比較する、というのは物事を考える上で大切なことだ。以前あるテレビ番組で、国産車とドイツ車のドアのロックの強度の比較実験を見たことがある。衝突事故を起こしたとき、ドアが開いて外に投げ出されて死亡することが多いので、かなりの衝撃を受けてもドアが開かない方が乗っている人にとっては安全なのだそうだ。
国産車はある程度、力をかけたところでドアのロックが壊れたが、ドイツ車はボディが歪むほど力をかけてもドアは開かなかった。最近、高級外車に人気があって、金満日本の金余り現象のひとつとして批判されもするが、この実験を見た限りでは、ドイツ車は安全面でそれなりのことはある、という印象を受けた。
これなどは「ためになる比較」の例だが、中には本来比較できないものを無理やり比較することもある。たとえばスポーツ。客観的に結果が出るフィールド競技やマラソンは見ていてスッキリするが、新体操やフィギュア・スケートの順位になると納得できないこともある。あの権威あるノーベル賞でも、平和賞とか文学賞になると選定基準が曖昧だ。
かくいう筆者も比較するのが好きなほうで、というよりは比較しないと考えがまとまらないので、ついつい演奏の比較とか作曲家の比較をやってしまうが、あまりコジツケをしないように自ら戒めるようにしている。
さて今回聴き比べようと思うのは「赤毛の司祭」といわれたアントニオ・ヴィヴァルディとJ.S.バッハ。ただし比較といっても、このふたりのどっちが偉いか、というような比較ではない。ヴィヴァルディの作品と、それをバッハが編曲したものとの比較だ。
そもそも現在の形のヴァイオリンとその一族は1600年頃イタリアで生まれた。そして弦楽合奏の音楽も、まずイタリアで発展し、コレルリ、トレルリを経てヴィヴァルディにいたる流れの中で、トリオ・ソナタや合奏協奏曲が多数作られた。
ヴィヴァルディといえば、まずは協奏曲集《和声と創意の試み》作品8に含まれている《四季》が有名だ。 確かに《四季》はいい曲だが、ちょっと食傷ぎみ。筆者は《調和の幻想》作品3の12曲の協奏曲が気に入っている。CDもいくつか出ているが、お勧めはピノック指揮イングリッシュ・コンサートの演奏(Vivaldi:L'estro armonico ARCHIV 423 094-2)。サイモン・スタンデイジのヴァイオリンがすばらしい。第6番、第11番の2楽章などは絶品で、これを聴くともう思い残すことはない、という気になってしまうほどだ。
さてバッハはこれらイタリアの弦楽器の音楽を研究し、その結果有名な《ブランデンブルグ協奏曲》やヴァイオリン協奏曲などが生まれたのだが、おもしろいことにバッハはヴィヴァルディの協奏曲を10曲、編曲している。「調和の幻想」からは6曲編曲しており、そのうち2曲はオルガン独奏用に編曲した。
ヴィヴァルディ バッハ
協奏曲イ短調 Op.3/8 → 協奏曲 BWV 593
協奏曲ニ短調 Op.3/11 → 協奏曲 BWV 596
このバッハの編曲を、コルゼンパの演奏で聴いてみよう(J.S.Bach・3 concertos afterVivaldi・Daniel Chorzempa PHILIPS 412116-2)。さっき無理な比較は慎もうと誓ったばかりだが、このヴィヴァルディの原曲とバッハの編曲、ついつい比較してしまう。バッハ・ファンの筆者としてはできればバッハを持ち上げたいのだが、この場合はヴィヴァルディの原曲の方が圧倒的にいい。オルガンはどうやってみても平板で、第11番の2楽章などは表情が乏しくてつまらないし、洗練された原曲に比べてどうもヤボったくなっている。
ただし筆者はオルガンがだめ、といっているのではない。オルガンにはオルガンの、弦には弦のよさがある。だからオルガン曲はオルガン本来の良さを発揮するように作るべきで、弦楽合奏の真似をするべきではない、ということなのだ。
ところでバッハの《イタリア協奏曲》を、もしヴィヴァルディが弦楽合奏の協奏曲に編曲したらどうなるだろう?メフィストフェレスに「聴かせてあげましょうか?」と持ちかけられたら…魂を売ってしまうかもしれない。
90/1 last modified 02/6
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