bogomil's CD collection: 032

「こんな曲、ぼく知らないよ」とバッハいい

トッカータとフーガ 二短調

 バッハのオルガン曲のなかでもっとも有名な曲といえば《トッカータとフーガ ニ短調BWV565》(以下、「ニ短調トッカータ」)だろう。かくいう筆者も、最初にレコードで聴いたオルガン曲はこの曲だった。

 演奏はF.ジェルマーニ。中学生のころ真空管式ラジオに小さなレコードプレーヤをつないで聴いた。モノラルでかなりひどい音質だったはずだが、すばらしい感動だった。毎日繰り返し聴いた。学校にある足踏み式リード・オルガンで、トッカータの部分はなんとか手だけで弾いたりもした。だから個人的にはこの曲への思い入れはかなり強い。しかし現在ではこの曲をバッハの代表的オルガン曲とするのは間違っている、といわざるを得ない。

 かつて、この曲は「バッハの円熟期の大作」であるかのように評されてきた。しかしバッハについての研究が進むにつれ、この曲がバッハの代表作と呼べるような代物ではないことがわかってきた。まあ最大限好意的に見て、若いころの習作といったところ。

 この曲には、バッハの先輩にあたるパッヘルベルの《トッカータ ホ短調》を拡大したような面があるし、フーガ主題の前半は同じく先輩格のブクステフーデの《前奏曲とフーガ ニ短調BuxWV140》に見られる。バッハは先人の作品中の主題を拡大して作曲することがしばしばあったので、ニ短調トッカータもそのようにして作られたものと考えれば、まあ納得がいく。ところが最近はもっと大胆な説まででてきた。バッハ研究家P.ウイリアムズは次のようにいっている。

 「この曲はあらゆるオルガン曲の中でもっとも広く愛好されているが、いくつかの疑問がある。この曲はもともとニ短調で書かれたのか?最初からオルガン曲として書かれたのか?もしそうでないなら、誰がオルガン用に編曲したのか?そもそもバッハの作品なのか?

 この曲についてはモーツァルトの時代よりも以前の資料は残っていない。そして、この曲は広く親しまれているものの、バッハとその時代にはまったくそぐわない特徴を数多く示している。この曲の目立つ特徴のいくつかは大いに議論を呼ぶものだ。

 たとえば、バッハの作品で、短調の変終止で終わる曲が他にあるだろうか?フーガの中で、主題がペダル・ソロで提示されるのはおかしくはないか?バッハの他のオルガン曲で、オクターブの平行進行で始まるものがあるだろうか?また劇的な減七の和音というような単純な効果が、バッハのものといえるだろうか?」

(argo 411 824-1のライナーノーツより[注1])

 かなり過激な見解だが、ご説ごもっともでちょっと反論できない説得力がある。ウィリアムズに指摘されるまでもなく、バッハの他のオルガン曲に比べてこの曲がうすっぺらで構築性に欠けていることは否定できない。またオルガニストなら誰でも知っていることだが、この曲は派手な感じがするけれどもバッハのオルガン曲のなかでは極めて演奏容易な、簡単な曲だ。

 つまりニ短調トッカータは演奏者にとっても聴衆にとっても手ごろな曲であり、そして、それだからこそポピュラーになった、といえるのである。「名曲」の条件、正確にいえば「一般受けする名曲」の条件、それは適度にわかりやすく、あまり複雑、難解であってはならないのだ。この意味ではニ短調トッカータは研究家が何といおうと「名曲」であり続けるだろう。

 ではバッハのオルガン曲の中で「すぐれた曲」という意味で「名曲」と呼べるのは何だろう。

 など枚挙にいとまがないほどだが、筆者がもし1曲挙げるとすれば、

だ[注2]。

 前奏曲もフーガも堅固な響きで、圧倒的にしかも決然と進んでいく。短調からくる悲劇的な性格は、感傷的ではなく、無骨でもないし、芝居がかってもいない。オルガンの持ち味を最大限に活かしながら、決して無理をしていないところがいい。フーガでは最後に冒頭部が再現されるが、この再現部も圧巻だ。

 ただ、この曲、特にフーガは演奏者によってかなり趣が異なる。たとえばP.ハーフォードの演奏は録音はよいが、フーガのまとめ方にちょっと難がある。筆者が気に入っているのはカール・リヒターの演奏[注3]。今となっては古い録音(1966年)で、編集の継ぎ目らしき箇所もあるが、いまだにこれをしのぐスピード感ある演奏には出会っていない。

 このリヒターの演奏、国内版のCDもある(「J.S.バッハ:オルガン作品集I」、ARCHIV F20A 20062)。ちなみに、このCDにはニ短調トッカータも収録されていて、この曲の演奏としてはすばらしいものだがスケール感の点ではBWV 548がはるかに壮大だ。どちらがほんとうの「名曲」か、聴きくらべてみるのもおもしろいだろう。



[注1] ウィリアムズはバッハのオルガン作品に関する詳細な研究書も出版しているが、その中では、ニ短調トッカータについては慎重な(奥歯にもののはさまったような)書き方をしている。このライナー・ノーツの方がストレートだ(訳は筆者による)。ウィリアムズの説は、この曲はバッハがヴァイオリン用に書いたもので、それを後に誰かがオルガン用に編曲した、というもの。これはなるほどと思わせる説だ。最近ヨーロッパでは、この曲をヴァイオリン・ソロで演奏する試みが出てきているようだ。いずれ、CDも出るだろう。

[注2] 数年前、来日したアメリカのオルガニスト、カルロ・カーリーと話をする機会があった。このとき、彼は「オルガンのベスト3は?」という筆者の質問に対して、「ヴィエルヌの《交響曲第3番》、フランクの《コラール第2番》、バッハの《パッサカリアとフーガ》だね」と即座に答えた。ということは(改めて筆者は念を押さなかったが)、彼は《パッサカリアとフーガ》をバッハの代表作とみなしている、ということだろう。

[注3]この録音でリヒターが演奏しているのは、コペンハーゲンのイエスボーJaegersborg教会のマークセン(マルクッセン)Marcussenオルガン(1966年当時)。このオルガンは3段手鍵盤を備えるが、ストップ数は25で、いわゆる大オルガンではなく、室内楽的なオルガン。ストップ数が少なければオルガン全体の容積が小さくなり、そのぶんアクションが短くなるので反応がよく、また演奏者にも音が遅延なくダイレクトに届くので鮮度ある演奏が可能だ。この爽快な演奏は、このオルガンだからこそで、これを鈍重な大オルガンで演奏したら、リヒターといえども、ここまで鮮度の高い演奏はできなかったことだろう。というよりも、だからリヒターはこのオルガンを選んだというべきか。

Hovedvœrk: Rygpositiv: Brystvœrk: Pedal:
Principal 8' Trægedakt 8' Gedakt 8' Subbas 16'
Rørfløjte 8' Principal 4' Spidsgedakt 4' Oktav 8'
Oktav 4' Rørfløjte 4' Principal 2' Gedakt 8'
Dækfløjte 4' Quintatön 2' Quint 1 1/3 Fagot 16'
Rørquint 2 2/3 Scharf II Cymbel I Regal 4'
Oktav 2' Krumhorn 8' Ranket 16'
Mixtur IV


Tompete 8'


出典:Andersen, P.-G., trans. by Joanne Curnutt. 1969. Organ Building and Design . New York: Oxford University Press.




【追記】

●バロック・ヴァイオリンのアンドルー・マンゼが、BWV 565のヴァイオリン・ソロ編曲を演奏したCDがリリースされた。

J.S.バッハ:ヴァイオリン・ソナタ(全曲)
アンドルー・マンゼ(バロック・ヴァイオリン)
KKCC-441/2
Bach: Violin Sonatas
Manze/ Egarr/ Ter Linden
harmonia mundi usa HMU 907250.51

00.08.14

●BWV565が、バッハの同時代のドイツの作曲家の作である、という説がある。ロルフ・ディートリッヒ・クラウスRolf Dietrich Clausは、この曲の作者はチューリンゲン地方のオルガニスト・作曲家、ヨハン・ペーター・ケルナー Johann Peter Kellner(1705-72)としている(Johann Sebastian Bach? ambitus 97980の解説より)。

 ケルナーはバッハのオルガン作品やヴァイオリン作品を多数写譜した人物。これらの事実からすると、BWV565は、現在は失われたバッハのヴァイオリン作品をケルナーがオルガン編曲し(したがって作曲者名はバッハとした)、そのオルガン編曲が後世に伝わった、という可能性が考えられる。

・関連ページ: クラシック音楽正誤表 > トッカータとフーガ ニ短調

05.02.12

●前奏曲とフーガ ホ短調BWV548は、オルガニストやオルガン音楽ファンには広く知られたバッハの名曲、大曲で、録音も数多く出ている。マルセル・デュプレ(1930)、モーリス・デュリュフレ(1956)、ヘルムート・ヴァルヒャ(1962)は今でも名演といえるだろう。

 また、アンソニー・ニューマン(1996?)の録音は使用しているオルガンが興味深い。

Bach at Lejansk. Anthony Newman. Helicon HE 1010

 ポーランドのレジャイスクLezajskのオルガンを使用しているのだが、このオルガンには「ポーランドのシンバル Polish cymbal」と呼ばれる独特の混合ストップがあり、ドイツやフランスのオルガンでは聴くことのできない、極めて鋭い高次倍音の響きを聴くことができる。このストップは、通常のミクスチュア、シャルフ、ツィンベルよりもはるかに高い倍音を出すもので、7〜10列と多くなっている(通常は3〜4列)。類似の音は一部、チェコのオルガンにも聴かれるので、これは東ヨーロッパのオルガン独特のものかもしれない。

 なお、このCDでは「Lejansk」となっているが、ポーランドでは「Lezajsk」の方が一般的なようだ。このオルガンのディスポジションは、下記サイトで見ることができる。

・レジャイスクオルガンのディスポジション

 第1鍵盤(I. Manual)の「Cymbel 7-10x」が「ポーランドのシンバル(ツィンベル)」。このオルガンは、ペダルに開管32フィート(Subkontrabas 32')と開管16フィート(Pryncypalbas 16')を備え、第1鍵盤に開管16フィート(Pryncypal 16')を備える大オルガン。このように低音が増強されているのは、高次倍音が強いために、低音も拡張しないと聴感上のバランスがとれないためだ。1693年に建造され、1903-1905年にロマンティックオルガン風に改造されたが、1965-68に再びバロック様式に改修されたそうだ。

last modified: 2016.07.09



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