※このページは以下の9編のエッセイを収録しています。
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日常生活ではよく「10年ひと昔(十年一昔)」といわれるが、クラシック音楽の歴史はスパンが広く、変化もゆるやかなので「100年ひと昔」という感じ。今回は過去の世紀の「05年」に何が起こったか、100年単位で音楽史をたどってみよう。
■1605年
スペインのT. L. ビクトリア(1548頃〜1611)が、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世妃で1603年に他界した皇太后マリアのために《レクイエム》を出版している。皇太后はもともとスペイン王カルロス1世の妹で、マドリッドの修道院で余生を送っており、ビクトリアはここで皇太后に仕えていた。この《レクイエム》は穏やかで慰めるような音楽で、ルネサンス多声合唱曲のレクイエムとしては比較的知られている。
この年、日本は江戸時代初期の慶長10年。豊臣秀吉が没したのが1598年、関ヶ原の戦いが1600年、江戸幕府開幕が1603年、大政奉還が1867年。つまりクラシック音楽のバロックから古典派、ロマン派中期あたりまでは、日本ではほぼ江戸時代ということになる。
■1705年
当時アルンシュタットの教会オルガニストを務めていた20才のJ. S. バッハがブクステフーデ(1637頃-1707)の演奏を聴くためにリューベックへ旅行する。ところが4週間の滞在予定が4ヶ月に及んだため、アルンシュタットから叱責を受けることになった。またブクステフーデの影響からか、バッハがオルガン演奏に「耳慣れない響きを取り入れた」ために保守的な人々から批判されたという。このエピソードはブクステフーデのオルガン作品を聴くと納得できる。ブクステフーデはしばしば当時としては異例な不協和音を加えることがあり、ある意味ではバッハよりも大胆だったからだ。
この年、日本は宝永2年。近松門左衛門の浄瑠璃『用明天皇職人鑑』が竹本座(大阪の道頓堀)で上演されている(1703年には『曽根崎心中』が大ヒット)。
■1805年
ベートーヴェンがピアノソナタ《熱情》とオペラ《フィデリオ》を完成し、4月7日には第3交響曲《英雄》がウィーンで初演されている。日本は江戸時代の文化2年。浮世絵師の喜多川歌麿が没している。
■1905年
1月26日にシェーンベルク(1874-1951)の交響詩《ペレアスとメリザンド》がウィーンで初演され、夏にはマーラー(1860-1911)が第7交響曲を完成し、10月15日にはドビュッシー(1862-1918)の交響詩《海》がパリで初演されている。この3曲がほぼ同じ時期に書かれたというのはちょっと興味深い。改めて聴き直してみよう。
まずマーラーの第7。クーベリック指揮(1970)では約73分と長大な作品だ。ドイツ後期ロマン主義の性格が強く、今となっては保守的にさえ感じられるが、そのぶん聴きやすい。第5楽章はとりとめない感じもするが管弦楽の響きは多彩で迫力がある。シェーンベルクの《ペレアス》。ブレーズ指揮(1992)では約40分でこれも大曲。全体としてはまだ調性音楽とみなされているが、部分的には半音階的な和声で調性が曖昧になっている。
だからマーラーの第7と《ペレアス》は大局的に見ればいずれも後期ロマン主義のドイツ・オーストリアの様式で共通する面があるとはいえ、違いも大きい。この後シェーンベルクは無調から12音技法へと進み、伝統からは逸脱していくのだが、そのような未来を予見させる曲ともいえる。なおこの曲は『青い鳥』で知られるメーテルリンクの戯曲(1893)が元になっており、フォーレが付随音楽(1898)、ドビュッシーがオペラ(1902)、シベリウスが付随音楽(1905)を書いている。
他方、ドビュッシーの《海》はフランス音楽ということもあって上記2曲とはだいぶ様式が異なる。《1. 海の夜明けから真昼まで》、《2. 波の戯れ》、《3. 風と海の対話》の3曲から成り、「3つの交響的素描」という副題が付されているが、絵画的な描写というよりはむしろ雰囲気や空気感が音によって伝わってくるように感じられる。ブレーズ指揮(1993)*ではそれぞれ7〜9分程度だから、重厚長大な曲が苦手な方には聴きやすいだろう。
いずれにせよこれら3曲、それぞれ管弦楽の豊かで多様な響きを楽しめる。ベートーヴェンやブラームスの交響曲もいいが、これら3曲も作曲後100年を経過した現在では古典的名曲といってよく、今後はもっと広く聴かれてよいだろう。
さて1905年、12月9日にはR. シュトラウスのオペラ《サロメ》がドレスデンで初演され、12月30日にはレハールの代表的オペレッタ《メリー・ウィドウ》がウィーンで初演されている。ちなみにこの年、エジソンが映画を発明した。また日本は明治38年でロシアと戦争しており(日露戦争)、田中穂積がもの悲しい旋律の《美しき天然(天然の美)》を、夏目漱石が小説『我が輩は猫である』を発表している。
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*ドビュッシー:交響詩《海》/牧神の午後への前奏曲/映像.ブレーズ(独グラモフォン UCCG-7029)
今回紹介するのはフルートのエマニュエル・パユと、ジャズ・ピアノのジャッキー・テラソンによるクラシック名曲のジャズ編曲アルバム「into the BLUE」。2001年、つまり21世紀に録音されたちょっとユニークなクロスオーバーCDだ。
タイトルの「BLUE」はおそらくジャズで使われるブルーノートのこと。これは長音階の第3音、第5音、第7音を半音下げるもので、メロディーが短調っぽくなるので「ブルー=憂うつな」と呼ばれるようになったらしい。コードの方は通常の長音階の音を使うから、ブルーノートとは半音でぶつかりあい、ジャズ独特の響きを生み出す。つまり「into the BLUE」とは「クラシックをジャズへ」という意味を込めているのだろう。
このアルバム、フルート、ピアノ、ドラムス、ベースの編成で編曲はテラソンによる。まずはサン=サーンスの《大きな鳥かご》(動物の謝肉祭)。完全にモダンジャズに聴こえるイントロに続いて、フルートがあの細かい動きの下降音型を奏でる。1分19秒の演奏で、軽く雰囲気作り、といった感じだ。
次はラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》。あの冒頭のメロディーがすぐにフルートで出てくるのでそれとわかるが、ピアノは完全にジャズ。もともと原曲の和声にもジャズに通じる面があるが、テラソンはさらにソフィスティケートされたコードを当てている。原曲を知らずに聴いたらスタンダードナンバーと思ってしまうだろう。ゆったりとした舞曲であるパヴァーヌの動きが、落ち着いたジャズバラードになる。7分59秒の充実した演奏だ。
同じくラヴェルの《ボレロ》。フルートソロのゆったりしたイントロで始まり、次いでピアノにアップテンポのルンバ風ラテンリズムがくる。「これがボレロ?」と思うのだが、テーマが出てくると納得。原曲は単調なリズムパターンの反復が催眠効果をもたらすようなところがあるが、テラソンの編曲はドライブ感がある。ボレロも舞曲、つまりはダンス音楽だから、こういう表現もアリだろう。これも8分21秒と充実した演奏だ。
フォーレの《夢のあとに》。旋律的にも和声的にも、ごく自然にジャズになっている。フォーレ独特の切ない感じが現代的な感覚と溶け合っていて、筆者は最初の数秒でグッときてしまった。
ヴィヴァルディの《四季》。バロック音楽はセブンスコードの5度下降シーケンスが出てきたりしてこれまたジャズになりやすい。かつてはジャック・ルーシェの「プレイ・バッハ」や、スウィングル・シンガーズのスキャット(ダバダバダー)によるジャズ風バッハがヒットしたことがある。テラソンは春、夏、秋、冬の第1楽章をそれぞれ2分弱にまとめているが、さてどうだろう…春、秋、冬はちょっとあっさりしていてジャズとしては物足りない。よくも悪くもお遊びの感がする。唯一、夏だけがアグレッシブなジャズで聴かせる。
モーツァルトの《トルコ行進曲》。ゆっくりめなので、ちょっと拍子抜け。シンコペーション化したりアクセントをずらしてリズム面をジャズ風にした演奏。コードはほとんど原曲のままでちょっと物足りないが、これはこれで肩に力の入らないモーツァルトを狙ったのかもしれない。
シューマンの《見知らぬ国とひとびとについて》(子供の情景)。これをジャズにするというのはかなり意表を突いた発想だが、しかし聴いてみるとなかなかのもの。ジャズのコード進行がうまく合っているし、中間部にはフルートとピアノによるアドリブが入っていて楽しめる。この曲をここまで違和感なくジャズに変容させたテラソンには脱帽だ。
他にドビュッシーの《象の子守歌》(子供の領分)パガニーニの《無窮動》、リムスキー=コルサコフ《熊ん蜂の飛行》、ボランの《ヴェローチェ》が収録されたこのディスク、クラシックはあくまで素材として使われていてかなりデフォルメされている。トータルな音楽としてはジャズというべきだろう。この意味で、まずはフランス近代音楽ファン、ジャズファンにお薦めしたい。筆者としてはラヴェル、フォーレ、シューマンが久しぶりの「目からウロコ」だった。
ちなみにテラソンは1965年ベルリン生まれ、パリ育ち。彼のキレのいいジャズピアノは、たとえば『ラバー・マン Lover Man』(Venus、1993年録音)で聴くことができる。1970年生まれのブラッド・メルドーと並んで、90年代に登場した注目すべきジャズピアニストだ。
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* in to the BLUE / Emmanuel Pahud : Jacky Terrasson (EMI CLASSICS 7243 5 57257 2 1)
※国内盤はパユを前面に出したジャケットで、タイトルは『夢のあとに』( 東芝EMI TOCE-55396)。
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が没した。在位26年、84歳だった。ローマ法王(教皇)とは、イエス・キリストの弟子聖ペテロの後継者という位置づけで、ローマ・カトリック教会の最高指導者。その下には枢機卿、大司教、司教、司祭(いわゆる神父)がいる。
また、法王は過ちを犯さない。たとえば法王が発した言葉に間違いはない、ということ。信徒は絶対服従しなければならないのだ。この意味では法王は最後の絶対君主といってもよい。ただし、カトリックの聖職者は結婚を許されず、法王も生涯独身で過ごすから世襲制はとれない。法王が没すると、世界中の枢機卿がローマに集まり、投票を行って新法王を決める。
ところでヨハネ・パウロ2世の前任者、ヨハネ・パウロ1世、本名アルビーノ・ルチアーノは貧しいイタリアの労働者の家に生まれ、苦学して司祭となり、法王になった人物。彼は貧しい人たちに心を砕き、避妊や体外受精に一定の理解を示し、また教会の資産の運用に公正さと透明性を求めた。しかし1978年に法王に即位した彼は、在位33日で急死する。享年66歳。死因不明だったので、いろいろ憶測がなされた。
中には、バチカンの莫大な資産を運用してきた経理部門の聖職者や、バチカンと関連のあるイタリアの金融機関や企業の関係者たちが、自分たちの既得権益が損なわれたり不正が暴かれるのを恐れて暗殺した、という陰謀説まである。彼らにとって、ルチアーノは「ペルソナ・ノン・グラータ=好ましからざる人物」だったのだ。
その後を継いだのがヨハネ・パウロ2世、本名カロル・ボイティワ。ポーランド人。イタリア人ではない法王はハドリアヌス6世(オランダ出身、在位1522-23)以来のこと。ポーランド人が法王になったことは当時、政治的に重要な意味を持っていた。
ポーランドはもともとカトリック教国だったが、第2次大戦後、実質ソ連に併合されて共産主義国家となった。そして共産主義政権は宗教を否定し弾圧した。共産主義は神を認めない無神論の立場をとったからだ。つまり教会にとって共産主義は憎むべき敵だった。当然、ポーランドで長年苦労してきたボイティワは反共意識が強かった。
この点で彼は前述のバチカンの一部の勢力にとっては好ましい人物だったといえる。なぜならボイティワはイタリアの社会情勢や法王庁の内部事情にうとかったし、彼が反共に専念して外に目を向けている限りは自分たちの身は安泰だったからだ。またボイティワは教義の面では保守的で、現状維持派には好都合な法王だった。彼は基礎体温法以外の避妊手段を一切認めず、体外受精や尊厳死も認めていない。
さて音楽史上に名を残した法王といえば、単旋律聖歌を集大成したと伝えられるグレゴリウス1世(在位590-604)、そしてパレストリーナ(1525頃-1594)の《教皇マルチェルスのミサ》*が思い浮かぶが、過去の法王にはどんな人物がいたのだろうか。
15〜16世紀にはしばしば有力貴族から法王が出て富と権勢を誇ったが、中には堕落した法王もいた。代表格がスペイン貴族ボルジア家出身のアレクサンデル6世(在位1492-1503)。彼はラファエロ、ミケランジェロ、ジョスカン・デ・プレのパトロンでもあったが、権力闘争の末に法王となり、複数の女性との間に子供をもうけ、さらには息子チェーザレを「甥」と偽って枢機卿にまで取り立てている。
その反動で綱紀粛正を目指した厳格な法王も現れるが、この時期、めまぐるしく法王が交替している(彼らの死因が病死や老衰だけとは思えない)。このアレクサンデルから8代後のマルチェルス(マルケルス)2世は1555年4月10日に即位し、その3日後、当時パレストリーナも所属していた法王庁の聖歌隊員を集めて、教会音楽はあくまで典礼にふさわしいものでなければならず、歌詞が明瞭に聴き取れなければならないと説教したという。これは裏を返せば、当時の教会音楽が世俗の旋律を取り入れて華美で娯楽的なものになっていたことを示している。厳格な聖職者から見れば教会音楽も堕落していたのだ。
ところでこのマルチェルス、在位22日で没する。享年54歳だった。次いで即位したパウルス4世も規律を重んじる厳格な人物で、パレストリーナを含む既婚の音楽家3人を解雇してしまった(法王の礼拝堂に妻帯者がいることを嫌ったらしい)。厳格で禁欲的な法王は音楽家には理解がなかったのだ。互いに「好ましからざる人物」だったというべきか。なお、パレストリーナはマルチェルスの没後に《教皇マルチェルス のミサ》を書き上げたようだ。この曲、よくいえば天国的な響きだが、メリハリがなく、やや退屈。歌詞も聴き取りにくい。
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*パレストリーナ:教皇マルチェルスのミサ曲、他.
アルヒーフPOCA-2547
参考文献:
Yallop, David. A. 1984. In God's name. Poetic Products Ltd.[邦訳:デヴィッド・ヤロップ 1985 『法王暗殺』徳岡孝夫訳 文芸春秋社社]
Rosa, Peter de. 1988. Vicars of Christ ---The dark side of Papacy. Bantam Press.[邦訳:ピーター・デ・ローザ 1993 『教皇庁の闇の奥----キリストの代理人たち』 遠藤利国訳 リブロポート]
【追記】
2006年9月、ヨハネ・パウロ2世の後継者である現ローマ教皇ベネディクト16世が、講演の中でイスラム教を批判する言葉を引用し、イスラム教徒側から激しく批判されている。ベネディクト16世は教皇就任前はヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿として知られており、カトリック守旧派の代表格と見なされていた。そして彼は長年、信仰教理聖省の長官を務めた。
信仰教理聖省とは、もともとは宗教裁判所、異端審問所を統括する部署だったところ。後に検邪聖省と呼ばれるようになり、さらに信仰教理聖省と改名して現在に至っている。つまりカトリック内の思想統制を行ってきた部署であり、カトリック教会の保守性と不寛容を象徴しているといっても過言ではない。そこの長官を務めたということはベネディクト16世自身が極めて保守的で不寛容であることを象徴しているといえるだろう。
今回の問題発言とその事後処理に関して、ベネディクト16世はかなりイスラムに気を遣っているつもりかもしれないが、無自覚的な不寛容と保守性、他宗教に対する無理解が露呈してしまったというべきだろう。新聞報道では、ヴァチカン内でさえ問題の教皇発言に対しては批判があるようだ(朝日新聞2006年9月23日付9面「法王発言にイスラム教徒反発」)。
2009年2月、またベネディクト16世の「失態」が報じられた。第2次大戦中、ナチス・ドイツによって行われたユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)を疑問視する発言をした大司教の破門を解除したとのことだ。発言したのはイギリスのウィリアムソン司教で、2008年11月にテレビインタビューで「ナチスのガス室で殺された者はいない」といったという。しかし、ドイツではホロコーストの否定や矮小化は刑法に違反する行為で、ドイツやユダヤ教関係者から批判が起こった( 朝日新聞2009年2月14日付9面「渦中のローマ法王」)。
イスラム問題にせよ、ホロコースト問題にせよ、ベネディクト16世の「政治的センスのない発言」と評されるが、これは彼が保守的で不寛容な人物であることを端的に示しているといえるだろう。
last modified: 2010.11.14
「5月病」という言葉がある。主に大学の新1年生に見られる現象で、ゴールデンウィーク明けぐらいからなんとなく大学に行く気がしない、勉強する気がしない、つまり無気力になる。重症になるとせっかく入学した大学を退学してしまうケースもある。この5月病、最近では新社会人、新入社員にも見られるようになり、その場合はやや遅れて6月頃に症状が現れるために「6月病」とも呼ばれる。
この症状の原因については諸説あるが、過酷な入学試験や入社試験を乗り切って、いざ入学・入社してみたものの、現実は思ったほど明るく楽しいものではなく、失望してしまうからだといわれている。あるいは「あの大学に入りたい!」、「あの企業に入りたい!」という明確な目標があるあいだは努力のしがいがあるから多少苦しい試験勉強にも耐えられ、生活にもよい意味での緊張感と充実感があるが、その目標が達成されると、当面は目指すべき目標がなくなってしまい、そのためにある種の虚脱感におそわれるともいわれる。
新入生、新入社員以外にも、似たような症状が出ることがある。わが国では一般に4月に配置転換や昇任昇進が行われ、仕事や生活の環境が変化する。当初は緊張感を持って対処しているから気にならないが、一段落した5月〜6月に新たな現実の厳しさがじわじわと感じられることもある。「新たな環境で、自分なりに目標を持とう!」とタテマエではわかっていても、現実にはそう簡単ではない。こんなときに無気力に襲われるのだ。5〜6月の気候変化も影響するだろう。
この5〜6月病、かからないにこしたことはないが、かかってしまったらどうするか。ここはひとつ、焦らずにしばらくはこの病気と付き合ってみたらどうだろう。特にこれまで心身を酷使してきたのなら、ここで肩の力を抜いてみるのもよい。5〜6月病は「ちょっと休んだら?」という心身からの警告かもしれないからだ。
さて落ち込んだときや精神的に疲れたときには哀調を帯びた弦楽器の音が効果的といわれている。また、無気力な状態の時に元気を出そうとしてにぎやかな音楽を聴くのは逆効果で、その時の気分に似た静かな音楽を聴き、そこから少しずつ明るく活発な音楽へ進むと、それにつれて気分も上向いてくるといわれている(同質の原理)。そこで今回は5〜6月病と付き合うための音楽をいくつか紹介しよう。テーマはヴァイオリン・アダージョ。つまりヴァイオリンを用いたゆっくりした音楽だ。
まずバロックではバッハやヴィヴァルディ、コレッリのヴァイオリン協奏曲やヴァイオリン・ソナタの緩徐楽章。筆者のイチオシは、ヴィヴァルディの《調和の霊感》op. 3、第11番ニ短調の第2楽章。短調の緩徐楽章で、気落ちした気分にベストマッチ。落ち込んだときには中途はんぱに立ち直ろうとせず、徹底的に落ち込んだ方がかえってその後の回復は早いのではないかと思えてくる。3分程度なのでイライラすることもない。
次いでバッハのヴァイオリン協奏曲ホ長調の第2楽章を聴く。こちらはちょっと長めで、中間部では長調に転じる。少し明るさが出てくる感じだ。
古典派ではハイドンやモーツァルトの弦楽四重奏曲あるいはヴァイオリン協奏曲の緩徐楽章がよいだろう。たとえばモーツァルトのアダージョ ホ長調 K. 261。長調でシンプルな曲なので、落ち込みが激しいときは「そんな脳天気な気分になれるか!」とちょっと抵抗があるが、少し気分が回復したときに聴くと効果的。どちらかというと軽度な精神的疲労に向いているといえる。
ロマン派では候補が多すぎて迷ってしまうが、ちょっとマイナーなところでキュイのヴァイオリン・ソナタ ニ長調 op. 84の第2楽章。また同じくキュイのヴァイオリンとピアノのための24の小品《万華鏡》op.50の中にも、心にしみるアダージョがいくつもある。
近現代はどうだろう。最近、筆者が疲れたときに聴くのはチョン・キョン・ファのヴァイオリンによるバルトークのヴァイオリン協奏曲第1番の第1楽章*。暗く謎めいた音楽だが恐怖や不安は感じない。照明を落とした静かな部屋の中で横になっているような気分になる。不思議な鎮静効果がある曲だ。
前述のバロック〜ロマン派の曲に比べると難解だが、現在は17〜19世紀に比べれば社会が大きく変化して複雑化し、個人の置かれた社会的・経済的状況も錯綜して一筋縄ではいかない。こういう時代にはストレスによる落ち込みもそう単純なものではない。バルトークのこの曲ぐらいでないと、同質化しきれないように思える。
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*Bartok: Violin Concertos 1& 2. Kyung Wha Chung
(DECCA 125 015-2)
ヒットする曲の条件は何だろう。必ずしも音楽の質だけで決まるとはいえないが、誰でもわかりやすく、多くの人が共感できる曲はヒットするといえるだろう。逆に一部の専門家しかわからないような凝った音楽、聴き手に一定水準の音楽的能力や音楽経験を要求するような曲はヒットしにくいといえる。
この問題について、モーツァルトが1782年12月28日付の手紙の中で興味深いことを書いている。
「予約演奏会用の協奏曲が2曲必要です。これらの協奏曲は、非常に易しいものと非常に難しいものとの中間を正確に狙ったもので、とても華やかで聴いて楽しく、シンプルで自然ですが無内容に響くことはありません。専門家のみが真に楽しめる個所もここかしこにありますが、素人でも満足を感じるはずです、たとえその理由がわからなくても。」
ここには作曲家の職業上の秘密、あるいはモーツァルトのプロ作曲家としてのドライな面が感じられる。予約演奏会というのは前売り券を売り、演奏会を行う方式。およそ18世紀頃から公開演奏会が一般化するにつれて採用されるようになった。不特定多数の人が安価にチケットを入手できるようにするかわりに聴衆の数が多くなるように演奏会を企画して利益を上げようというものだ。いわば薄利多売。これは現在の各種演奏会の方式と本質的には同じだ。
チケットが売れなければ話にならないから、幅広い層にアピールしなければならない。しかしモーツァルトは決して「わかりやすければいい」とか「素人にはわかりやすいものを」といってはいないし、もちろん「理解できる人だけが聴けばいい」ともいっていない。その中間を正確に狙う、というところがミソ。
「華やかで楽しく、シンプルで自然」というはこの時代の古典主義の理念で、技巧を凝らしたり複雑さを追求した難解な音楽は好まれなかった。これはひとつには啓蒙思想による人間の自然な感覚を尊重する風潮に由来し、社会的には音楽を享受する階層がそれまでの王侯貴族から中産市民階級に拡大したためだ。
晩年のバッハは、当時の音楽評論家から「技巧が過度、もっと自然であるべきだ」と批判されているが、これは古典主義的な音楽観からなされたものと解釈できる。「一部の音楽通の貴族にしかわからないような音楽はこれからは時代遅れ」ということなのだ。だからハイドンやモーツァルトの音楽は、ある意味ではバッハよりも単純素朴といえるが、これは音楽がより広い層に受け入れられることにつながる。
さてウィーンといえども、音楽通の数は限られるだろう。チケット金額が同じなら、演奏会に音楽通がひとり来てくれるよりも、平均的一般人(素人)が3人来てくれた方が営業面では有利なのだ。しかしモーツァルトはもっと計算して「音楽通も満足するし、一般人も楽しめる」と書いている。つまり4人来ることを狙っているのだ。これは作るテクニックとしてはむずかしい。凝った和声や繊細な表現といったものは音楽通には受けるが、一般人にはわからない。逆に派手で明快な音楽は一般人にはわかりやすいが、そればかりだと、音楽通には内容空疎な印象を与える。
ただ音楽というのは時間経過の中で変化していくものなので、わかりやすい部分と、やや凝った部分をうまく混ぜ合わせれば、音楽通も一般人もある程度まで満足させることは可能だろう。モーツァルトはそういう曲を書こうとしていたのだ。
ではモーツァルトはこの手紙を書いた後、どんな協奏曲を書いたのだろうか。この手紙の直後に書かれたのはピアノ協奏曲第11番ヘ長調 K.413(387a)と第14番ハ長調 K. 415(387b)だったと考えられている。インマゼールがフォルテピアノで演奏したCDを聴いてみよう*。
これらの曲は大局的にはウィーン古典派の音楽で、現在の基準からすると明快でわかりやすい音楽。しかし作曲された18世紀末の時点では斬新で新しい面もあったと思われる。特に第1楽章ではさまざまな音楽的要素が出てきて、感傷的なフレーズもあれば、大げさな身振りでハデなところもあるが、これらの要素のうちのいくつかは当時としては新しくユニークで音楽通向けであり、いくつかはより一般的で大衆的だったのだろう。
モーツァルトはしばしば「神童」、「天才」といわれるから、人によってはインスピレーションに駆られて神がかり状態で一気に曲を書き上げる「ゲイジュツカ」というイメージを抱くかもしれない。しかしそれはいささかロマン主義的な幻想というべきだ。
前掲の手紙からすると、彼は自分の音楽に対してかなりメタ認識ができており、ある意味では冷静かつ客観的に「どうすればウケるか」を考えながら作曲し、演奏していた。そう、モーツァルトは「冷静」、「カッコいい」、という2つの意味でクール cool なミュージシャンだったのだ。
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*W. A. Mozart: Clavier-Concerte 11, 13 & 14. Orchestra Anima Erterna/ J. v. Immerseel (Channel Classics CCS 0990)
一般に音楽とは趣味、余暇に楽しむもの。娯楽のひとつ。だから自分の好きな曲を好きなように聴いていればよい。クラシックファンでも、特定の作曲家のファンは他の作曲家の曲をほとんど聴かなかったりする。まあ本人の自由だからハタからとやかくいうことはないのかもしれないが、しかし、他の作曲家の曲を聴けば、自分のお気に入りの作曲家のよさもより明確になるはず。また1回聴いてピンと来なくても、何回か聴いていくうちによさがわかることもある。音楽はできるだけ幅広く、また数多く聴いた方がよいとは思うが、これも余計なお世話かも知れない。
ところで筆者は1977年から、音楽系専門学校や音高、音大、一般大学でクラシック音楽の歴史を教えてきた。今年度は西洋音楽史、鍵盤音楽史、管弦楽史、ジャズ・ポピュラー音楽史の授業を行っている。その授業の準備のために、また自分の研究のために今も音楽史の勉強を続けている。
ただし、筆者の「音楽史の勉強」というのは、言葉で書かれた音楽史書を読むことではない。歴史上の音楽をCDで聴き、楽譜を見、部分的には自分で弾いてみることに重点を置いている。だから筆者は自分が個人的には好きでない音楽や、興味のない音楽も聴いてきた。いや、むしろ好きな音楽よりも、そうでない音楽の方を数多く聴いてきたといえる。
とはいえ、かくいう筆者も中学から高校ぐらいはバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった大作曲家ばかり聴いていた。しかし大学で本格的に音楽史や音楽研究(音楽学)を学ぶようになってからは、大作曲家と同時代の、今は無名の作曲家にも目を向けるようになった。
そして現在ではいわゆる「大作曲家」の「名曲」はデファクト・スタンダードであり、同時代の他の作曲家も同程度にすぐれた作曲家であり、また無名の曲にも聴くべきものは多い、と考えている。そして特定の作曲家を過剰に崇拝するようなこともなくなった。いわば紺屋の白袴だ。
ジャズ・ポピュラー音楽に関しても、授業をするからには自分の好きなコルトレーンやナラ・レオンばかり聴いているわけにはいかない。モダン以前のジャズから、中南米、インドの大衆音楽、イギリスのバングラも聴いてきたが、クラシックには聴かれない力強さやストレートな表現にはいつも驚かされる。
毎年、ほぼ同じ科目を担当しているので同じ曲や同じプレーヤーを周期的に聴くことも多いが、何回か聴いているうちに、あるとき、ふと新たな発見をすることもある。つい先日も、授業の準備でスコット・ ジョプリン、ジェリー・ロール・モートンからジャッキー・テラソン、ブラッド・ メルドーまでジャズピアニストを20人ほど聴き直してみたところ、バド・パウエルの鬼気迫る演奏に改めて衝撃を受けた。
聴いたのは《二人でお茶を Tea for two》(1950録音)*。この曲、ベニーグッドマンのクラとライオネル・ハンプトンのバイブではお気楽なスイング・ジャズで、以前にTVドラマのバックにも使われた。それはそれでいいのだが、バドの演奏はほとんど違う曲といってよいほどにデフォルメされ、すさまじいドライブ感で演奏されている。特に左手のバッキングと右手の急速なパッセージは完全に独立して聴こえ、とてもひとりで弾いているとは思えない。
筆者の持っているCDでは音質がよくないのが残念だが、バドの気迫は録音がどうのこうの、というレベルを超えて21世紀の現在でも強烈なインパクトを与える。この演奏、ジャズ評論家の岩浪洋三は「狂気と紙一重」、G. ギディンズは「悪魔にとりつかれたようなパウエルを示している」と評しているが、決して誇張ではない。
実際、彼は精神障害を病み、酒や麻薬に溺れた破滅型のアーティストだったというが、彼がピアノに注いだエネルギーは並大抵のものではなかったのだろう。師であるセロニアス・モンクとともに、「20世紀の偉大なピアニスト」のひとりに加えるべき、とバドの偉大さを痛感した。
しかし、今回のように、授業のために他のジャズピアニストと比較しながら聴き直すことがなかったなら、ここまで再認識することはなかっただろう。
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*The Genius of Bud Powell (Verve POCJ-2482)
ローマのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの彫刻、ピエタ。十字架から降ろされたイエスを抱く聖母マリア(以下マリア)の像だが、ちょっと不可解な点がある。
このマリア、イエスの母としてはあまりにも若いのだ。どう見ても30才より上には見えない。他方、イエスが十字架刑に処せられたのは推定30才。ピエタのイエスも成人男性でどう考えても20才以上。だからこのピエタのふたり、母親と息子には見えないのだ。
マリアが若い女性として描かれるのはこのピエタに限ったことではない。これまでヨーロッパのキリスト教文化圏で描かれたマリアのほとんどは若い女性であり、老いたマリアの絵画や彫刻はまず存在しないといってよい。これはカトリック教会におけるマリアの特別な位置づけによる。
まず、マリアは男性との交わりなしに神の子イエスを身ごもり(処女懐胎)、終生処女であったとされている。ルカ福音書第1章34節で、天使から懐妊を告げられたマリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」と答えており、これが処女懐胎説の大きな根拠となっている。
とはいえマルコ福音書では「イエスの母と兄弟たちがきて…」あるいはイエスを指して「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか」とある。イエスに兄弟姉妹がいたとなると、マリアが終生処女であったことと矛盾する。
そのため、あるカトリックの聖書注解では「兄弟姉妹」とはマリアの子ではなく、イエスのいとこたちのこと、としていたり、また『ヤコブ原福音書』(新約外典)では、この兄弟姉妹とはマリアの夫ヨセフの先妻の子であるとしている。
いずれにせよ、マリアは終生処女という意味で乙女だったのだ。しかしマリアが若く描かれる理由はこれだけではない。
カトリック教会には、マリアの母もまた、男性との交わりによらずにマリアを懐妊したという教義がある(無原罪のおん宿り)。この結果、マリアはアダムとイブの堕罪以来、人間に不可避となった死を免れることになった。そしてマリアは生涯の終わりに死ぬことはなく、そのまま天に上げられたとされる。
これを「聖母被昇天」という。「昇天」ではなく「被昇天」というのは、マリア自身の力で天に昇ったのではなく、あくまで神によって天に上げられた、ということを意味している。カトリックの教義では、聖母マリアはあくまで被造物、つまり神によって造られた存在で、神ではないから、自力で昇天することはできないのである。
ところで老いは死の前段階。老いの次にはやがて死がやってくる。だから古今東西、人々は若さを維持しようとし、また少しでも若くありたいと願ってきた。肌の衰えや体型を気にし、あるいは白髪を染めたりカツラを付けたりするのも、若さへのこだわり、といえるだろう。
ところがマリアは死を免れていたのだから、老いることもなかったはず、ということになった。だから聖母被昇天の図像に描かれるマリアもまた、若い女性となる。つまりマリアは終生老いることがなかった、という意味でも「乙女」だったのだ。
さらにこのような観念が推し進められると、マリアが死を免れていたのなら、今も身体とともに生き続けている、ということになり、そのために時としてマリアが「出現」することになる。
新しいところではフランスのルルド(1858)、ポンマン(1871)、ポルトガルのファティマ(1916)にマリアが現れ、少女や少年たちに語りかけるという出来事が報告されている。マリアは死んでいないのだから、目に見える身体とともに出現しても不思議はないのだ。
さてピエタにもどろう。その主題は十字架刑で苦しみを受けたイエスを抱くマリアだが、これに対応する聖歌が13世紀に成立した《スターバト・マーテル Stabat Mater 悲しみの聖母はたたずめり》。《アヴェ・マリア》と並んで古今の作曲家が作曲しているが、今回はその代表格というべきG. B. ペルゴレージ(1710-1736)の作品を聴いてみよう。
ソプラノとアルトの二重唱とアリア計12曲からなるが、今回は二重唱の曲を二部合唱で演奏している古楽系のディスクを紹介する*。テーマがテーマだけに短調の悲嘆の気分が強調された音楽。
マリアが終生処女だったとか死を免れたとかはさておき、この音楽、息子を失った母の悲しみ、子を失った親の悲しみとして聴けば、時代や民族、宗教を超えて普遍的に共感できるだろう。
ちなみにペルゴレージはわずか26才で没しているが、死因は結核だったらしい。現在はオペラ《奥様女中 La serva padrona》でも知られている。
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*スターバト・マーテル Stabat Mater
Alpha 009
輸入・販売元:(株)マーキュリー/MAレコーディングズ販売。www.mercury-coo.com
【関連記事】
『隠された信条:2つのマリア讃歌と《怒りの日》に見る非キリスト教的性格』2005 AMDI.pdf [861KB]
【参考図書】
関一敏 1993 『聖母の出現---近代フォーク・カトリシズム考』日本エディータースクール出版部
ピアノの詩人ショパン(1811-1849)。彼を抜きにしてピアノ音楽は語れない。しかし現在のピアノが完成するのは19世紀末。ショパンが弾いていたピアノは、厳密には現在のピアノ(以下モダンピアノ)と同じではなかった。
ショパンは主にフランスで演奏活動をしたため、ピアノもフランスで製作されたプレイエルやエラールを使っていた。これらの楽器はモーツァルト時代のフォルテピアノに比べればはるかにモダンピアノに近い。しかし構造、材質、アクション、弦の張力などが細部で異なり、その結果、タッチや表現力、音色、響き方は明らかにモダンピアノとは異なっていた。
そこで今回は1842年製のプレイエルのピアノによるショパンのポロネーズ 変イ長調 op.53、通称「英雄ポロネーズ」を聴いてみよう。演奏はフランスのピアニスト、パトリック・シェデール。2003年の録音だ。
まず音色。このプレイエルは倍音がそれほど強くなく、よくいえば柔らか、まろやかで、キンキンした感じはしないが、くすんだ音、地味な音ともいえる。次にプレイエルは音の余韻が短い。モダンピアノの音が「ポ〜〜ン」だとすればプレイエルは「ポン」とか「ポコッ」いう感じ。極端にいえば鉄琴と木琴の違いだ。また強弱の幅(ダイナミック・レンジ)も違う。モダンピアノがppp~ffffまでとすれば、プレイエルはpp〜fffぐらいの感じだ。特にこの曲は力強さが前面に出るので、プレイエルのフォルテ側の表現力がよくわかる。
ところでモダンピアノはダブルエスケープメントという複雑な機構を備えていて、高速連打性能が高いが、このプレイエルは備えていない。そのためにこの録音では一部の装飾音がやや弾きにくいように感じられる。しかしそのぶんアクションはシンプルなので、演奏者の指のコントロールがより直接的に音に反映する。何ごとも、得るものがあれば失うものがあり、特に楽器の場合は単純なものが複雑なものに勝ることもあるのだ。
シェデールのピアニストとしてのアプローチも、現代のピアニストとは異なる。彼はこのCDの解説の中で「ペダルを本来のレガート奏法の代用として使ってはならない」と述べており、ペダルは控えめだ。これは決して彼の独断ではなく、ショパンの弟子やショパンの演奏を聴いた当時の人たちが残した記述から、ある程度裏付けられる。
さてこのプレイエルによる英雄ポロネーズ、最初に聴いたときは、これまで聴き慣れてきたモダンピアノによる演奏とあまりにも違うので、かなり違和感があった。モダンピアノの洗練された響きに比べると荒削りで、ある意味では野暮ったいといえる。特に音の余韻が短い点は滑稽な感じさえしてしまった。いわゆるショパンのイメージにはそぐわない感じもしたのだが、何回か聴いていくうちにこの印象は微妙に変化した。
余韻の短い響きは音が混濁せずに和音がストレートに聴こえるから、作品の細部はより明確になる。そして野暮ったさや荒削りなところは、ある意味で人間らしさともいえそうだ。そんなこと考えていたら、ふと、ショパンがこの曲でわざと大げさな表現をしておどけたのではないか、と思えてきた。
たとえばパーティーでリストのマネをしたとか。「リストがね、ポロネーズを弾くとこうなるよ〜〜」といってこの曲を大げさに弾いてみせ、一同爆笑…などと想像してしまったのだ。なぜそう感じるのか。この曲のダイナミックな表現がモダンピアノではストレートに端正で豊かな響きになるが、プレイエルでは楽器の限界を超えて部分的に破綻してしまい、どこか誇張されたカリカチュアのように感じられるからかもしれない。
このプレイエルを聴いた後で、モダンピアノによる英雄ポロネーズ、たとえばポリーニやレオンスカヤを聴くと、あら不思議、モダンピアノの印象がこれまでとはだいぶ変わってしまう。上品だが、ちょっと取り澄ましたような感じ。また高音は華やかさを通り越してキンキン鋭く、ヒステリックな感じがしてくる。そんな感じ方をする自分にちょっと驚いてしまった。
人間の感覚は決して一定ではなく、刺激に応じて柔軟に変化する。同じ刺激が続けば順応して鈍感になってしまうが、そんなとき、これまでとは違った刺激に出会えば、新鮮に感じたりすることもある。しかし、それに慣れたらまた同じこと。だから「自分はこう感じるんだ!」と、自分の感覚を過剰に信じると、思わぬ落とし穴にはまる。音楽のように感覚的でつかみどころのないものの場合は特に、なぜそう感じるのか、自分自身の感覚を疑うことも必要なのだ。
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Frederic Chopin - 7 Polonaises
Patrick Scheyder
(Ligia Digital Lidi 0103124-03)
last modified: 2016.10.08
ハリケーン「カトリーナ」によって大被害を被ったアメリカのニューオリンズ。被災者の多くはアフリカ系(黒人)だった。アメリカ南部にはアフリカ系の人たちが多く、しかも大半は貧困層だ。これには長い歴史がある。ここでちょっと世界史を復習してみよう。
もともと北アメリカ大陸にはアジアから渡ったネイティブ・アメリカン(インディアン)が細々と暮らしていた。そこへ1492年にコロンブスが到達してから、ヨーロッパからの移住が始まる。
南部の現ニューオリンズ周辺は最初スペイン人が占拠したが、17世紀後半にはフランス領となり、本格的な開拓と植民地化が始まった。そしてこの一帯はフランス王ルイ14世にちなんでルイジアナと名付けられ、ミシシッピー河の河口の町はジャンヌ・ダルクで知られるフランスのオルレアンにちなんで「新オルレアン La Nouvelle Orleans」と名付けられた。
その後、この地域は一部イギリス領になり、最終的には1803年にアメリカ合衆国に組み入れられ、町も英語式にニューオリンズ New Orleansと呼ばれるようになった。
このような歴史があるため、ニューオリンズにはスペイン系、フランス系、イギリス系の移民が混在していたが、特にフランス文化の影響が強い。そして彼らヨーロッパ系移民は18世紀初めから、農業に従事させるために大量のアフリカ人を奴隷としてこの地域に輸入した。なんとも非人道的な話だが、現在この地域に住むアフリカ系アメリカ人の大部分は、この奴隷の子孫なのだ。
さらに南部ではクリオールという人たちが登場する。当時のルイジアナの法律では、主人(白人)が死ぬと、その愛人だった奴隷の女性(黒人)は解放され、同時にその子供(混血)も解放されて自由となった。これがクリオールの起源で、社会階層的にはヨーロッパ系の支配階層と、アフリカ系の奴隷との中間に位置することになった。やがて彼らの中には商売をして裕福になる者も現れる。1850年頃がクリオールの絶頂期で、成功したクリオールはクラシック音楽を楽しみ、子供達をフランスに留学させることもあった。
そんな時代のニューオリンズで、ロンドンからやってきたユダヤ系の裕福な株仲買人を父に、18才のクリオールの女性を母に生まれたのがルイ・モロー・ゴッチョーク(1829-1869、ゴットシャルク、ゴットショークとも表記される)。
彼は1842年にパリに渡り、1844年4月2日には16才にして自作品やショパンをサル・プレイエルで演奏してピアニストとしてデビューし、大成功を収めた。このとき彼のピアノを聴いたショパンは「彼はピアノ界の王になるだろう」と賞賛したと伝えられる。ゴッチョークはその後、ヨーロッパ各地を演奏旅行した後アメリカにもどり、北米や中南米各地で演奏し、最後はブラジルで死去した。
彼の音楽は基本的には19世紀フランスのスタイルで、ピアノ曲はサロン風でショパンやリストに似ている。しかし一部にはクリオール的な、つまりアフリカとヨーロッパの混血的な要素もある。
デビュー当時、パリで大ヒットした《バンブーラ》(黒人のダンス)を聴いてみよう*。明らかにアフリカ系のシンコペーション・リズムが聴かれる。楽天的で軽く、あまり深刻ではないのもアフリカ的要素かも知れない。この意味では彼はジャズピアニストの先駆者といってもよいだろう。
ところで彼は、南北戦争(1861-65)では北部の連邦主義者(ユニオニスト)を支持したという。北部側の大統領リンカーンが奴隷解放を宣言し1862年に、ゴッチョークはアメリカ国歌をパラフレーズしたピアノ曲《ユニオン》を書いている。明らかに彼は奴隷解放を望んでいたのだ。
ところがなんとも皮肉な話だが、奴隷解放がクリオールを没落させることになる。1863年に正式に奴隷解放令が出されると、南部ではクリオールもアフリカ系奴隷と同じ「黒人」とみなされるようになり、それまでの中間的な位置を失う。この時、奴隷だったアフリカ系の人たちの側に追いやられたクリオールが、ヨーロッパ音楽をアフリカ系の人たちに橋渡しすることになり、20世紀初頭のニューオリンズでジャズが誕生した、とする説もある。
そしてアングロサクソン系白人優位のアメリカのクラシック音楽界では、ゴッチョークは差別され正当には評価されてこなかったように思える。ちなみにアメリカでは「一滴でも白人以外の血が混ざっていれば有色人種」とみなすワンドロップ・セオリーが根強く、人種差別は現在にいたるまで続いている。
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Gottchalk: Piano Music (NAXOS 8.559145)
last modified: 2007.12.27
bogomil's CD collection 2005
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