ベルギーの歴史と文化 vol. 2

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11. シント・パウルス教会 

 13世紀に設立され後に拡大、1517年から1571年にかけ再建された。もとはアントワープにおいて重要なドミニコ会の修道院であった。1500年代半ば、一時期宗教改革側のカルヴァン派に占領され、破壊を受け、がらんどうになった内部に軍の大砲が置かれるまでになったが、1585年のアントワープ陥落後、再びドミニコ会の手に戻った。

写真11-1:シント・パウルス教会の主祭壇 
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 ドミニコ会の手に戻ってからの17、18世紀、教会は修復され、内部には大理石の主祭壇、200点以上の彫像、50点以上の絵画、説教壇や告解室など凝りに凝った彫刻装飾の教会の調度品、4229本のパイプを持つパイプオルガン等々が置かれ、いつの頃からか「ゴシックの小箱に入ったバロックの宝石」と称されるようになった。1679年に火災に遭って、屋根の上の小塔はバロック様式の新しい塔に変わった。教会の外、南側にゴルゴタの丘を再現し、1734年キリスト磔刑の像が建てられた。1968年教会は再び火災に遭う。かろうじて外壁が残っただけの甚大な被害を受けたあと20年後に屋根が完成、今日ようやく後期ゴシック様式の本来の外観が取り戻された。

写真11-2:教会外、南に造られたゴルゴタの丘
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 内部、北側の身廊には「15のロザリオの神秘」と題された、同じサイズの15の絵画の連作が並ぶ。ルーベンス、ヴァン・ダイク、ヤコブ・ヨルダーンス、デヴィッド・テニールら、当時の地元の巨匠11人の手により2年の月日をかけて揃えられた。

写真11-3:シント・パウルス教会のロザリオの祭壇
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 教会からそう遠くないところに、今でも下着姿の娼婦が昼間からガラス越しに客引きをする「飾り窓」が並ぶ通りがある。上述の1968年の火事の晩、教会が火事だと知った娼婦とその客たちが教会へ集まり、この高い建物にはしごをかけてのぼり、すでに天井は焼け落ち炎が迫る中、内部に立ち入り、この巨匠たちの絵画の布地をナイフで額から切り取る形で救い出した。

 ペーテル・ヴェルブリュッヘンにより造られた主祭壇に、大きさ以外では引けを取らない豪華な大理石のロザリオの祭壇はセバスティアン・デ・ネーヴェによる。中央に架けられた絵画は、かつてはルーベンスがイタリアで購入し持ち帰った、カラヴァッジオによる「ロザリオの聖母マリア」の絵だった。ルーベンスに多大なる影響を与えたイタリア、バロック絵画の巨匠、カラヴァッジオ、の絵である。

 それが1713年、この地がスペイン継承戦争におけるスペイン側の敗北でオーストリアの支配下になり、1781年、「ルーベンスから皇帝への贈り物」という名目でオーストリア皇帝ヨゼフ2世に「略奪」された(ルーベンスは1640年に死去している)。カラヴァッジオの絵は2度と戻ることなく、代わりにベルナルデュス・デ・ケルテモンによる複製画が架けられた。

 「実はカラヴァッジオの絵はあらかじめ隠しておいて、ベルナルデュス・デ・ケルテモンの絵を架けてそれを皇帝に渡したんだ。皇帝をだましたのさ。だからここにあるのは、ベルナルデュス・デ・ケルテモンの複製と言っているが、これこそ本物、カラヴァッジオのオリジナルなんだ」そんな噂もあったが、後年の研究によりそれはない、と判断された。略奪された側の空しい作り話だった。

 教会はのちのフランス革命後、今度は革命軍による略奪にあった。1796年フランスはオーストリアからベルギーを解放したが、実際にはフランスの支配下におかれ教会はフランス政府が占領、競売にかけてしまった。それをそのまま、ドミニコ会修道院長が買い取った。昨日まで自分たちのものだったものを、お金を払って取り返したのである。そのおかげで内部の豪華な調度品はそのまま残され、放出されずに済んだ。その後市の管理下に置かれ新しく、小教区の教会となって今に至る。

 19世紀、ベルギーが正式にフランスに併合されると、この国のありとあらゆる教会から美術品、財宝は略奪された。ベルギーは大国にとって、単なる豊かな財源でしかなかった。シント・パウルス教会は当時の華麗な様子をほぼそのまま今に伝えることのできる、アントワープの数少ない教会のひとつである。

 最新の防犯設備を整えた部屋には、アントワープで一番古くに研磨されたダイヤモンドから、金銀、宝石をちりばめたかつてのドミニコ修道院、およびシント・ワルビュルヒス教会が所有していたバロック様式の宝物が並ぶ。

写真11-4:シント・パウルス教会のバロック様式の宝物
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12.ノルベール修道会のふたつの修道院、今昔

 またの名をプレモントレ修道会と呼ぶノルベール修道会は、中世、聖ノルベールによりフランスのプレモントレに設立された。ここの修道士たちは全身に白い装束をまとっていることから、「白い紳士(Witheren)」と呼ばれもする。

 ベルギーの、ノルベール修道会の修道院として古い歴史を持つポステル修道院は、オランダ南西の町アイントホーフェンに程近い、国境の町モルにある。天気のいい週末、修道院内のブラッセリーはポステルビールやチーズを楽しむ地元の人、ベルギー、オランダからの観光客で大にぎわいだ。

 ビールの醸造は1611年に始まったが、第二次大戦中の1943年、その醸造用の釜を売り払われてしまった。今はラベルだけが復活され、中味のビールは一般の醸造所で造られている。チーズは修道院内で修道士たちによる手作りで、修道院の名を冠して実際に修道院で造られているのはここと、オルヴァルとウエストマルだけ、というのがうたい文句のようである。ほかに、昔ながらのレシピで焼いたパンを使ったサンドイッチなどがある。

 このビールや、チーズ、パンは、院内の店で販売されているので、こちらも土産に買っていく人でにぎわっている。栄養補助剤も扱っていて、敷地内の薬草園で作られたハーヴを使ったものもある。店先で「高麗人参はまがいものが多いけれど、ここのものは確かに100%高麗人参の粉末」だと薦められた。 

 修道院の入り口すぐ入って右手には、17世紀の初代修道院長コリブラントの名を冠した「コリブラントの家」があって、周辺の観光案内をかねたインフォメーションオフィスを構えている。この周辺は道案内の標識が完備された、いくつかのサイクリングコースやハイキングコースを敷いた森と、砂浜を備えたモル市営の大きな湖があり、大人から子供まで自然を気軽に楽しめるレクリエーションの場として人気がある。

 この修道院はフロレッフ大修道院の小修道院として始まった。1610年台カトリック勢力が巻き返した時代、この修道院もまた、司教ロンバウトと修道院長のコリブラント、アルブレヒト大公の力添えで、ヴラーンデレンの独立した修道院に格上げされた。

 18世紀末、他の教会や修道院同様、ここもフランス革命軍により解体され売りに出され荒廃したが、ベルギーが独立した後1847年修道院として復活、20世紀の修道院長ラファエル・オレアンによって、本格的に修復された

写真12-1 ポステル修道院のバジリカ風教会。一部の壁とロマネスクの窓のみが12世紀に建てられた当初のもので、あとは修復を受けた後世のもの。
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 ポステル小修道院を設立したフロレッフの大修道院は、ムーズ川の真珠と称えられた古都、ナミュールの郊外にある。この大修道院が建てられることになったのは1121年。同年修道会を設立した聖ノルベールが、ナミュールの富裕な伯爵たちの要請を受けてのことだった。その後約2世紀にわたり富裕な伯爵たちの庇護の下、ノルベールは七つの病院に八つの女子修道院、レッフの小修道院、そのほか大修道院を、フランス、ドイツ、イスラエルにまで開設した。その流れに1138年、ポステルの小修道院開設があった。

写真12-2 フロレッフ大修道院、中庭より撮影。左手の建物がネオクラシック様式の教会。
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 ヨーロッパにおいて長らく、文化、教育、医療、あらゆる分野における社会の基盤を作ったのは教会、修道院だった。そう考えて、当時のこの大修道院の権力も影響力も、計り知れない絶大なものだったと想像する。13、14世紀には、西に位置するエノーの伯爵らが率いる軍にたびたび包囲され、以降常にこの大修道院は、周辺の対立する権力から富を守るための防衛地点として、極めて戦略上重要な位置に置かれてきた。今に残る姿は、この大修道院にやっと平和が訪れたといわれている17世紀から18世紀にかけての建築で、修道院は18世紀末、最高の繁栄に達したそうだ。

 まもなく起こったフランス革命軍によるベルギーの教会、修道院の略奪、解体時には、修道士の一部がドイツへ逃亡したり、他の修道会による牧師たちの追放があり、内部からも廃れたあげくに売りに出された。

 後に聖堂参事会員から買い戻され修道院は復活した。

 ノルベール修道会としての真に華やいだ姿にはもう二度と戻せるものではない、と言われている。教会内部に足を踏み入れると、がらんと広く天井も高く、空間が目立って何もない印象を与える。だが、その後荒廃をたどった歴史をあからさまに見せているゆえ、ふんだんに使われた大理石、凝った様式の彫刻が施された聖歌隊席等々を眺めるにつけ、かえって、どれだけかつては豪華絢爛なものだったのだろう、と思わせる。

 12世紀作成の修道院の聖書は今、ロンドンの大英博物館にある。同じく12世紀に作られた祭壇画のほうは今、パリのルーヴル美術館にある。

写真12-3 聖歌隊席。1632年〜1648年に作られたバロック様式のもの。
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 フロレッフ大修道院は、オランダに支配を受けていた1815年〜1830年の15年の間閉鎖された神学校がベルギー独立後に再開、今もおよそ200人の学生が寄宿できる設備を整えている。

 また一方で、修道院の名のついた地元産のチーズやビールを出すブラッセリーの経営、パーティ会場や会議場として一部施設を貸し出すなど、ポステル修道院同様多角経営に努めている。

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13.ボーヌの「オテル・デュー」とフランドルの関係

 フランスのブルゴーニュ地方、ボーヌの町に「オテル・デュー」という博物館がある。ここは中世から20世紀に至る長い間病院だった。

 イギリスとの間の百年戦争の末期、疲弊したフランスで、ボーヌの市民もまた、その4分の3がさしたる収入もなく貧困と飢餓に苦しんでいた。1443年、ブルゴーニュ公爵フィリップ善良公の宰相ニコラ・ロランは、その妻ギゴーヌ・ド・サランとともに、この「オテル・デュー」、貧しきもののための病院を設立した。

 当時ベルギーのフランドル地方がブルゴーニュ公の領地だった時代である。ニコラ・ロランがフランドル地方に逗留した際、フランドル地方北部の病院建築の様式に魅了され、ボーヌの職人を招いて建設したものだ。中世ブルゴーニュ地方の15世紀の建築物として、最も保存のいい状態で残されている。

 

 内部の豊かさを想像させ盗難などの被害にあうことを避けるため、通りに面した部分は地味だが、中庭からの眺めは華やかだ。この地方特有のカラフルな、七宝を施した屋根瓦が幾何学的な模様を作っている。

 1452年に完成した当時の規模を保つ「貧しきものの広間」は、長さ50m、幅14m、高さ16m。19世紀末の改修工事の際に家具類も、当時の様式に従って忠実に再現された。
 
 ニコラ・ロランとギゴーヌ・ド・サラン夫妻は、ぶどう畑や塩田により病院自体が収入を得られるようにした。館内の豪勢なつくりを許したのは、じきに貴族、ブルジョワジーの間で評判になって、彼らからの寄付に恵まれたことにある。

 61ヘクタールのぶどう畑から作られるワインは、1859年以降毎年行われるワインオークションで、世界にその名を知られている。

 

 館内にはほかに、瀕死の患者を隔離した特別室や、調理場、薬局がある。1971年、近代的な施設をもつ病院へその機能を移したが、養老院はそのまま残っている。

 

 今は特別室に置かれているが、かつては「貧しきものの広間」の一部にあったチャペルに、祭壇画「最後の審判」が飾られていた。この絵はロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの筆による。「オテル・デュー」公文書に、画家宛、ニコラ・ロランからの直接の依頼書はみつからないが、1501年の目録にこの祭壇画の記載がある。

 ブルゴーニュ公は1419年に、ディジョンからブリュッセルに宮殿を移していた。一方、ベルギーのトゥルネー出身のロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンは、1427年結婚を機にブリュッセルに居を移し活躍していたから、この画家とニコラ・ロランとの接点は十分あったと考えられる。

写真13-1 「オテル・デュー」中庭からの眺め
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写真13-2 「オテル・デュー」貧しきものの広間。両サイドにベッドが並び、奥が礼拝堂になっている。中央にテーブルとベンチが置かれ、食事ができるようになっていた。他の病院と異なり木ではなく、錫の食器が配られた。
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写真13-3 ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデンの祭壇画「最後の審判」中央部。病人たちがこの絵をみることができたのは、日曜と祝日のみだった。
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 ニコラ・ロランを感動させたフランドル北部の病院というのはどこの、どんなものだったのだろう?

 

 フランドル地方の病院の歴史は13世紀にさかのぼる。アントワープの聖エリザベート病院は、1233年、教会の牧師が路上の病人に寝る場所と食事を与え、修道士、修道女らがその介護にあたったことに始まった。外科医や助産婦が出産を助けに妊婦の家に赴くことはあったが、その時代、病院はあくまで貧しく身寄りのないもののためにあった。負傷兵や、病に罹った兵士が入院することもあった。
 聖エリザベート病院は今はオランダ語で、St-Elisabeth ziekenhuisといってziekenhuis(病院)という語が使われているが、上記のように中世の病院は現在の病院とは異なる、病院の前身、というべきものである。だからziekenhuisとは言わず、gasthuisまたはgodshuisといって区別される。聖エリザベート病院のある通りは、Lange Gasthuisstraat(長い施療院の通り)という。

 日本語訳だと講談社の辞書には、gasthuisは病院のほか、(老人のための)慈善施設とある。
 「オテル・デュー」はフランス語だが、オテルは施設、邸宅、デューは神を意味し、gasthuisの同義語として使われるgodshuisと同じである。オテル・デューの日本語訳は、病院のほか、しばしば「施療院」と言う言葉を使って訳されている。
 
 この時代栄えたベルギー・フランドルの他の都市をみてみると、ブルージュのポテリー聖母教会は、14世紀から17世紀病院だった部分を改造して美術館になっている。13世紀に建てられた聖ヨハネ施療院もメムリンク美術館として一般開放され、昔のベッドや薬局が残っている。

 ゲントには「アレインの家」がある。建物のほうは1363年設立された施療院で、こちらも現在は、20世紀前半の民俗資料をそろえた博物館として開放されている。いずれも中世の面影を残した、フランドルの貴重な病院の名残である。

写真13-4 アントワープ・聖エリザベート病院脇のチャペル
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写真13-5 ゲント「アレインの家」中庭からの眺め
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14.ブルゴーニュ公統治下のフランドル

 中世のほとんどの都市が城壁を持つ。スカンディナヴィア原住の北方ゲルマン人であるノルマン人、別称ヴァイキングの襲撃に備え造られた。オランダ語で市民という意の「burger」は、「城砦(burgまたはbrucht)の中の人(burger)」が語源である。ノルマン人の定住、建国で襲撃が収まり、人々の生活が落ち着くと農業生産が増大し、余剰物資を生んだ。その交換が不定期市を定期市、定期市を固定店舗にと発展し、商人、職人という新しい階級の形成へ導いた。彼らは財力を蓄え、彼らの居住地である都市にて、司教、貴族ら封建的支配者から自治権を獲得。「商人の仲間」という意味のハンザ同盟が、1358年には明確に都市同盟の形をとり、共通の貨幣、度量衡、取引法を決め陸海軍を持つまでになる。

 9世紀の終わりにゲントとブルージュに城砦を築いたフランドル家はイギリス王家と婚姻関係でつながりを持ち、イギリスの羊毛を輸入して生産する毛織物の生産で繁栄を築いた。繁栄したフランドル地方は英仏両国の争奪の対象になった。
 
 1384年、フランドル家のロードウェイク・ヴァン・マール伯が亡くなると、フランドルのその領地は、その娘マルガレットの結婚相手、初代ブルゴーニュ公フィリップ2世のものになった。

 時代はイギリスのエドワード3世がフランス領に上陸し1339年に開戦した、英仏間の百年戦争の真っ最中である。この百年戦争も、フランドル地方の争奪が主因であった。

 フィリップ2世は勇胆公と呼ばれている。その性格は若いときから顕著だった。1356年、14歳にして父に伴いポワティエの戦いに参戦している。その戦いでフランスはイギリスに大敗し、彼は父親と共に捕虜としてロンドンにて投獄された。1360年の平和条約が結ばれてようやく釈放されている。
   
 フランドル地方が自分の領地になって、フィリップ2世は早速1385年、娘マルガリットをアルブレヒト公の息子に嫁がせ、息子ジャンにはアルブレヒト公の娘を嫁に迎えた。フランドルを含む大司教区の司教座がおかれたカンブレーにおいて、ダブル政略結婚をやってのけたのである。アルブレヒト・ベイエレン公は、オランダ、ゼーランド、エノーに領地をもっていた。が、領地拡大に野心を燃やしていたフィリップ2世の時代にフランドル統一の夢はかなわなかった。

 ジャンの息子、フィリップが、第3代ブルゴーニュ公フィリップ3世になってそれは実現した。オランダ、ゼーランド、エノーに、加えてブラバント、リンブルグにも領地を有したブラバント、およびリンブルグ公であったフィリップ・ヴァン・サン・ポールの継承権を得たのだ。フランドルはネーデルランドの名の下に、北部フランス、リュクセンブルグ、オランダと共に、フィリップ3世を君主として統一された。

 フィリップ3世は中央集権化をはかったが、フランドルの各都市はいくつもの司教区、都市が存在し、前述のごとく新興勢力により独立色が強く、ブルゴーニュ公の支配権拡大と統一は容易ではなかった。1464年、上院と下院から構成される連邦議会(Staten−Generaal)を設立し、議員には市民代表が、貴族代表や司教代表に並んで選ばれた。一方でフィリップ3世は地方経済のさらなる強化につとめ、芸術を厚く支援した。教会、大聖堂はヤン・ヴァン・エイクの確立したフランドル絵画に飾られ、カンブレーの大聖堂がヨーロッパにおける音楽の一大拠点となった時代である。彼は善良公と呼ばれている。

 その頃最も繁栄していたフランドル地方の都市はブルージュだった。それまでフランスのシャンパーニュ地方が地中海、北海の両商業圏の間に位置することで、各都市順番に定期市を催して繁栄の中心地となっていたが、輸送手段が陸から海上へ移行するに従い、ブルージュがヨーロッパにおける国際貿易の中心地にかわった。

 しかしながらブルージュは、15世紀以降運河に土砂が堆積して大型船の航行が困難になると、その地位を徐々にアントワープに譲ることになる。16世紀にはハンザ同盟の商館もアントワープに移ってしまった。外部からの攻撃を受け破壊され衰退したのではない。だからブルージュは、タイムスリップして中世の町に迷い込んだような錯覚に陥るほど、中世のたたずまいを今に伝える町として残った。

写真14-1 ブルージュめぐりで人気の運河クルーズ。
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写真14-2 ブルージュ 聖血礼拝堂の後ろに13〜15世紀に建てられた鐘楼が見える。
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15.ステンドグラスに見る歴史

 800年、カール大帝は教皇レオ3世から、西ローマ帝国の皇帝の称号を得た。皇帝は領主たちを丸ごと飲み込んでヒエラルキーの頂点に君臨することになった。やがて教会は栄え俗化し腐敗して、皇帝の末裔である王たちと権力を争い対立する。その延長線上でフランス国王、フィリップ4世は教皇をアヴィニョンに強制移転させた。1309年のことである。

 ベルギー・フランドル地方と一括りにされて、すでに何世紀も歴史を重ねてきてはいるものの、今でも「アントワープはゲントとブリュージュとはまた違ったメンタリティを持つ」と言う人がいる。ゲントとブリュージュはフランドル伯が城壁をめぐらしたのが町の起源だが、アントワープはのちに神聖ローマ皇帝となる、ドイツ・ザクセン公のオットー1世が城を建てた。

 ノルマン人(ヴァイキング)の度々の襲撃に困り果てたフランスが、ノルマンの首長ロロにノルマンディ公の爵位とノルマンディ地方を与えたように、オットー1世もアントワープにおいてノルマン人と協約を結び、「ノルマン人にアントワープの警護を任せる」という懐柔策をとった。アントワープの町の一番古い建築となったその城、ステーン城の入り口には、当時ノルマン人たちに改築された城の歴史を示す、ノルマン人の偶像セミニが彫られている。

写真15-1 現在のステーン城。15世紀にカール5世が大幅に改築したもの。
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写真15-2 ステーン城入り口のセミニ像。
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 かつては大きな男性性器がついていて、子供を授かりたい女性がお参りに来る民間信仰の対象となっていた。が、17世紀、風紀を乱すとしてイエズス会によって壊された。
     
 アントワープの町の人々はお上のお達しにより、今までの敵だったノルマン人を受け入れ共に町を発展させてきた。現在のベルギーも、オランダ語とフランス語圏の対立、カトリックと非カトリックの対立、あるいは社会主義とリベラル、といった、異なる対立軸がいくつか存在して互いに譲歩しつつ、バランスを保って存続している国である。対立しあうものが譲歩しあって築いてきた歴史は、こんな昔にまでさかのぼることができる。地主が誰に代わろうとも、アントワープも他のフランドルの都市も、城壁の中に住む市民の活躍で繁栄し続けた。

 教皇権力を自分の領地においたフランス王フィリップ4世は、当然フランドル地方を狙った。しかし、すでに自治権を得た商人、職人らは領主たちと対立しつつも手を組んで、フランスからの戦いに挑んで負けることがなかった。そうこうしてまもなく、ブルゴーニュ公が継承権を得て領主となり、国の成り立ちもメンタリティも異なるフランドルの繁栄する都市をまとめて傘下においた。ブルゴーニュ公国は大公国になってフランスの強敵に成長した。
 
 百年戦争(1339〜1453)においてブルゴーニュ公国は、フランスと対抗するためにイギリス側にたった。が、イギリスはフランスの巻き返しで百年戦争が終わってまもなく、ばら戦争と呼ばれる内戦(1455〜1485)に突入し混乱した。ヨーク家とランカスター家のイギリス王位継承争いと、それに異論を唱える貴族が加わった戦争である。

 フランスは百年戦争後即位したルイ11世のもと中央集権化が進み、戦争の荒廃から立ち直りつつイギリスに干渉する。ルイ11世は、ヨーク派に命を狙われていたランカスター系のヘンリーを助ける。ヘンリーは1485年、ヨーク家のリチャード3世を倒し、ヘンリー7世として即位した。翌年ヨーク家のエリザベスと結婚し、両家の対立は終わりを告げた。ばら戦争で疲弊した貴族たちは国王に立ち向かう力を持たず、イギリスは中央集権化が進んだ。

 一方フランドルは、1477年、ブルゴーニュ公4代目のシャルル勇胆公の死をもってブルゴーニュ公国が崩壊した。ブルゴーニュ地方はフランスに編入され、シャルル勇胆公の娘、マリー・ド・ブルゴーニュはルイ11世に幽閉される憂き目にあったが、婚約者であるハプスブルグ家のマクシミリアン1世に助けられ、のちに結婚、フランドルはハプスブルグ家の領地になった。

 マクシミリアン1世とマリーの息子フィリップの代になって、フィリップは1496年、スペイン・カスティリャ王女のヨハンナ(スペイン語ではフアナ)と結婚、スペインにも領地を持つことになった。

 ここでフランスに助けられたヘンリー7世、今度はフランドルに近づく。

 アントワープの大聖堂の中に、ブルゴーニュの窓とイギリスの窓、と呼ばれるステンドグラスがある。1503年、スペインとイギリスの通商協定の記念として作られた。

 ブルゴーニュの窓には、赤い天蓋の下、のちに端麗公と呼ばれるフィリップと、その妻、ヨハンナがいる。イギリスの窓には、青い天蓋の下に、イギリス王ヘンリー7世とその妻、エリザベスがいる。
 
 ブルゴーニュの窓は何度も修復を受けており、現在も上部は色のないガラスがはめられているが、イギリスの窓は度重なる戦火、破壊から運良く免れ、多くの部分を当時のまま残している。

 二カ国間の通商協定は、フィリップとヘンリー7世によって調印され、アントワープはイングランドからの織物輸入の主要な市場になってますます栄えた。

写真15-3 ブルゴーニュの窓。
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写真15-4 イギリスの窓
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16.二人のマルガレータ (1)マルガレータ・ヴァン・ヨーク

アントワープのカテドラルの、一番古いステンドグラスに姿を残すフィリップ端麗公は、4歳で母を亡くした。母はマリー・ド・ブルゴーニュ。(オランダ語ではマリア・ヴァン・ブルゴンディ)最後のブルゴーニュ公、シャルル勇胆公の一人娘だった。そのマリーもまた、自分の母(シャルル勇胆公の2番目の妻)イザベラを11歳のときに亡くしている。

 シャルル勇胆公が3番目の妻マルガレータを迎え、マリーは継母マルガレータに優しく育てられた。フィリップもまた、マリー同様、母の亡き後血のつながらない祖母マルガレータに育てられた。

 英語でマーガレット・オヴ・ヨーク。オランダ語ではマルガレータ・ヴァン・ヨーク。イギリスのヨーク公リチャードの娘で、ノーサンプトンシャーにあるフォザリンゲイの城で生まれた。英国王エドワード4世の実の妹であり、同じく英国王リチャード3世の実の姉である。シェイクスピアの『リチャード3世』のリチャードの奸知にたけた悪人像は、近代以降、あくまでそれはシェイクスピアの創作であり史実とおりに伝えているものではないとされている。が、しかし、華麗で豪勢な王宮の生活と表裏一体の、権力争い、領地拡大の戦争の惨い世界はそのとおりだったであろう。その渦中にあった人生を読めば果敢であったと思われるマルガレータの肖像画は、線の細い、物悲しい風情を漂わせている。首もとの豪華なネックレスに、ヨーク家の紋章である白バラのエマイユがみられる。

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マルガレータの肖像画 (1468年頃、作者不明)ルーヴル美術館蔵
美術雑誌OKV(ヴラーンデレンの公共文化資産)2005年No.3よりコピー
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 1468年、22歳のマルガレータとシャルル勇胆公の結婚式は、特別に豪華絢爛なものであった。16世紀に出版されたアンドリース・ドゥ・スメットの『素晴らしきヴラーンデレンの戴冠(Die Excellente cronike van Vlaenderen)』の中で、こう書いている。

 「全キリストの世界において、これほどまでに素晴らしい式が設けられたことがあったであろうか? 会場の壁にかけられた金の布に輝かしいタペストリー、それらには金銀宝石が飾られている。誠に信じがたいほどの素晴らしさであった」

 結婚式は9日間に渡って行われた。まず、ブルージュ近郊のダムという町で式があげられ、そこから新郎新婦がブルージュへ入った。二人の行く道は飾られ、華やかに着飾った貴族、騎士らがお供の行進をした。ブルージュにおける贅を尽くした晩餐会と、広場で行われた騎士たちによる馬上槍試合は大変有名である。5年に一度開催される「黄金の木の豪華な行進(De Praalstoet van de Gouden Boom)」と名づけられたブルージュの町の祭りは、その様子の雰囲気を現代に伝えようと1958年から始められたものである。

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「黄金の木の豪華な行進(De Praalstoet van de Gouden Boom)」
ブルージュ観光局・実行委員会サイトより http://www.comitevoorinitiatief.be/activiteiten/2007/goudenboom/index.html

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 先代のフィリップ善良公の時代にオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、北方フランスまでを配下に置いたブルゴーニュ公家は、今やイギリスとの太い絆を作った。ヨーロッパにおける領土争いの炎はますます激しく燃えあがり、フランスとフランス側に立つ諸侯らとの戦争で、シャルルは家を空けることが多かった。

 シャルルとマルガレータとの間には子供がいない。マルガレータが子供を授かるための祈りを捧げる巡礼を行っていたことで、マルガレータの不妊説もあるが、それは現在疑問視されている。

 シャルルが家にいたのは新婚当初の半年でたったの21日間、続く2年間もその4分の1の期間だけ、と計算されるからである。歴史家たちにも、シャルルはマルガレータをあまり構うことはなかった、と伝えている。異国の地で、マルガレータはまだ22歳だった。継母になったとはいえ、たった11歳年下のマリーとすぐ打ち解けて仲良くなったというのもうなづける。
 
 マルガレータは大変な本好きであった。シャルルは広大な、充実した図書館を持っており、そこにマルガレータもまた、本を注文したりあるいは贈られたりして、彼女自身のコレクションを増やしていった。マルガレータは美しい宗教の写本を好み、信心深いと伝えられているとおり、宗教的インスピレーションを得たマルガレータ本人が描かれた写本が残っている。マルガレータの本のコレクションは、フィリップ善良公の時代から働いていたデヴィッド・オベールトによって写本が作られた。その工房にはフィリップ善良公もシャルル勇胆公も自ら訪れている。

 1471年、マルガレータの兄、エドワード4世英国王は、妹を訪ねてベルギーに数ヶ月滞在する。そして妹の、華やかで、かつ洗練された暮らしぶりに感銘を受けたというが、特に本のコレクションを大変気に入ったという。

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キリストの復活に跪くマルガレータ(1468年以降)英国文書館所蔵
美術雑誌OKV(ヴラーンデレンの公共文化資産)2005年No.3よりコピー
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 マルガレータの結婚の際、飾られたタペストリーは『トロイアの伝説』を主題とした。ここで重要なのはトロイアの話ではなく、トロイア滅亡後イタリアに逃れローマ建国の祖となったトロイアのヒーロー、アエネイスの、その孫ブルタスがイギリスの祖となったという言い伝えのほうであった。

 当時ブリュージュにいたイギリスの商人、ウィリアム・カクストンは、仕事の合間を縫って本に親しみ、1469年にフランス語版『トロイアの伝説』を英語に訳す作業を始めた。マルガレータの本好きはすでに有名だったのであろう。カクストンは如才なく、この話をきっかけにしてマルガレータに資金援助を申し出た。

 のちにカクストン自らがつづっている。「自分の翻訳に目を通したマルガレータは、誤字を見つけて訂正してくださった。そして、大いに関心を寄せ、まだ終わっていない翻訳作業の残りを終わらせるよう、望まれた」
 こうして、1475年『トロイの伝説』英語版が仕上がると、ブリュージュの印刷所で印刷され、世界で始めての英語の本が出来上がった。

 1477年、シャルル勇胆公がナンシーの戦いで戦死した。広大な領地の継承権を持つ20歳のマリーは、虎視眈々と結婚のチャンスを伺っていた各国各地の諸侯らから引く手あまたで、フランス国王ルイ11世も早速、自分の息子にマリーを嫁がせようと策略する。マリーはマルガレータの薦めもあって、父の決めていた婚約者ハプスブルク家のマクシミリアン大公、のちの神聖ローマ帝国皇帝と結婚した。

 マリーの結婚後、マルガレータは市民の反抗勢力がそう大きくないメヘレンへと居を移した。続いてシャルルも1473年、政治の中枢機関をメヘレンに移した。それは極めて賢明、また、必然の選択だったといえるだろう。
 
 マリーは政略結婚とはいえ、ゲントの城に落ち着きマクシミリアン大公と幸せな生活を送り、二人の子供フィリップと、マルガレータをもうけた(こちらのマルガレータはマルガレータ・ドートリッシュ。マルガレータ・ヴァン・ヨークが洗礼の際代母となったため、彼女の名を継いでいる)。

 だが、1482年、マリーは狩の最中落馬し、それが原因で亡くなってしまう。まだ25歳という若さであった。彼女は遺言で、継承権のある息子フィリップが成人するまで、すべては夫、マクシミリアンを後見人として託すこと、と遺したものの、反抗勢力だったゲント市議はフランス側に寝返ってマクシミリアンを幽閉、わずか4歳のフィリップをフィリップ公として擁立し、3歳のマルガレータ・ドートリッシュはフランス国王ルイ11世の12歳の息子の婚約者としてフランスに引き渡されてしまう。

 1485年ゲント市議とマクシミリアンが和解すると、早速マルガレータ・ヴァン・ヨークは幼いフィリップをメヘレンに引き取る。フランスに送られたマルガレータ・ドートリッシュは10年たった13歳のときに、ようやくメヘレンの祖母、マルガレータ・ヴァン・ヨークのもとに戻された。

 マルガレータ・ヴァン・ヨークが安否を気遣い自分のもとに引き寄せたのは身内だけではない。メヘレンの公文書保管所に納められているメヘレンの議会宛て、マルガレータの手紙にみてとれる。

 夫シャルルの死後、ゲントの反抗勢力はシャルルの腹心を処刑したが、その妻アントワネット・ヴァン・フンベルクルトもまた、巡礼の道すがら貴族のアドリアン・ヴィレインに誘拐され結婚するよう脅迫された。マルガレータはメヘレン市が彼女の財産の確保および、その身の釈放とアドリアンの逮捕を懇願し実現させた。4年後にはマクシミリアンが自らの身を守るため、彼を恩赦によって釈放するのだが。

 マルガレータ・ヴァン・ヨークはブルゴーニュ公家の者であり、また、イギリスのヨーク家の者でもあった。ランカスター家の血を引くヘンリーが弟のリチャード3世を倒し、ヘンリー7世として即位した後は、ヘンリー7世の反対勢力を支援した。兄である英国王エドワード4世が死んだあと、行方知れずとなってしまった二人の息子、マルガレータにとっては二人の甥であるエドワードとリチャードのことをも忘れなかった。有名なのはパーキン・ウォーベックが、甥のリチャードを名乗って彼女の前に現れたとき、それを信じて後ろ盾となり、ヘンリー7世を倒すためにイギリスへ送り込んだ話である。結局パーキン・ウォーベックはイギリスにて捕らえられ、自分はフランドル地方のトゥルネーに生まれた役人の息子だと自白した。

 イギリスの年代記作家、エドワード・ホールは16世紀の著書の中でこの逸話に関し、「マルガレータは尻尾に隠れた悪魔を足元の神だと思っていた」と書いているが、ことの真相は完全に説明されていない。パーキン・ウォーベックがエドワード4世の庶子であった可能性を指摘する歴史家もいる。
 
 未亡人になったマルガレータの個人の活動は、専ら修道院と教会の保護、支援のために捧げられた。14〜15世紀のその世界では、さまざまな宗派ごとの異なる規律をキリスト本来の精神に戻そうとする動きがあり、マルガレータもフランシスコ会の改革派の活動を支援していた。彼女の権力下の修道会には実行力のある敬虔な信者を教会指導の中心において、より厳格な戒律を敷いた。

 マルガレータは1447年ゲントで亡くなった、フランシスコ修道会の改革者であり、貧しい女性のための修道会、クラリス会の創設者であったコルビエのコレットを崇拝していた。その修道会にマルガレータが贈った、『聖コレットの生涯』という美しい挿絵の入った本の最後のページに、マルガレータ自筆の献辞が寄せられている。

「貴方の忠実な娘、イギリスのマルガレータは、汝の魂の救いに祈りを捧ぐ」

 マルガレータは1503年この世を去り、その遺言により遺産は、ルーヴァンの貧しい学生たちの奨学金に使われた。教会の改革に半生を捧げた身ながら、メヘレンの修道院にあった彼女の墓は、宗教改革の嵐の中破壊されてしまった。

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17.二人のマルガレータ(2)

マルガレータ・ヴァン・オーステンレイク(マルグリット・ドートリッシュ)

日本では、フランス語読みのマルグリット・ドートリッシュと表記するのが一般的なようだが、オランダ語読みのマルガレータをタイトルに採ったことと、舞台の大半はここベルギーなので、マルガレータ・ヴァン・オーステンレイクと表記することにする。

写真17-1 アンボワーズ城(フランス・ロワール地方)
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 物心つかないうちに母を亡くし、「アラスの和約」で定められたとはいえ、1483年、3歳にして、フランス国王ルイ11世の息子プチ・シャルルの婚約者としてフランスに送られた。ロワール河畔のアンボワーズ城でいきなり面会の席で婚約、結婚の宴が開かれたという。シャルルの年の離れた姉アンヌ・ド・ボージューを養育係、マダム・ド・スグレを乳母に、王妃として育てられ、ラテン語、絵画、音楽といった芸術的学問を教養として身に着けた。

 フランス国王ルイ11世の逝去に伴い、アンヌ・ド・ボージューの摂政のもと、プチ・シャルルは1490年、国王シャルル8世として即位した。マルガレータは実質上、フランス王妃になった。

 1488年、フランスにおいてほぼ独立した領地を持っていたブルターニュ公が亡くなると、その領地がイギリスの向かい、という政治戦略的重要な位置から、継承権を持つ12歳のその娘アンヌもまた、政治戦略的重要な立場に立たされた。1490年、彼女はマルガレータの父、マクシミリアンを選んで結婚する。

 しかし、フランスはこれを受け入れ難いものとしてブルターニュに侵攻、二人の結婚を無効とし、かつ、シャルル8世とマルガレータの結婚も無効として、シャルル8世とアンヌが結婚することになった。アンボワーズ城からわずか50?qと離れていない、ランジェの城で二人の式は挙げられた。マクシミリアンにとっては、「妻が義理の息子と結婚してしまった」という事態であった。

 1493年「サンリスの和約」で、マルガレータは父マクシミリアンのもとに返された。

 マルガレータ帰還の途上、ヴァレンシエンヌの町の人々は「ノエル!ノエル!」(フランス語でクリスマスの意)と音を踏んで叫び、祝いのムードに包まれていた。利発な13歳の元王妃は「ノエルではなく、ブルゴーニュ万歳、と叫ぶように!」と返したという。
 
 代母マルガレータ・ヴァン・ヨークの暮らすメヘレンに戻ったマルガレータは、父マクシミリアンの計らいで、スペイン・カスティーリア王女イザベラとアラゴン王フェルナンド2世の長男、ヨハン(スペイン語でフアン)と結婚する。兄フィリップはその妹のヨハンナと結婚した。1496年9月ヨハンナがスペインからやってきて、1497年1月、マルガレータはスペイン行きの船に乗った。

 航路の途中、海が荒れた。自分の名の書かれた紙と金貨を手にくくりつけて、もし船が沈んでも自分の身元がすぐにわかるように準備をしたという。王女としての自覚があった。

 だが、身体の弱かったヨハンはその年の10月に結核にかかってこの世を去った。妊娠していたマルガレータは死産し、スペインを後にすることになった。
 
 祖国に戻ったマルガレータには早速、サヴォイア公フィリベルトが紹介され、二人は1501年に結婚した。が、またもやわずか3年後、フィリベルトは狩の途中、冷たい生水を飲んでそれが原因で死んでしまった。以降、マルガレータは誰とも再婚することなく、未亡人として生涯を貫いた。

 マルガレータは周囲の薦めた政略結婚を2度したが、彼らの策略に乗るままの、ただのお姫さまではなかった。フィリベルトとの結婚時代、マルガレータは政治に介入し、暴政を行っていた夫の義兄のルネ・バタールを追放、サヴォイア公国を苦境から救った。

 フィリベルトの死後は彼との約束の墓の建設と、フィリベールの母が準備して完成を見ずにこの世を去った、ブルガンブレスのブルー修道院の修復に専念し、半ば隠遁していたが、ハプスブルグ家の継承者兄のフィリップが亡くなると、再び政治の場に躍り出た。サヴォイア家の宮殿をメヘレンに移し、父親マクシミリアンの要請でネーデルラント総督となって管理、ネーデルラントの首都として機能させた。父マクシミリアンが戦費の財源として当てにしていた、富めるネーデルラント(現オランダとベルギー)地方の都市の問題点と重要性を承知して、自治権をもっと与えるべきだと考えていた。彼女は専ら、フランス王家に敵対するハプスブルグ家を守るための、内密な会議に関わった。

 一方、兄フィリップ夫妻がスペインの王権を継ぐためスペインに赴いて以来、彼らの長男カーレルを育てた。カーレルがスペイン王カロルス一世として即位すると、マルガレータは彼を「神聖ローマ皇帝」にするため奔走した。

写真17-2 メヘレン、マルガレータの宮殿
17世紀初頭、市が買い取り、裁判所になって現在に至る。
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 その頃フランス王家とマクシミリアンの出身、ハプスブルグ家の争いは二国間のみに収まらず、国境を越えてさまざまな戦争に複雑な背景をもたらしていた。そのひとつ、イタリア戦争は、1512年「カンブレーの条約」をもって終結したが、1529年には「貴婦人によるカンブレーの和約」も締結された。マルガレータとフランスのルイーズ・ド・サヴォイア(フランス国王フランソワ一世の母)間の調印である。これによってハプスブルグ家の領土は大方そのまま残されることになり、スペインに幽閉されているフランソワ一世の子供二人(フランソワとアンリ)の解放について交渉した。

 マルガレータは未亡人の日々をつづった詩集を残している。

  私の生涯に変化があっても 私の心は変わらない
  夫亡き身ながら いかに良く いかに正しくあるか
  権力と富を持ちえた高貴な家系は
  私の選択が作りあげたもののほか 何ものでもない
 
 マルガレータは1530年になくなった。このことは、当時のヨーロッパの無駄な戦争の停止に力を注いだ、心ある尊い政治家の一人の死として受け止められた。マルガレータはフィリベルトが亡くなったとき造らせた、今はフランスの東部の都市、ブルゴンブレスの墓の隣に眠る。

写真17-3 マルガレータ、若き日の肖像画 (1490年頃、個人蔵)
美術雑誌OKV(ヴラーンデレンの公共文化資産)2005年No.3よりコピー

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18.メアリー・スチュアートのモニュメントがある教会

 かつてはカテドラルの、緑地墓地だったフルン広場からトラムで一駅めで降りて、細い路地を入ったところにシント・アンドリース教会がある。1529年、アウグスティノ修道会の神父たちにより創立された修道院教会だった。それが、時の政府がプロテスタントのルター派寄りになったことで一時工事は中断、中央の身廊が完成しないまま今日に至る。
 
 この教会はマルガレータ・ヴァン・オーステンレイク(1480-1530)の目に留まった。その頃ベルギーは、カール5世の叔母でオーストリア・ハプスブルグ家の王妃マルガレータ・ヴァン・オーステンレイクが治めていた。現在のオランダ、ベルギー、リュクセンブルグから北方フランスを含む広大な領土、ネーデルランドの総督という立場で、である。シント・アンドリース教会は、マルガレータの指示によりこの地区の小教区の教会になり、あらためてカトリック教会として位置づけられた。

  記念として教会側は、ブルゴーニュ家の守護聖人である聖アンドリースを名乗り、金箔に覆われたアンドリースの像を塔の上に建てた。像はまもなく、1566年、プロテスタントによる偶像破壊の被害から逃れるため、塔からおろされ守られた。

 すでにマルガレータがこの世を去って半世紀を経てから、アントワープの町は再びカトリック勢力が強くなった。1585年、教会は修復され、拡張工事が行われ、ようやく落ち着いた。

写真 18-1 
シント・アンドリース教会
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 教会内では、見事なバロック様式の中央祭壇がまず目に付く。フランス革命の煽りを受けて破壊された、ヘミクセムのシトー会シント・ベルナルデュス修道院からやってきたものだ。

 19世紀に造られた、ネオバロック様式の説教台も見事である。この魚の釣り師たち(ヴィスールVissers)は、1843年から1861年、この教会の司祭を務めたヴィスール(Visschers)とともに地元の人々から愛された。

 そして、教会の壁や柱を飾る、数ある16世紀から19世紀の宗教絵画や像の中で、毛色の異なる、貴婦人の肖像画を掲げたモニュメントがあることに気づく。

写真18-2 
教会内部
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写真18-3
説教台、部分
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 この貴婦人はメアリー・スチュアート(1542-1587)。生後6日で王位を継承、イングランド皇太子と婚約させられたゆえ、対立する貴族から攻撃を受け、身を守るため6才でフランスへ渡り、フランス王アンリ2世の下フランス宮廷で育てられた。のちにフランスの王妃にまでなったものの、未亡人になってスコットランドに戻り、スコットランドの王女になった。

 ここまでの生涯はマルガレータのそれに似た、数奇な運命をたどっているが、後年政治に携わり、後世にその華やかな活躍ぶりを歴史に残したマルガレータと異なり、メアリーは「不幸な」と常に形容される王女になった。廃位に追い込まれイングランドに亡命し、英国国王(女王)の継承権争いの果て、処刑台の露と消えた。

 メアリーの処刑は、身辺の者にも危険を及ぼした。20年来メアリーの秘書を務めていたギルバート・カールの、未亡人であったバーバラ・モンブレイと、ギルバートの妹エリザベス・カールは、カトリック・イエズス会の神父をしていたバーバラの息子の助言でアントワープに移住した。二人の婦人の住まいはシント・アンドリース教会の近くに用意され、近所の人たちには「イギリス人の家」と呼ばれたちまち町中に知れ渡った。 

 バルバラは1616年、エリザベスは1620年に亡くなった。遺言により、二人の墓から見上げる柱に、メアリー・スチュアートのモニュメントが架けられた。

 前述のヴィスール司祭が残した年代記によると、ゴーダ生まれでブリュージュで生涯を閉じた画家、ピーテル・プルビュスの手によるとされているが、確証はなく、メアリー自身がエリザベスに贈ったものと考える説が有力である。

写真18-4
メアリー・スチュアートのモニュメント
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 その後18世紀にオランダからの独立運動の、独立後の19世紀にはフランス語を公用語としたベルギーで、この教会はヴラーンデレン(オランダ語圏)の民族運動の中心となった。

 ヴィスール司祭はオランダ語で著書を書き続け、教会の図書室にはヴラーンデレン(オランダ語圏)の民族運動のバイブルとされている『De Leeuw van Vlaanderen(ヴラーンデレンの獅子)』の作者、ヘンドリック・コンシャーンスはじめ、オランダ語及びオランダ語を話す人々の権利を訴えた文化人たちが集った(ヴラーンデレンの旗は黄色の地に、黒い獅子が描かれている)。
 
 シント・アンドリース教会はこのメアリーのモニュメントゆえ、イギリスの旅行者にはなかなか知られた教会だそうだ。とはいえアントワープにおいて、その5本指に入る歴史上重要な教会である。

 20世紀、シント・アンドリース教会界隈には貧しい者たちが集まって、ひしめきあって暮らすようになり、周辺は「悲劇の小教区」と呼ばれるようになった。やがて都市整備と共に周辺に新しい店が立ち並び、今では「悲劇」の面影はない。

 1962年、長く倒壊の恐れがあった塔は再建され、教会本堂も修復を受けてきれいになった。この文化財に埃をかぶらせてはいけないと、2007年11月、教会内に展示室がオープンした。教会の歴史とか、建物のことではない。教会の宝物に加え、この教会の周辺の人々と共にある、シント・アンドリース教会区の展示室となっている。

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19.シンテルクラースとケルストマンと三人の王様

 ベルギーの子供たちは伝統的に、12月から1月にかけて3回プレゼントをもらう。12月6日は聖ニコラ(オランダ語でシンテルクラース=Sinterklaas)から、12月25日はケルストマン(Kerstman)から、そして1月6日は、近所を「三人の王様」の歌を歌い歩いて、お菓子や小銭をもらう。

 いずれもカトリックの祭りに因み、12月6日「聖ニコラの日」、12月25日の「キリスト生誕の祝い」、そして年明けの1月6日は、三人の王様(Driekoningen)が星に導かれ幼子キリストを礼拝した日の祝いで「公現祭」という。日本ではこの王様たちを「東方の三賢士」と呼んでいる。

 ベルギーの子供たちにとっては、12月5日の夜にプレゼントを持ってやってくる、シンテルクラース、略してシントが一番親しみのある重要な人物である。

シントはスペインから蒸気船に乗ってやって来る、という歌があって、ベルギー人だったらみんな知っている。赤い立派なマントを羽織り、白い立派なあごひげを生やし、杖を持っている。空を飛ぶ白馬に乗って、召使のズワルト(黒い)・ピートを伴っている。

 シントは子供たちについて書かれた本を持っており、ピートがどこのどの子供が一年、いい子にしていたか悪い子だったか、本の中の情報をシントに伝える。いい子はピートからマンダリン(みかん)、スペキュラース(スパイスの効いた焼き菓子)、マジパン(アーモンドの粉を砂糖で練った甘いお菓子)をもらえる。悪い子はむちでたたかれる。最近のプレゼントは普通におもちゃ屋で買えるものに変わったが、夜のうちに煙突からピートが入ってきておいて行くのは昔ながらで、子供たちは靴の中に、白馬に与えるニンジンを入れて暖炉のそばに置いておく。

 シントは実在の人物で三人いた。現在トルコのアンタルヤ県にあたるリュキア地方の一都市、ピナラの大修道院長だった聖ニコラ(564年没)、何百という奇跡を起こしたと伝えられるイタリア、トレンティノの聖ニコラ(1305没)、ミラの司教だった聖ニコラ(350年ごろ没)だ。ピナラのニコラとトレンティノのニコラが起こした奇跡が、のちにミラのニコラのものとして、語り継がれていったようだ。

 大抵の文献ではミラの聖ニコラがシンテルクラース本人とされ、一番名も知られており、文献の中でも重要な聖人として書かれてきた。

 彼は270年、リュキア地方の港町パタラに生まれた。現在パタラという名の町はなく、アルシノエと名前が変わっている。ニコラはこの町の富裕な商人の息子で、のちに近郊の町ミラで司教になった。ミラはかつてギリシャの町で、トルコ人に征服されてデムレという名に変わった。

 ニコラは人々に愛され崇められた。水難に遭って溺れかかった漁師を救う奇跡を起こした。結婚していない女性はさげすまれ迫害された時代、貧しくて結婚するための持参金のない女性に金貨を与えた。金貨は開けられていた窓から投げ入れられたという説と、女性の干してあった靴あるいは靴下に金貨が入れたれていた、という説がある。

 ニコラが亡くなると、人々はこの司教のために特別な教会を建てて葬った。そして教会がニコラは聖人に認定され聖ニコラと呼ばれ、その逝去の日12月6日が記念日になった。ミラの町は1087年トルコ人に征服された。イスラムの手に落ちたその町から、人々は聖ニコラの遺体をイタリアのバリに運び、あらためて聖ニコラ・カテドラルを建設し葬りなおした。

 聖ニコラ伝説は10世紀の終わりには、ヴァイキングによって西ヨーロッパに伝播した。1163年オランダのユトレヒトにて、すでにその名が登場している。ベルギーで歌に歌わているように、彼がスペインからやってくる、といわれたのは、遺体を移動したのがスペイン人だからだ、という説と、スペイン領地下のベルギーにおいて、司教の訪問先はみなスペインで、マジパンの原料、アーモンドもマンダリン(みかん)もスペインの産物としてスペインからやってきていたから、自然に聖ニコラがスペイン人と考えられたのだ、という説とある。

 キリスト教が生まれて、伝道師たちは北へ北へとゲルマンの人々が住む土地にも改宗にやってきた。しかしゲルマン人の古代から伝わる民間信仰は根強く、キリスト教に改宗させるのは容易ではなかった。ゆえに伝道師たちは、ゲルマンのもともとの信仰の地、祭り、神たちをキリスト的なものに転換して、人々に語るようになった。まずは、ゲルマン人が最も重要な祭事の場としている、神への生贄を捧げる場所に教会を建て、ゲルマンの神々の役割をキリストの聖人たちのものとして語り伝えた。

 シンテルクラースもこの一例であると考えられ、ゲルマンの主神、ウォーダンに明らかな類似点がいくつもみられる。ウォーダンは北欧神話の主神オーディンでもある。

 ウォーダンは8本足の白馬スレイプニルに乗り、帽子をかぶっって広いマントをなびかせ空を飛び、手には槍(グングニル)を持っている。1年の終わりに人々に褒美か、あるいは罰を与えた。彼は全能であったからなんでも知ってはいたが、一対のカラス、フギンとムニンを使って人々の情報を集めもした。ゲルマンの人々はウォーダンに生贄を捧げる際には、白馬のスレイプルのためにも、ニンジンや藁などを靴や靴下に入れて暖炉のそばに置いた。動物が捧げられることもあったが、それはのちに、動物型のクッキーやパンに代えられた。

 お供のズワルト・ピートのほうは、ウォーダンのお供や使いのものの役目や特徴を若干寄せ集めた感がある。中世の話では、シントに連れられていたのは鎖でつながれた黒い悪魔で、まだズワルト・ピートではなかった。黒というのは当時、悪に打ち勝つ意味をもち、空路い肌の色を表すものではなかった。ピートの起源については、聖ニコラによって解放されたエチオピアの奴隷、ピーテルから来ているという説が有力だ。16世紀、スペインの貴族の多くが、褐色の肌のムーア人を召使にしていた。黒い悪魔の像はのちに、ウォーダンの使いやムーア人の召使像、聖ニコラの奴隷救済説に交じって現在のピートになった。今でもピートは16世紀の給仕の格好をしている。

 12月25日は、前日12月24日の晩家族そろってご馳走を囲み、翌朝子供たちは、部屋に飾られたクリスマス・ツリーの下にプレゼントを見つける。あるいは家族全員24日のイヴの夕食でプレゼント交換をしたり、クリスマスツリーの下のプレゼントは大人も含めて家族全員分用意される、という家庭もあるようだ。スペインの友人の話だと、子供たちは25日ではなく1月6日にプレゼントをもらうのだという。いずれにしてもベルギーの12月24日イヴの夜は、プレゼントに関しては家庭それぞれといった感じで、家族がそろって食事をいただくことに重点が置かれているようだ。 

 大体シントとケルストマンは同一人物である。ケルストマンはアメリカのサンタクロースがヨーロッパに逆輸入されたものだ。17世紀にアメリカに移民したオランダ人の、シンテルクラースの祝いが定着したようなのだが、19世紀までアメリカの絵に描かれたサンタは統一されていない。赤いマントに白いひげ、という今日私たちが抱くサンタ像は、20世紀のコカコーラの宣伝以降である。冬の間、売り上げが伸び悩むコカコーラをなんとか、冬も売れるようにと1931年から1964年にかけての契約で、サンタクロースがコカコーラを飲む、というポスターが町に貼られ、コマーシャルが流され、そのイメージは世界のサンタ像として絶対的なものになった。

 ベルギー各地のキリスト生誕の祝いは、カテドラル前や市役所前の広場にキリスト生誕の場を再現した動物小屋が飾られる。本物の羊が登場することもある。 家々を飾るクリスマスの飾りはどれも、キリスト以前のゲルマン、あるいは北欧などの古代の異教の伝統に基づいている。キリスト教が土着信仰を利用する形で、人々の心を捉え、浸透するようになる過程で、12月25日も 土着の祝い「光の祝い(Lichtfeest)」に合わせ、キリストの生誕の日として祝うようになったようだ。

 12月24日前後というのは、年間通して一番日が短い日がやってくる。古来人々は、その日を翌日から再び日が長くなる、喜ばしい日として「光の祝い」を祝った。ゲルマンの人々は常緑の木を切り、木の精に願いをこめて神への贈り物を飾った。12〜13日かけて、つまり12月24日ごろから1月6日ごろまで、神々を呼ぶ薪を燃やし続け祈りを捧げた。そのとき神々と共に集まってしまう魔物を追いやるために、鏡やガラスなど、何か反射するもの、あるいは姿見を映すものを飾りもした。人々はたらふくご馳走を食べ、飲み、その年の豊穣に感謝した。クリスマスにごちそうをいただき、常緑の木を切りキラキラしたものを飾りつける、というのはここに由来する。現在日本のクリスマスでもすっかりなじみの、木の切り株のケーキにも、古代の祈りの場に登場したシャーマンが扱った、人々に幻覚を与える赤いキノコが必ずちょこんと乗っている。

 「光の祝い」は、クリスマスツリーのてっぺん、あるいはキリスト生誕の場を再現した馬小屋の置物の屋根の上に、その生誕を知らせたとする星に名残をのこし、すっかりキリスト教の祭りに取って代えられた。しかしキリストの誕生日というのは定かではなく、そもそも初期のキリスト教において、キリスト生誕の祝いというのは考え難いものであった。古代ローマでは、敬意を表して誕生日を祝うしきたりはあったが、キリスト教ユダヤ教においては誕生日を祝う概念自体なく、妊娠、出産をむしろ、不浄なものとみなしていたからだ。   

 12月25日を祝うようになったのは、221年、ユリウス・アフリカヌスによる。彼はローマの軍指揮官であり、ミトラスを信仰していた。ミトラスは270〜275年ローマの皇帝となったアウレリアヌスに神として称えられたもとはペルシアの神で、ミトラスの誕生日が12月25日だったから、人々はミトラスを敬してその日を祝った。

 カトリック界にとって異教の祝いを受け入れるのは長らく議論の対象だったが、キリスト教を公認したローマ皇帝、コンスタンティヌス1世の時代(306〜337年)にこの祝いは一般的なものになった。リベリウスローマ教皇の時代(352〜366年)あたりに、25日をキリスト生誕の祝いと決定づけられたと考えられる。そして5世紀の終わりごろには東方教会以外がそろって、12月25日をキリスト生誕の日とした。東方教会はこれを受け入れず、ローマ・カトリック教会が公現祭している1月6日をその日としている。

 聖書における公現祭の記述はマタイ伝第2章に現れるが、「賢人たちがキリストを崇めに訪れた」とあるだけで、日にちも、人数も、その名も明らかではなく、中世に創作されたものと考えられている。アントワープのカテドラル前には登場しないが、キリスト生誕の場を再現した、等身大から部屋の置物のほどのサイズの小屋には、この三人の王様も含まれているものもあり、古代ゲルマンの「光の祝い」にぴったり重ねられて、キリスト教世界のクリスマスは、キリストの誕生から1月6日、三人の王様の来訪をもって終わりを迎える。  

 ベルギーではこの日、子供たちは「三人の王様」の歌を歌って近所を歩き渡り、小銭やお菓子をもらう、と書いたが、そう聞いたり読んだりはするものの、我が家に子供たちが歌を歌って訪れたことはない。今では家庭や幼稚園、職場などで陶器の小さな陶器の人形が入った「王様のケーキ」をいただくのが、季節の行事として定着しているようだ。切り分けられたケーキにその人形を見つけた者が、紙で作った冠をかぶって王様になる。陶器の人形はベルギー・フランス語圏のワロン地方からフランス方面の慣わしで、それが用意できない貧しい家庭では、質素に豆を入れて焼いていた。

が、17世紀の絵画の中の「三人の王様の日」は、家族が集まり飲んで食べてのクリスマスさながらの光景が描かれている。

写真19-1 「三人の王様の祝い」ヤン・ステーン(ライデンの画家、1662年 ボストン美術館蔵)

 時代の移り変わりと共に、ヨーロッパの伝統は故意に、あるいは自然に変化しつつある。日本のきらびやかなクリスマスの街を見慣れた目には、ベルギーに限らずヨーロッパの大抵の町のクリスマスの光景が、地味で質素に感じるが、それでも、12月のはじめから年明けまで、町は派手な飾り付けをするようになり、大きなプレゼントの包みを抱えた人々でごった返すようになった。

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20.マントヴァにて

 ガルダ湖から流れ出るミンチォ川沿いにマントヴァの町がある。パドヴァから車を走らせ川向こうに見えてくるマントヴァの町は印象的だ。

 マントヴァは北イタリア・ロンバルディア州の一都市で、中世ゴンザーガ家の時代に栄え、フィレンツェ、ミラノに並ぶ芸術都市として華やいだ。ゴンザーガ家は軍事長官から出発して、15世紀ジャン・フランチェスコ1世の時代に侯国に、1521年フェデリコ2世の時代に公国に成り上がった。フランドル・ゲント生まれの、10代にしてスペイン王かつ神聖ローマ帝国皇帝となったカール5世に忠誠を誓い、公位を授けられたのだ。

写真 20-01 ミンチォ川むこうのマントヴァの町
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20-01

 カール5世は、宿敵フランス国王フランソワ1世と、フランス支配下にあった北イタリアを争った。1521年は、そこからイタリア全土に戦火が広まった、イタリア戦争勃発の年でもある。ベルギー同様イタリアは当時、それぞれの都市が力を持ち、フランス支配下といえどもまとまりはなく、実際は各々の利害が複雑に絡みあって、フランス軍に反発する都市もあった。マントヴァもそのひとつだったというわけだ。

 マントヴァ市の南に、フェデリコ2世が愛人イザベラ・ボスケットとの逢瀬を楽しむために建てた宮殿がある。中世の地名Tejetoに由来を示してテ宮殿(Palazzo del Te)という。ラファエルロの最高の弟子として、すでにローマで名声を得て活躍していたジュリアーノ・ロマーノを宮廷画家に迎え、設計と装飾にあたらせた。中庭を囲んでシンプルな正方形をした、一階建てのこの宮殿、外観はシンプルで地味である。内部はその後の荒廃を著しく示してはいるが、しかし、それでも館内二十数室の部屋の壁や天井のフレスコ壁画は圧巻である。

 そのひとつ、「プシュケの間」という部屋がある。天井にはアモルとプシュケの交歓の図、南と西の壁には、古代ローマの神々がほぼ全裸で、宴の席で繰り広げる、エロスの世界が描かれている。この部屋に、カール5世を招いて晩餐会が開かれた。時はイタリア戦争の真っ只中、カール5世が北イタリアにおける権益を確保した、1529年の翌年のことであった。

写真20−02 テ宮殿 「プシュケの間」
(「MANTUA」Casa Editorice Perseus- PLURIGRAF より)
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20-02

 ゴンザーガ家本家本元の宮殿は、ソルデッロ広場に建つドゥカーレ宮殿である。フェデリコ2世の母、イザベラ・デステの時代に宮廷はより華やかに飾られた。フェッラーラ出身のルネッサンス的文化人イザベラは、芸術家を擁護しつつ、絵画に彫刻、工芸品、家具、ありとあらゆる分野の芸術品を収集した。ティッツィアーノやダ・ビンチに自分の肖像画を描かせてもいる。彼女の時代から6代にわたって集められた美術品の数々は、1627年の総目録によると、絵画だけでも1800点を越えるという。

 現在のドゥカーレ宮殿にその面影はなく、がらんと広い。そのひとつに「射手の間」と呼ばれる部屋がある。ゴンザーガ家の護衛の、弓の射手たちのための控えの間だった。

 そこに一枚、ルーベンスの絵が飾られている。「聖三位一体」と題するその絵には、フェデリコ2世の息子グリエルモ1世と、グリエルモ1世の息子ヴィンチェンツォ1世、彼らの妻、二人のエレオノラが描かれている。ヴィンチェンツォ1世はヴェネツィアにいたルーベンスを、宮廷画家としてマントヴァに招いた人物である。

写真20-03 射手の間 左から二つ目の一番大きい絵がルーベンスによる「聖三位一体」
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20-03

 ルーベンスは1600年から、途中スペインの滞在もあったが1608年まで、通算8年のイタリア滞在を終え、アントワープに戻った。そして、「バロック様式をアルプス以北に初めて持ち込んだ絵画」と言われる「キリスト昇架」を描いた。もともと聖ヴァルヴルヒス教会のために描かれたその絵は今、アントワープのカテドラルで「キリスト降架」の絵と対を成すように置かれている。

 ルーベンスの帰国した翌年からフランドルは12年の休戦期を迎え、平和の時代が訪れた。ルーベンスのもとには絵画の依頼が殺到し、その工房の繁栄は、そのままアントワープの繁栄に比例した。

 一方、マントヴァのゴンザーガ家には翳りが見え始め、その美術品は政情不安定に乗じて攻め込んできたオーストリア軍の略奪に遭ったり、財政難ゆえごっそり売りに出されてしまった。急速に衰えたマントヴァ公国は、1708年、オーストリアのハプスブルク家のミラノ公国に併合され、その300年の歴史を閉じた。

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山内佐和子:ベルギーの歴史と文化 vol. 2

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