため、各音域の音量バランスが、前3者とはまったく異なり、全体の響きはかなり厚く、重い。また、テンポも遅めで、ヴァイオリン独奏の箇所ではさらに遅くなる。

 シルブのソロは、よく歌ってはいるが、ちょっとくどい感じもする。このあたり、古楽器のあっさりした表現を好むか、モダン楽器のロマン派的な表現を好むかで、評価がわかれるところだろう。チェンバロは控え目。なお、通奏低音にはリュートも用いている。録音は標準的だが、やや人工的か。

 このように聴き比べてみると、それぞれ個性的な演奏で、微妙な違いはあるが、優劣は付けにくい。しかし筆者がひとつ選ぶとすれば、カルミニョーラ。何よりも、その生気あふれる、積極的で大胆な演奏に魅力を感じるからだ。アンサンブル全体もよく息が合っていて、鮮度が高い。躍動感あふれる新鮮な《秋》というのも、なかなかいいものだ。

 ただ、残念なことに、このカルミニョーラのCDは、国内盤がないので入手しにくい。で、どうしても、ということなら、アメリカのインターネット通販会社から入手できるかもしれない。

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*1: Vivaldi: Le quattro stagioni Europa Galante (Opus 111 OPS 912)
*2: A.Vivaldi: "Le quattro stagioni" etc. Giuliano Carmignola (DIVOX ANTIQUA CDX 79404) ※アメリカでは「Memoria #79404」となっていることがある。
*3: Vivaldi/ Le quattro stagioni The Amsterdam Baroque orch./ Ton Koopman (ERATO 4509-94811-2)
*4: Vivaldi-The Four Seasons I Musici (PHILIPS 446 699-2)

【追記】

 1999年暮れに、アンネ=ゾフィー・ムターによるCDが発売された(DG 463 259-2)。ムターはかつてカラヤンと《四季》を録音しているが、当時は、全面的にカラヤンの意向に沿って演奏していたことだろう。しかし今回は、ムターが主導権を握って、若手の弦楽アンサンブルとともに演奏しているようだ。

 ライブとのことで、気合いが入った演奏。ただ、ムターのヴァイオリン・ソロの弱音部で、ほとんどヴィブラートを付けない音色で弾いているところは、好みが別れるだろう。

 このムターの《四季》、筆者個人としてはカルミニョーラ、スタンデイジに次いで、第3位にランクしたい。(2000.01)

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20世紀の宗教音楽
---ショスタコーヴィチ:オラトリオ《森の歌》

1999.09

 芸術作品の価値判断はむずかしいが、「時が評価を下す」ということがある。つまり、作られてから数十年、数百年経過しても広く受け入れられる作品はそれなりの普遍的な価値を持ち、「不朽の名作」とみなされるわけだ。

 「クラシック音楽」というのは、本来はこういった「時の審判を経た音楽」を意味するのだが、20世紀に作られた、いわゆる「現代音楽」は果たして時の試練に耐えられるのかどうか。

 実際にはクラシック音楽にも流行があり、ある時期は無視されていた作曲家が再評価されることもあるが、おおまかにいって作曲後あるいは初演後「50年」というのが、ひとつの目安になるような気がする。50年後に演奏され、聴かれ続けている作品はクラシックとして評価が確定した、定着した、と考えてもよさそうだ。

 そこで、今から50年前の1949年に、どのような音楽が作られたかちょっと調べてみた。ブレーズが《弦楽四重奏のための書》を完成。メシアンがピアノ曲《カンテヨージャーヤー》を、ショスタコーヴィチが第4弦楽四重奏曲を、シェーンベルクがヴァイオリンとピアノのための《ファンタジー》と無伴奏合唱曲《三千年》を作曲。12月2日、バルトークのヴィオラ協奏曲初演。12月15日、ショスタコーヴィチのオラトリオ《森の歌》初演。

 ちなみに、1949年には中国に共産主義政権が誕生し、ジョージ・オーウェルが全体主義体制のもとでの個人の抑圧を描いた小説『1984年』を発表している。ソ連を中心とする東側共産主義陣営と、アメリカを中心とする西側資本主義陣営の対立が深刻化し、この後、全面核戦争の恐怖が世界をおびやかすようになった時期だ。

 前掲の曲のうち、こういった背景から特に目をひくのはソ連の作曲家ショスタコーヴィチの《森の歌》。そもそもソ連は、20世紀初頭に、ロシア帝国を革命で倒して誕生した国で、マルクス・レーニン主義による共産主義社会を建設しようとした。その理念は、人民(労働者)が主体の国家(のはず)だった。

 しかし、急激な変革は社会のあらゆる局面で歪みを生じ、やがて官僚支配の全体主義国家となり、特にスターリンの独裁政治下では多くの国民が粛正、強制労働、シベリア追放などの迫害を受けた。スターリンは第2次大戦では米英と組んだが、大戦終了後は西側陣営と対立し、文化面でも当時の「西欧文化」を極度に嫌った。

 これが芸術面で表面化したのが1946年に始まるジダーノフ批判。ソ連における芸術の在り方を規定したもので、たとえば音楽は一部の音楽通にしか通じないような難解なものであってはならず、民族的伝統に立脚した、広く国民大衆が楽しめるものでなければならないとして、西欧風の現代作品を書いていたプロコフィエフやショスタコーヴィチたちが批判されたのである。

 そして、この批判に対するいわば「反省のしるし」として書かれたのが《森の歌》だった。

 だからこの曲は、日本も含めて「西側」では敬遠されてきた。共産主義のプロパガンダ(政治的宣伝)の道具とみなされたからだ。確かに、この曲の歌詞は当時のソ連の体制に密接に関連しており、スターリンとおぼしき指導者を讃える箇所もある。

 この意味で、この曲はスターリン主義という独裁的・全体主義的な「カルト宗教」と、その教祖スターリンを賛美する「宗教音楽」といっても過言ではない。  

 しかし、現代の私たちは、グレゴリオ聖歌やミサ曲、モテト、あるいはレクイエムといったキリスト教の音楽を、宗教的コンテクストやキリスト教史から切り離して、あくまで音楽として聴くことができる。

 同様に《森の歌》も、スターリンの圧政や旧ソ連の全体主義体制と一緒くたに断罪して葬り去るのではなく、むしろ過去のしがらみを払い落として、純粋に音楽作品として評価することができるはずだ。

 テミルカーノフ指揮の1998年録音のCD*を聴いてみよう。この曲は、調性が明確でわかりやすく、なかなかいい音楽に思えてくる。また、歌好き、合唱好きのロシア人の民族的伝統が独唱や合唱に活かされていて、心暖まる素朴な響きを聴かせるし、特に終結部は、やや盛り上げ過ぎの感もなきにしもあらずだが、迫力があり感動的だ。

 これは演奏がよいことにもよるが、基本的にはショスタコーヴィチの作曲家としての力量が、この曲を、単なる権力迎合的なゴマすりの音楽以上のものにした、ということなのだろう。そしてまた前述のジダーノフ批判も、スターリンにおもね、彼の意に沿わない芸術家の表現の自由を奪った点は容認し難いとしても、「誰でも楽しめる音楽」の復権をめざしたという点では、しばしば聴衆不在で難解になりがちな西欧の前衛音楽への正当な批判だったともいえるのである。

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*On Guard for Peace. Temirkanov, St. Petersburg Philharmonic Orch (RCA 09026 68877 2)

【追記】
 筆者は共産主義を信奉するものではない。ソルジェニーツィンの著作をいくつか読み、北東アジアの某社会主義国の批判本、擁護本ともにいくつか読んでいるので、幻想は抱いていない。しかし、だからといって市場経済、資本主義経済が現在のままでよいとも思えない。また人権の抑圧、悪しき官僚独裁は社会経済体制に関係なく存在すると考えている。

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中世の和声感覚の謎
---マショー:《ノートルダム・ミサ》

1999.10

 西洋音楽を特徴づける要素のひとつに「和声」つまり同時に複数の音が鳴り、その響きがさまざまに変化していく、という側面がある。しかし、最初から西洋音楽に和声が存在したわけではない。現存する最古の和声的な音楽の例は、9世紀半ばの理論書に記載されている「平行オルガヌム」で、グレゴリオ聖歌の旋律(主声部 Vox principalis)に、完全8度、完全5度、完全4度で平行進行する声部(オルガヌム声部 Vox organalis)を付したものだった。

 ただ、これらを聴いてみると「和声音楽」という感じはしない。グレゴリオ聖歌が「厚みを増した」というか、視覚的にいえば「影が付いた」というイメージ。しかし、これが出発点となって「異なる旋律を同時に歌う」という発想と、ひいては和声音楽が発展していったという点では重要だ。

 10世紀に登場する「自由オルガヌム」では、主声部とオルガヌム声部が反進行、斜進行、平行進行をするようになり、12世紀には、オルガヌム声部が細かく動く「メリスマ・オルガヌム」が、13世紀には、オルガヌム声部が一定のリズム・パターン(リズム・モード)で歌われる「ノートルダム・オルガヌム」が登場する。

 ところで、これらの各種オルガヌムを聴くと、ちょっと奇妙な感じがする。それは、長短3度の和声的な響きが聴こえてこないからだ。この時代、「協和音程」として認められていたのは完全8度、完全5度、完全4度で、これ以外の音程はすべて「不協和音程」とみなされていたらしい。

 そして、音楽の主要な部分、たとえばフレーズの始まり、終わり、歌詞の音節の変わり目などには、協和音程の使用しか認められず、3度や2度の音程は、経過的に現れるときのみ、許容されていたらしいのだ。

 このため、各種オルガヌムでは、空虚な8度や5度が頻繁に聴かれ、その中に、ときおり3度音程や2度音程が入り混じっていて、なんとも奇妙に感じられることになる。

 ではなぜ、この時代の音楽には、8度や5度が優勢なのか。諸説あるのだが、興味深い2つの説を紹介しよう。

 第1の説は、音響学に基づくもの。倍音列から得られる濁りのない音程の振動数(周波数)の比を調べてみると、完全8度は1:2、完全5度は2:3、完全4度は4:3となる。ここまでの比に含まれる素数は2と3。

 これに対して、倍音列から得られる、いわゆる純正な長3度は4:5、短3度は5:6となる。ここでは、新たに素数5が登場する。この点から「中世までは、素数2、3を含む音程は協和音程として認識されたが、5以上の素数を含む音程は、協和音程と認識されなかった」という仮説が出てくる。

 つまり、この説からすると、中世の人たちは、長短3度音程を現在の私たちのようには「美しい響き」と感じなかった、ということなのだ。

 第2の説は、当時のキリスト教の音楽観からのもの。この説によると、中世の人たちも、3度の響きは「美しい響き」と感じていたのだが、教会がこの使用を禁じたのだ。なぜ教会は禁じたか。それは現代の私たちが単純に「きれいな響き」と感じる3度音程の「美しさ」に問題があったから。

 禁欲主義的な考え方からすれば、「美しさ」とは感覚的満足=快楽に向かいがちで、そのような快楽を求めることは神への信仰から外れる危険がある、とみなされたのだ。

 一般に西洋音楽はキリスト教とともに発展してきたとみなされているから、この考え方はちょっと意外に思えるかもしれないが、キリスト教はあくまで神を賛美するため、また人々の信仰心を高めるために音楽を利用したのであって、その目的に適合する音楽は認めたが、そうでない音楽、たとえば、異教的起源の舞踏音楽や器楽などは、しばしば禁止している。

 さて、教会音楽において長短3度を組み合わせた三和音の響きが優勢になるのは、およそ15世紀以降のことだ。

 そこで、今回紹介するのは、14世紀ヨーロッパで絶大な人気を誇ったフランスのギョーム・ド・マショー(1300頃~1377)の《ノートルダム・ミサ》のCD*。

 この作品はミサ通常文(キリエ、グロリアなど)をまとめて作曲した初期の例のひとつで、作曲技法上でもいろいろ興味深い特徴があるのだが、なんといっても不協和な響きに圧倒される。しばしば出現する二重導音(たとえば、アルトがcis→d、バスがgis→aと動く)もすさまじい響きで、通常の三和音に慣れた耳には破壊的に感じられるほどだ。

 この、なんとも摩訶不思議な和声感覚は、ある意味では前衛的でさえある。マルセル・ペレの解釈も独特で、コブシの効いた唱法がおもしろい。 -

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*Machaut - Messe de Notre-Dame. Ensemble Organum/ Marcel Pérès(仏harmonia mundi HMC 901590)

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小型パイプオルガンのススメ
---バッハ:《6曲のトリオ・ソナタ》BWV 525-530

1999.11

 バッハのオルガン曲《6曲のトリオ・ソナタ》は、シンプルながらなかなか侮れないクセもの。ジョン・バットが演奏するCD*1を聴いてみよう。

 まずこれら6曲は、ちょっと聴きには極めて簡単そうだ。それもそのはず、右手で1声部、左手で1声部、足鍵盤で1声部の計3声部を弾くだけ。しかし見かけとは裏腹に、難易度は非常に高い。たとえばオルガン曲の定番《トッカータとフーガ ニ短調》BWV 565より、技術的には、はるかにむずかしい。それは、この6曲が3声部を完全に独立して演奏することを要求するからだ。

 そもそも、この6曲はオルガン独奏曲なのに、なぜ「トリオ・ソナタ」なのか。本来トリオ・ソナタというのは、2つの独奏楽器と通奏低音(たとえばヴァイオリン2丁とチェロ、チェンバロ)で演奏される室内楽の一形態。つまり、3〜4人のソリストで演奏されるものだが、バッハはそれをひとりで演奏するようにしたのだ*2。だからこの曲を聴いて「簡単そうだからちょっと弾いてみようか」などと思ったらおお間違い。「ひとり3役」はけっこう大変なのである。

 さてこのCDでは、音の立ち上がりが明確で声部が混濁することがなく、音楽が非常に直接的に響いてくる。これは2段手鍵盤と足鍵盤、22ストップという、比較的小型のパイプオルガンを用いているからだ。

 パイプオルガンといえば、ものすごい残響とともに、大音量、重低音を響かせるもの、というイメージがあるが、このCDはその対極。またバットは必要最少限のストップで演奏しているため、音は軽く、いわばリコーダーの、あるいは南米のケーナの合奏に近い素朴な「風の音」が聴かれる。しかし、だからといって決して弱々しい響きではない。パイプの発音は雄弁で、適度なチフ*3が音のアタックを明確にし、メリハリを付けている。

 さらにこのオルガンは18世紀初頭のドイツの様式に基づいており、鍵盤からパイプ直下のパレット(弁)までが木の棒で接続される機械アクションを採用している。この方式は鍵盤の反応が速く、さらに小型になれば鍵盤からパレットまでのアクション全体が短く軽くなり、演奏者がより直接的にパイプの発音をコントロールできるようになる。その結果、このCDではシンプルながら鮮度の高い音楽が聴かれることになる。

 つまるところオルガンもまた「量より質」。楽器の良し悪しは規模で決まるものではない。にもかかわらず、とかくオルガンは規模の大きさで評価されがち。また楽器としての本来の機能よりも、ホールの視覚的な飾りとして見栄えのよい大オルガンが好まれることもある。

 このため、依然としてわが国のクラシック・ホールには大型のパイプオルガンが設置されるが、どれくらい活用されているのだろう。過日も東北のS市のホールに設置された、5段手鍵盤+足鍵盤、115ストップという大オルガンのCDを聴いてみたが、このバットの演奏ほどには感動できなかった。このCD、選曲も筆者にとってはつまらないこともあるが基本的にオルガンの規模に問題があるように思える。確かに多彩な音は出てくるし、反応も十分速いようだが最終的な演奏の印象は単調・平板で機械的だ。

 これはつまり、あまりに巨大な楽器は人間の制御能力を超えているからだろう。この怪物のようなオルガンの前では、ひとりの人間=オルガニストなど無力に思えてくる。単に「音」を出すのが精一杯で、音楽が表現できるとは思えない。

 いずれにせよ大オルガンを設置する予算があるなら、それこそ4ストップの小型オルガンを20台作って、市内の小学校や中学校に設置する方が、よほど地域の音楽文化の向上に寄与するだろう。

 ダビデはゴリアテを倒す。

 古い話になるが、大艦巨砲主義の究極ともいうべき旧日本海軍の戦艦大和はアメリカの戦艦によってではなく、空母から発進した航空機によって撃沈された。最近の話でいえばメインフレームコンピュータによる集中処理の時代は終わり、分散処理の時代になった。日本は狭い島国のためか、しばしば「大きいことはいいことだ」となるのが、かえって情けない。オルガンについてもストップ数や価格を競う面があるが、そろそろ「量より質」に向かうべきだろう。筆者は5段鍵盤100ストップのオルガンよりも、よくできた2段鍵盤20ストップ〜3段鍵盤40ストップのオルガンを選ぶ。ただしここで「よくできた」というのは単に音色の美しさだけではないし、まして外観の美しさでもない。

 オルガン演奏の成否は時間軸上の音のコントロールにかかっている。したがってオルガンには、演奏者の意図に忠実に反応する鋭敏な鍵盤アクション(発音メカニズム)を備えることがまず第一義的に要求されなければならない。そしてこの反応のよさは、前述のように小型〜中型オルガンでなければ、まず実現できないのだ。

 またたとえアクションが充分に鋭敏であっても、大オルガンには本質的な問題点がある。それは楽器の規模が大きくなるにつれて演奏者とパイプの距離が広がり、演奏者に届く音に遅延が生じることだ。演奏者は自分の出している音を常にモニターし、次に出す音のタイミングにフィードバックして演奏するが、遅延が大きくなるにつれてこのフィードバックが困難となる。有能なオルガニストはある程度遅延を見越して、いわば先読みで演奏するが、急速なテンポになるとどうしても生気や躍動感を失い単調に陥る。

 この意味で、ある限度を超えた大オルガンは進化の袋小路に入り込んだ恐竜のように自らの巨体を持て余すことになるのだ。20世紀初頭にバロックオルガンに回帰する運動がヨーロッパで起こったのも、単に反ロマン主義や懐古趣味ではなく、適正な規模のオルガンの再評価だったといえるだろう。

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*1: J.S.Bach Sonates en trio. John Butt(仏ハルモニアムンディ HMX 2957055)
*2: 《イタリア協奏曲》と同じ発想。
*3:パイプに空気が流入した瞬間に生じる「プシュッ」という破裂音。


・この録音に使用されているオルガンのストップリスト:
Greg Harrold Organ, Opus. 7, Hertz Memorial Hall of Music on the Berkeley campus of the University California.
Hauptwerk: Oberwerk: Pedal:
Bordun 16' Rohrflöte 8' Bordun Baß (HW) 16'
Principal 8' Quintadena 8' Principal Baß (HW) 8'
Gedackt 8' Principal 4' Octaven Baß 4'
Octav 4' Hohlflöte 4' Trompeten Baß (HW) 8'
Nasat 3' Octav 2'
Flöte 2' Terzian II
Terz discant Scharf III
Mixtur V Regal 8'
Trompete 8'
Krummhorn 8'

【追記】

(1)「大オルガン」の定義

 オルガンはひとつひとつ仕様が異なり、単純にストップ数や鍵盤数で比較することはむずかしい。手鍵盤が4段以上、ストップ数が60以上がだいたい大オルガンということになるだろうが、もうひとつの基準として32'ストップを備えるオルガンを「大オルガン」とする考え方がある。

 32'ストップ(記譜音よりも2オクターブ下の音を出す)はほとんどの場合ペダル鍵盤に備えられるが、音響学的には倍音が強くなったときに低音側も拡張しないと聴感上のバランスが取れないからで、32'ストップを持つということは高音域のストップ(倍音ストップ、混合ストップ、リードストップ)も多い、つまりはオルガン全体として大規模であることを意味する。

 また開管の32'は最大パイプ長が約10 mとなり、外見的にも巨大な印象を与える(閉管では管長は半分の約5 mとなる)。

(2)音源との距離の問題

 筆者がオルガンを演奏する際に演奏者とパイプの距離を問題とするのは2つの体験による。

・電動コンソール

 東京のサントリーホールのオルガンを試奏したとき。パイプの直下のコンソール(機械式アクション)と、舞台上に置かれた移動可能な電動コンソール(電気式アクション)を試奏したのだが、電動コンソールを演奏したときにはパイプからの音の遅延の大きさに驚かされた。目測だが、パイプとの距離は10m程度だろうか。仮に音速を330 m/sとすれば、10mの距離では遅延は30ミリセコンドだが、この遅延は感覚的には非常に大きく感じられた。

 この電動コンソールで演奏する場合は、パイプからの音を聴いていたのでは速いテンポでは演奏できない。音を聴かずに先に進まなければならない。ヴァージル・フォックスやカルロ・カーリーといったコンサートオルガニストはこのような遅延をものともせずに演奏するだろう。しかし、微妙な時間のコントロールがどこまで可能かは疑問だ。大オルガンによる演奏は音の響きそのものには華麗さと壮大さがあるものの、しばらく聴いていると退屈してしまうことがある。これは音楽の本質であるリズムなどの時間軸上の微妙なコントロールができないために、演奏の躍動感、鮮度感が乏しくなるからだ。

・テルミン

 筆者はテルミン(イーサウェーブテルミン、米国製)を持っている。この楽器に付属していたビデオの解説には「スピーカーを極力、演奏者の耳の近くに置くこと」という指示があった。テルミンではロッドアンテナに手を近づけるとピッチが上がり、遠ざけるとピッチが下がる。何もない空間で手を動かすので、一定の音程を維持したり、音階音を演奏するのは非常にむずかしい。

 熟練した奏者でも音高を一発で決めることはむずかしいようで、どうしても微調整が必要となる。そのために奏者はスピーカーに接近して自分の出した音を聴くことにより、最短時間で音高の補正をするのである。もしこの距離が開いてしまうと、補正したことが聴衆にもわかってしまう、ということらしい。

 実際、テルミンの録音をいくつか聴いてみると、音の立ち上がりの部分でわずかにポルタメントがかかっているのがわかる。これはある程度までは「味」になるといえるが、過剰になれば音程が不安定な印象を与える。

 ヴァイオリンを肩にあてて演奏するのも、運弓上の要請だけではなく、音源に耳を近づけて補正をすばやく行うためかもしれない。

(3) 2003年1月、興味深い書籍が刊行された。

草野厚:『癒しの楽器 パイプオルガンと政治』
文春新書298、文芸春秋
ISBN4-16-660298-5

 『バブル期、多くの地方自治体がパイプオルガンを導入した。いま、その多くは「宝の持ち腐れ」である。特権的な一部の演奏家しか利用できなかったり、故障だらけで法外なメンテナンス費用が毎年かかったり、税金で買ったことを十分に認識していないとしか思えないケースがたくさんある。そして、オルガンの機種選定や音楽ホールの運営委託に於いても、国立大学教員などによる不明朗な動きが数々見られる。クラシック音楽の世界も腐敗と無縁ではないのだ。』(本書カバーから)

 『個人的には、音楽専用ホールとは限らず、学校や高齢者施設などの公共の場に、比較的小規模のオルガンが設置されていくことを願っている。』(187ページ)

(4)ヴァルヒャの演奏するシュニットガー・オルガン

 ヘルムート・ヴァルヒャHelmut Walchaの『バッハ以前のオルガンの巨匠たち Orgelmeister vor Bach』(ARCHIV)も、II/P/30という小規模なオルガンを用いている。このオルガンは1680年にアルプ・シュニットガーArp Schnitgerによって建造された歴史的オルガン。現在はカペルCappel(ドイツ・ホルシュタイン州ヴルステン地方の小村)にある。この楽器はペダルのストップが充実しており、手鍵盤のストップをカプラーでプルダウンする必要がない。スウェーリンク、シャイト、トゥンダー、リューベック、ブルーンス、ベーム、ブクステフーデ、パッヘルベルの作品を、堅実で明快な響きで聴くことができる(1977年録音)。

Hauptwerk: Rückpositiv: Pedal:
Quintadena 16' Quintadena 8' Untersatz 16'
Principal 8' Gedackt 8' Oktave 8'
Hohlfløote 8' Principal 4' Oktave 4'
Octave 4' Rohlflöte 4' Nachthorn 2'
Spitzflöte 4' Oktave 2' Rauschpfeife II
Nasat 3' Sifflöte 1 1/3' Mixtur IV-VI
Gemshorn 2' Sesquialtera II Posaune 16'
Rauschpfeife II Terzian II Trompete 8'
Mixtur V-VI Scharf IV-VI Cornet 2'
Zimbel III Dulzian 16'
Trompete 8'

(5)リヒターの演奏するマークセン・オルガン

 カール・リヒターKarl Richterが1960年代の録音(DG)に使用したマークセン(マルクッセン)Marcussen・オルガン(デンマーク、コペンハーゲン近郊のイエスボーJægersborg教会、当時)も、III/P/25の小規模なオルガン。極めて反応がよいのは、ビルダーであるアナスンPoul-Gerhard Andersenの力量によるところが大きいと考えられるが、個性的なストップを厳選し、無駄を削ぎ落としたストップ仕様によって全体をコンパクトにし、その結果トラッカーの長さを短くできたことにもよるだろう。オルガンはむやみに肥大化させるべきではないことを教えてくれる。

出典: Andersen, Poul-Gerhard. 1969. Organ building and design. translated by Joanne Curnutt. New York: Oxford University Press. (original Danish version published 1956)

Hovedvœrk Rygpositiv Crescendovœrk Pedal
Principal 8' Trægedakt 8' Gedakt 8' Subbas 16'
Rørfløjte 8' Principal 4' Quintatön 8' Oktav 8'
Oktav 4' Rørfløjte 4' Principal 4' Gedakt 8'
Dækføjte 4' Quintatön 2' Blokfløjte 4' Oktav 4'
Quint 2 2/3' Nasat 1 1/3' Gemshorn 2' Fagot 16'
Oktave 2' Scharf II Sivfløjte 1' Cornet 2'
Mixtur V Vox humana 8' Sesquialtera II
Trompet 8' Cymbel III
Dulcian 16'
Krumhorn 8'

last updated: 2009.11.05

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「聴く温泉」ガイド
---ブルックナー:交響曲 第9番 第3楽章

1999.12

 『アダージョ・カラヤン』シリーズのCDがロングセラーらしい。すでに5種類リリースされ、また他のレコード会社からも「柳の下のドジョウ」狙いの便乗CDがけっこう出ている。しかし、なぜ今「アダージョ」なのか。多少、仕掛けられた面があるとはいえ偶発的なブームだろうが、なんとなく世相を反映しているようにも思える。

 音楽療法に「同質の原理」という考え方がある。これによると、落ち込んでいる人を元気づけようとして明るく活発でリズミックな音楽を聴かせると、かえって拒否反応が起こるという。そこで、まずはその人の精神状態に合った、静かで慰めるような音楽を聴かせ(同質の音楽を聴かせる)、少しづつ明るく活発な方向に変化させていくと、それにつれてその人の気分も明るく元気になっていくのだそうだ。

 この原理からすると「アダージョ・ブーム」は、少なくとも日本の場合「高度経済成長神話」に踊らされて夢中で働いてきた人々が、バブル経済の崩壊とその後の経済の低迷によって、ちょっと意気消沈している、元気がなくなっていることを反映しているといえそうだ。「アダージョ」つまり「心を慰められるようなゆったりした音楽」を求めるということは、それだけ気分が落ち込んでいるのだ。

 このアダージョ・ブームと並行して「癒しの音楽=ヒーリング・ミュージック」という言葉もだいぶ定着してきた。一見もっともらしいが、「音楽に癒されたい」ということだけになると、受け身の発想で音楽に逃避することになり、甘えている感じがする。現実に立ち向かっていくパワーを蓄えるために「ちょっと音楽でひと休み」ぐらいが健全だろう。

 また「癒しの音楽」の文脈では、しばしば「音楽は心の薬」とか「聴く薬」といわれる。薬でいうと、アダージョものはさしずめ疲れたときに飲む各種ビタミン剤やドリンク剤といったところか。ビタミン剤も、適量は効果を発揮することもあるようだが現実には効果がないことも多く、過剰に摂取すると副作用もある、といわれている。対症療法で薬を投与するにせよ、予防のためにビタミン剤を飲むにせよ、薬に頼りすぎるのは危険。効かない薬は気休めで、効く薬には副作用が付きものだ。

 音楽は人間の心に、また時として身体にまで大きく影響することがあるとはいえ、しょせん、つかみどころのない気分的なもの。今さら「癒し」だの何だのと過大な期待をかけるのは滑稽だ。音楽の心理作用は太古の昔からわかっていることで、だから人間はさまざまな音楽を奏で、聴いてきたのである。

 いずれにせよ、そろそろアダージョからアンダンテあたりに進んでもいいような気がするが、かといって筆者はどこぞの省庁の長官のように「景気が回復しつつあるような兆しがムニャムニャ」といいたいわけではないし、カラ元気を出そう、というつもりもない。ただ、たとえ慢性的に疲れているにせよ、アダージョばかり聴いていると、はじめはリラックスして気分がよくなっても度が過ぎれば弊害も出てきそうなので適当にしておきましょう、ということ。

 これは温泉に似ている。温泉に入れば気持ちよく、身体の疲れも取れる…というより「取れたような感じ」がする。しかし、これはあくまで気分的なもので、のべつ温泉につかっていたら「湯あたり」して逆効果。温泉というのは、のんびりするためにたまに入るぐらいがちょうどいいのだ。

 そこで今回紹介するのは良質な「聴く温泉」。ブルックナーの第9交響曲の第3楽章アダージョだ。チェリビダッケ/ミュンヘン・フィルの演奏*を聴いてみよう。ブルックナーは「アダージョ作曲家」と呼ばれるほど、ゆったりとして幅広く、豊かな響きの音楽を好んだ。これは最後の3つの交響曲第7, 8, 9番(未完)に端的に現れている。

 大規模管弦楽のアダージョとしてはマーラーのアダージョも人気があり、元祖『アダージョ・カラヤン』の最初に収録されている第5交響曲第4楽章アダージェットもいい温泉だが、筆者としてはブルックナーを選ぶ。マーラーのアダージョは、かすかに硫化水素の(ゆで卵の腐ったような)匂いがし、一部、感傷的あるいは甘ったるいところが鼻につく。

 他方、ブルックナーのアダージョは、これはもうオーストリアの田舎のひなびた温泉で、刺激臭はなく無色透明でクセがない。お湯もたっぷりで、このCDでは第3楽章だけで約30分。しかし、やわらかい泉質なので湯あたりすることはないだろう。年に数回ぐらい、この音楽にじっくりつかってみるぶんには、適度の健康増進効果が期待できそうだ。

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*Bruckner: Symphony No.9. Münchner Philharmoniker/ Celibidache (EMI 7243 5 56699 2 6)

【追記】
 このCDの解説には、チェリビダッケが禅の思想に共感していることが記され、様式化された「常」の赤い印が掲載されている。ここでの「常」は「とこしえ」つまり「永遠」の象徴とされている。2006.8.21

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bogomil's CD collection 1999

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