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osamu 's RC flight
エッセイ
風を見ながら

5.二宮忠八はペノーを知っていたか?

 2004年8月28日、恒例のテレビ番組「鳥人間コンテスト」を見ていたら気になるシーンがあった。簡単に言うと「ライト兄弟以前に日本の二宮忠八が飛行理論を確立していた」というような内容。筆者は「まただよ…」と暗澹たる気分になった(以前にも二宮忠八のドキュメンタリー番組で類似の発言があった)。

 二宮忠八(1866-1936)がカラス型飛行機(飛行器とも書く)を約30m飛ばしたのは1891年。これはどうやら事実のようだ。これに対してライト兄弟によるライトフライヤーの飛行は1903年。しかし、この2つの事実から「ライト兄弟よりも早く日本人が飛行機を飛ばした」といってしまうのは問題だし、「ライト兄弟以前に日本人が飛行の理論を発見していた」などというのは明らかに事実誤認だ。

 1903年のライト兄弟の業績は「有人の動力付重航空機を世界最初に飛ばした」ということ。二宮忠八のカラス型飛行機は「無人の動力付重航空機」であって、同列には比較できない。そして無人の動力付重航空機なら、ヨーロッパではたとえば1871年、フランスのアルフォンス・ペノーAlphonse Penaud(1850-1880)が現在の飛行機の原型といえるプラノフォアPlanophoreの飛行に成功している。この機体はゴム動力で2ブレードのプロペラを回すもので、今でいえば模型飛行機のライトプレーン。翼幅45cmの主翼と尾翼を持ち、当時のイラストも残っている(広く知られたイラストではプロペラがプッシャー式だがトラクター式も作られたという)。飛行距離は60mだったと記録されている。

 他にも模型飛行機=無人の小型飛行機としての動力付重航空機の試みはライト兄弟の1903年以前にいくつかなされている。ペノーの機体や他の試みが新聞などで日本に紹介された可能性は高いし、それを忠八が知っていた可能性も否定できない。たとえ忠八が欧米とは完全に独立して、独自の発想からカラス型飛行機を開発したとしても、「無人の動力付重航空機の飛行」の先取権(プライオリティー)はペノーにある。また忠八が陸軍の野外演習の際に山間部でカラスの飛行を見て飛行機を作ろうと思いついたのは1889年のこととされているから、飛行原理の発見そのものも、ペノーの飛行よりもかなり後のことだ。

 いずれにせよ、日本の若者が欧米で「ライト兄弟以前に日本の二宮忠八が飛行理論を確立していた!」などと不用意に自慢したら、さらりと受け流されるか、あるいは失笑を買うかのいずれかだろう。

 もし日本で最初に飛行に挑戦した人物ということであれば、江戸時代天明期に凧の改良から実践的に飛行の原理の探求に進み、1785年に自ら滑空飛行を行ったと伝えられる表具師幸吉こそが賞賛に値するだろう。当時は鎖国時代だから、彼がまったく独力で飛行を達成した可能性は高い。幸吉が製作したのは竹と布による大凧だったと伝えられるが、現在のゲイラカイト型ハンググライダーに近いものだったかもしれない。

 この幸吉を題材にした飯嶋和一著『始祖鳥記』(小学館)はほとんどがフィクションと思われるが読み物としては完成度が高く、吉村昭が二宮忠八を描いた『虹の翼』(意図的か、あるいは吉村の無知によるのか、ペノーには一切言及されていない)よりもはるかに含蓄が深い。

関連リンク:
・Alphonse Penaud: 1850-1880 --- A brilliant and tragic life
・アルフォンソ・ペノー
・二宮忠八

04.08.29
last modified: 04.06.06

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