※このページは以下の12編のエッセイを収録しています。
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2003年1月、興味深い書籍が刊行された。草野厚『癒しの楽器 パイプオルガンと政治』(文春新書298)。カバー 裏面にはこうある。
「バブル期、多くの地方自治体がパイプオルガンを導入した。いま、その多くは『宝の持ち腐れ』である。特権的な一部の演奏家しか利用できなかったり、故障だらけで法外なメンテナンス費用が毎年かかったり、税金で買ったことを十分に認識していないとしか思えないケースがたくさんある。(以下略)」
確かに日本の音楽ホールのオルガン、特に大型オルガンの演奏会はどれくらい開催されているのだろう。ホールのオルガンが演奏会で活用されるかどうかは、オルガンを聴きたいという音楽ファンがどれくらい存在するかにかかっている。
公共ホールを建設したりオルガンを設置する場合、本来は市民からの要望があって議会で審議され予算が付き、設置するというのがスジ。ところが本書の第4章でも指摘されているように、しばしば自治体首長の個人的趣味や隣接自治体への対抗意識から、いわゆる箱モノ行政的にホールが建設され「今どき、ホールにはオルガンがないと…」という程度の発想でオルガンが設置されてしまうケースも少なくない。
もちろん、いわゆる学識経験者からなる諮問委員会などが作られ、「地域の音楽文化の振興」などという理由付けはなされるし、税収や各種交付金などが潤沢な時期であれば、自治体からの持ち出しでオルガン演奏会や講習会などが開催されることもあった。
しかしクラシック音楽、とりわけオルガン音楽がそうそう簡単に日本に定着するわけがない。本書にもあるように、オルガンの披露演奏会にはそこそこ人が集まっても、以後は次第にオルガンの演奏会には人が集まらなくなる、ということになりがち。
「笛吹けど踊らず」で「おカミが下々にお与え下さる」ような文化はまず定着しないだろう。まして昨今の不況ではこの種の文化事業の経費がまず最初にカットされ「音楽文化の振興」も絵に描いた餅に終わってしまう恐れがある。
では市民・アマチュアの音楽活動にオルガンが活かされているかというと、そうでもないらしい。本書によると多くのホールではオルガンを演奏するための資格を厳しく制限しており、一部のプロのオルガニストしか演奏できないのが実状だそうだ。確かに一部にはオルガンを弾かせると壊れる、摩耗する、という発想があって後生大事にできるだけ触らせないところがある。
しかしこれは逆効果。よろず機械類は動かしていないとまともに機能しなくなる。オルガンも弾かずに放置しておいたら鍵盤メカニズムが硬くなったりバラつきが出たりして状態が悪くなる。パイプも鳴らしていくうちに音がこなれて響きがよくなるといわれる。
だから公共ホールのオルガン、演奏会ができないのなら、せめてアマチュアに開放して音を出すようにするべきだ。それが楽器を活かし、長持ちさせることにつながる。そして受益者負担の原則で妥当な額の使用料を徴収し、維持費に充てればよい。
ホールの維持には照明や空調、清掃など、年間1席あたりおよそ1万円、1500席のホールなら年間1500万円かかるといわれる。たとえ一切ホールを使用しなくてもオルガンを含めて施設・設備の維持費は発生するが、もしホールに収益がなければそれは自治体の予算から支出され、赤字となるのだ。
今後オルガンは日本の音楽文化にどのように定着していくのか…ホールの(音の出ない)飾りや商業主義的なチャペル・ウェディングの楽器という地位に甘んじることになるとすればちょっとさびしい。
ということで今回は日本ではまだまだなじみのないオルガンの理解を深めるために、聴き慣れた楽器とのアンサンブルの作品、それも編曲モノではなくオリジナル作品を紹介しよう。フランスのマルセル・デュプレ(1886-1971)は卓越したオルガニストで即興演奏の名手でもあり、多くのオルガン作品を残した。中でもオルガンを熟知した彼が他の楽器とオルガンを組み合わせた作品では、オルガンの特質(弱点も含めて)が見事に浮き彫りになる。
まずピアノとオルガンのための《バラード》op.30、《2つの主題による変奏曲》op.35、《シンフォニア》op.42 *1。同じ鍵盤楽器でも、基本的にピアノは打楽器、オルガンは管楽器、ということを改めて認識させられる。
また《ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとオルガンのための四重奏》op.52、《ヴァイオリン、チェロとオルガンのためのトリオ》op.55、《チェロとオルガンのためのソナタ イ短調》op.60 *2ではオルガンのメカニカルな性格がよくわかる。
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*1:Dupre: Works for Organ Vol. 6(NAXOS 8.554210)
*2:Dupre: Works for Organ Vol. 9(NAXOS 8.554378)
【追記】
2009年2月4日の朝日新聞朝刊30面によると、現在日本大学が所有している東京お茶の水のカザルスホールが来年3月で閉鎖されることになったという。
このホールには、ユルゲン・アーレントが建造したパイプオルガンがある。このオルガンは北ドイツ様式に忠実な歴史的様式の楽器で、ドイツ・バロックのオルガン作品に最適化された楽器だ。3段手鍵盤にペダル鍵盤を備え、41のレジスターを備える。端的にいえば、J.S.バッハのオルガン作品を演奏するための楽器。
ただ、このオルガンそのものはすぐれたものだが、批判もあった。そもそもカザルスホールは1987年に室内楽専用ホールとして建設されたもので、当初はオルガンはなく、その状態で音響的に最適になるように設計された。ここにオルガンが入ったのは10周年の1997年。511席という小規模なホールだから、オルガンがかなりの空間容積を占めることになる。当然、音の反射が変化し、ホールの響きが微妙に変わってしまう。その結果、オルガンファンからは歓迎されたものの、一部の室内楽ファンからは「ホールの響きが悪くなった」という声も聴かれた。そしてさらに12年経過した2009年にホール閉鎖のニュース。「不運なオルガン」の感もある。
オルガンは分解可能で移設可能だから、このアーレントオルガンも、日大芸術学部のホールあるいは内外の他のホールや教会に移設されると思われるが、場合によっては分解梱包されたまま、倉庫に保管されるという事態も想定される。
このカザルスホールのケースも、バブルの遺産の末路といえるだろう。
[追記の追記]
その後、このアーレント・オルガンは日大の校舎に移設されたが、現状、音を出すことはできないそうだ。なんとも残念な話だ。(2021.11.24現在)
上野学園が音楽学部を事実上廃止し、石橋メモリアルホールも売却された。ホール自体はリニューアルされて存続するようだが、オルガンは撤去されるらしく、行き先はまだ決まっていないらしい。カザルスホールのオルガンと同じ運命をたどることになるかもしれない。(2021.11.24現在)
2022年6月、以下の報道がなされた。
・7千万円のパイプオルガン、最後の音色 修繕費が高くてベトナムへ
兵庫県伊丹市が約30年前に7千万円をかけてホールに設置したパイプオルガンが、ベトナム・ハノイ市の教会に無償譲渡されることが決まり、撤去作業が始まった。オルガンをつくった職人らがベルギーから来日。25日に神戸港からハノイに送り出される予定だ。 パイプ1696本からなる高さ約7メートルのオルガンは高齢者福祉施設「市立サンシティホール」にある。ベルギー・ハッセルト市との姉妹都市提携をいかして、伊丹市が1993年、同国の製作者ギド・シューマッハさん(64)から購入した。
ニーズを無視してバブル期に設置されたオルガンの、当然予想された結末。
last modifiec: 2023.02.02
03年2月末、アメリカによるイラクへの軍事攻撃が始まりそうな状勢だ。このイラクという国、わが国ではあまりなじみがなく、現在は産油国として知られている程度。しかし考古学ファンならティグリス・ユーフラテス河の流域に繁栄した古代メソポタミア文明、アッシリア、バビロニアを思い起こすだろう。そう、このイラクを中心とする地域は5000年以上の歴史を持ち、かつては東西の文明に大きな影響を及ぼしたのだ。
音楽に関しては「楽器のふるさと」といっても過言ではない。たとえば今でもイラクで用いられているラバーブという弓奏弦楽器。これは中世ヨーロッパに伝わりレベックとなって広く用いられ、ヴァイオリンのルーツのひとつとなった。
さらに興味深いのがこれまた今でもイラクで伝統的な楽器として製作され演奏されているウード。これは7~8世紀にウマイア朝ペルシャの楽器がアラブの楽器と融合して出来上がったと考えられており、かたやシルクロード経由で東に伝播し、中国・日本に伝わって正倉院の御物で有名な琵琶となり、かたや西へ伝わってヨーロッパのリュートとなった。
さてこのリュート、現在は一部の古楽愛好家以外にはほとんど知られていないが、17世紀ごろまでは広く用いられていた。ギターと同じく旋律も和音も演奏できるため、独奏楽器として、また歌曲や舞踏の伴奏楽器として使われたのだ。
この「旋律も和音も演奏できる」という点では、リュートはピアノの先祖といってもよい。このことは歴史的にも確認できる。ピアノの直接の先祖は1700年ごろにイタリアのクリストフォリが製作した楽器で、その名称は「ピアノとフォルテの出せるチェンバロ」だった。つまりピアノはチェンバロから発達したと考えられる。
そのチェンバロは遅くとも15世紀には存在していた楽器で、構造面から見るとプサルテリウムなどツィター属の楽器(現在でもツィンバロムなどの名称で東ヨーロッパを中心に民族楽器として使われている)に鍵盤機構を付加することででき上がった。
しかし音楽面から見ると、チェンバロ音楽はリュート音楽の延長上に位置づけることができる。これは特に17世紀初頭のフランスのクラヴサン(フランスではチェンバロをこう呼ぶ)のための音楽に現われている。
それまでリュートで演奏されていた舞曲や前奏曲がクラヴサンで演奏されるようになり、そのときにアルペジョや装飾音などの奏法と音楽構造がリュートからクラヴサンへ移行したと考えられるのだ。「クラヴサンは機械化されたリュート」という当時の言葉がこのことを象徴している。
ということで今回はこのフランスの初期のクラヴサン音楽の大家、ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール(1601頃~1672)の組曲から《アルマンド・ラ・ラール》*を聴いてみよう。
ゆったりとした典雅な雰囲気の作品で、アルペジョや細かい装飾音、そして解決が先延ばしされていく和声進行は確かにリュートをイメージさせる。
ちょっと話があちこちになったので整理しよう。おそらく古くからイラク周辺の地域で用いられていた楽器がウードとなり、それが中世ヨーロッパにもたらされてリュートとなり、そのリュートの音楽語法がクラヴサン=チェンバロ音楽へ受け継がれ、そしてチェンバロ音楽からピアノ音楽が発達したのだ。
音楽はあるとき突然、天才的な作曲家が名曲を作るのではない。それまでの長い年月の積み重ねの上に初めて天才も花開くことができる。同様に楽器もある日突然発明されるのではない。長年の楽器製作家のたゆまぬ努力と蓄積、それを活かす演奏家と音楽作品の存在なしには楽器の発展もありえないのだ。
この意味において、ウードがなければピアノ音楽も発展しなかったといえる。そしてさらに空想をたくましくするなら、古代メソポタミア文明が存在しなければ、現代のピアノはなかった、といっても過言ではないだろう。
中世ヨーロッパはアラブ文化から多くを学んでいる。そもそもある時期まではヨーロッパ・キリスト教文化圏の方が遅れていて、アラブ文化圏が先進国だったのだ。
ところで現在のイラクの社会体制が専制的・抑圧的で危険であるならば、その体制は改められるべきだろう。しかしイラクに対する軍事攻撃は確実にイラク国民を傷つける。この地域では戦争による破壊や国家の興亡が5000年間のあいだ繰り返されてきた。それがこの21世紀にも起こるとすれば…人類は本質的にはまだまだ野蛮で成熟していないと考えざるをえない。
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*Chambonniéres - Pièces de Clavecin/ Skip Sempé(deutsche harumonia mundi 05472 77210-2)
W. アーペル『ピアノ音楽史』(音楽之友社)に楽譜が掲載されている。
ついにアメリカがイラクに武力行使を開始した。そのアメリカのブッシュ大統領の演説にはしばしばキリスト教的な観念が持ち込まれ、これがイスラム教との対立を際立たせる。ビン・ラディンもサダム・フセインも(少なくとも表向きは)イスラム教を信奉し、キリスト教西欧世界とアメリカを敵視するが、同様にブッシュもキリスト教徒の立場からイスラム教に対峙しているように見える。
もちろんアメリカ国内にもイスラム教徒は存在するし、友好関係にあるイスラム国家への配慮から、イスラム教そのものを否定するような発言は慎重に控えているものの、キリスト教を前面に押し出すことは間接的に反イスラムに通じるといえる。
ところでアメリカといえば航空機、自動車からコンピュータにいたるまで近代科学と先進技術が高度に発達した国だから、そこにキリスト教の保守的な信仰が根強いとはちょっとイメージしにくい。
しかしアメリカは非常に進んだ面と、旧弊、保守的な面とが並存する国家だ。自由平等で進歩的である反面、旧態依然とした保守的意識や人種差別意識もまだまだ広く存在するし、貧富の差による社会階層も存在する。聖書を字義通りに信じる宗派も根強く、猿から人間が進化したというダーウィンの進化論は、神が自分に似せて人間を創造したという聖書の教えに反するから公立学校で教えてはならない、という人々が存在するし、キリスト教の生命倫理観や道徳観から人工妊娠中絶を認めない人々もいる。
比較宗教学者のミルチャ・エリアーデは、アメリカという国の起源そのものにキリスト教を見出す。
たとえばそもそもコロンブスによる新大陸の発見は、ヨーロッパ人にとっては創世記に描かれた失われた楽園の発見だったという。そしてイギリスで迫害されていた清教徒(ピューリタン)たちは堕落したヨーロッパに見切りをつけ、新天地で宗教改革を完成させて「真のキリスト教国家」を建設すべくアメリカに渡ったのだ。
エリアーデはいう。
「…最初の植民者も後のヨーロッパの移民も、新しく生まれかわり、すなわち新生活をはじめる国としてアメリカへ渡っていったのであるから。今日でも依然としてアメリカ人を魅了している《新しさ》なるものは、宗教的な支柱をもった欲求である。《新しさ》のなかに彼らは『再=生』を願い、新生活を求めているのである。」*1
アメリカが一方では科学技術の無限の発展を基盤とする楽天的な未来主義を押し進め、また一方では自然保護や素朴な田園生活への回帰を好むのは、その根底にキリスト教原理主義とでも呼ぶべき思想が隠されているからかもしれない。
そこで今回はアメリカでももっとも歴史の古いニュー・イングランド地方で生まれ育った作曲家チャールズ・アイヴズ(1874-1954)の作品を紹介しよう。
彼はこの地域ゆかりの思想家、作家を表題とするピアノ・ソナタ第2番《コンコード、マサチューセッツ、1840-60》(通称コンコード・ソナタ)を書いた*2。
第1楽章の表題はエマーソン(1803~1882)。彼は超越主義で知られる思想家・詩人で『自然論』などの著作がある。
第2楽章は作家のホーソーン(1804~1864)。ニューイングランドの清教徒社会を舞台とした、いささか倫理的な作品を残した。
第3楽章はオルコット家。この一族では『若草物語』を書いたルイザ・メイ・オルコット(1832~1888)が有名。
第4楽章はソロー(1817~1862)。彼はエマーソンの感化をうけたエッセイストで、その哲学を実践するためにコンコードのウォルデン湖畔でひとり素朴な田園的生活を送り、『森の生活』を書いた。
エマーソンやソローの思想は単なる自然志向やシンプルライフの実践ではなく、エリアーデによればその根底にはアダム・ノスタルジア、つまり失われた楽園をアメリカの未開の自然に見出そうとするキリスト教的な基盤がある。
さてこのアイヴズのソナタは19世紀の様式ではなく、不協和な響きの前衛的作品で難解かつ長大だ。彼は「大衆が愛する『美しい曲』をことのほか軽蔑し、お行儀よく座って『美しい音』に浸る典型的な音楽ファン」*3を愚鈍だとみなしていたらしい。
この点では彼は複雑な政治的・民族的背景を単純化して善悪を決めつけ、国民の素朴な愛国心に訴えて支持を取り付けようとするブッシュ大統領よりは気骨があったといえる。
しかしこのふたりはいずれもアメリカ文化の排他的、独善的かつ不寛容な側面を示しているといえそうだ。
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*1:エリアーデ『宗教の歴史と意味』エリアーデ著作集8、せりか書房。p. 170
*2:Ives - Piano Works - Gottlieb(pianovox PIA 542-2)
*3:ショーンバーグ著・亀井・玉木訳『大作曲家の生涯』下。共同通信社。p. 283
イラク戦争の予想外の副作用として、民衆がバグダッドの博物館などから古代メソポタミアの文化遺産を略奪するという事態が生じた。今回はこの地の古代文明にまつわるエピソードと関連する音楽について考えてみよう。
かつてこの地に繁栄した新バビロニア王国は前625年、ナボポラッサルによって創始された。そしてメディアと連合して前609年には大国アッシリアを滅ぼし、前605年にはナボポラッサルの子ネブカドネザル2世がエジプト軍を破り、この地域での勢力を拡大した。
バグダッド南約90キロのバビロンの遺跡では、このネブカドネザル2世が造ったと伝えられる90メートル四方の巨大な神殿の遺構があり、旧約聖書『創世記』に出てくるバベルの塔のモデルではないか、と考えられている。
かつて人間はひとつの言葉を話していた。そして人々は天に達する塔を作り始めたのだが、それを見た神は人間の傲慢を戒めるために言葉が通じないようにしてしまった。そのために塔の建設はストップし、人々は世界各地に散ってそれぞれの言語を話すようになった…というのがバベルの塔の物語だ。
ネブカドネザル2世とバビロンといえば古代の七不思議のひとつ「架空庭園」もある。 伝承ではネブカドネザル2世は隣国のメディアから王妃アミティスを迎えた。メディアは山と緑の豊かな国だったがバビロンは雨が少ない平坦地で緑が少なかった。
そこでネブカドネザル2世は故郷を思う王妃のために、城の中に庭園を作り、緑を絶やさないようにして王妃を慰めた。これが遠くから見ると周囲の砂漠の中で、緑の庭園があたかも空中に浮いているように見えたために「架空庭園」と呼ばれるようになったという。ただ、「架空」といっても「実在しない」という意味ではないので「空中庭園」、「懸空庭園」と訳すこともある。
余談だが最近は都市部のビルの屋上に草木を植えることがある。これはさしずめ現代版「架空庭園」だろう。
フランスのオルガニスト、ジャン・アラン(1911-1940)の《架空庭園 Le jardin suspendu》はこの古代のイメージを彷彿とさせる幻想的で浮遊感を感じさせるオルガン小品だ。
さて前597年以後、ネブカドネザルはエルサレムを襲い、2回にわたってユダヤ王や住民をバビロンに連行した(バビロン捕囚)。このときバビロンに連行されたユダヤ人の嘆きの気持ちを託した詩が旧約聖書の『詩編』に収められている。
カトリックでは詩編第136番、プロテスタントでは詩編第137番で「バビロンの流れのほとりに私たちは座り、シオンを思い起こして涙する」というもの。
この詩編はヨーロッパのキリスト教会の典礼や礼拝でも広く用いられてきた。そのラテン語訳を用いた合唱曲としては16世紀イタリアのパレストリーナが書いた4声の《バビロンの流れのほとりにSuper flumina Babylonis》が有名*。嘆き悲しむ沈鬱な気分が巧みに表現された作品だ。比較的短いこともあって、わが国の合唱団でもよく取り上げられる。
後にバッハもこの詩編にもとづくオルガンためのコラール前奏曲《バビロンの流れのほとりに An Wasserflüssen Babylon》BWV 653を書いたが、こちらは長調でサラバンド風3拍子リズムなので「嘆きの歌」というよりは「あきらめの歌」という感じがする。
ちなみにバビロンを流れていたのはユーフラテス河。したがってこれらの曲の表題として「バビロン河のほとりで」とするのはちょっと誤解を招く。
ところでネブカドネザルはどのような王だったのか。架空庭園のエピソードからは妻を思う優しい夫をイメージしてしまうが、優しい、ということは裏を返せば気の小さい臆病な人物だったのかもしれない。また王妃のため、というごくごく私的な庭園の造営に国民や被征服民を酷使したとすれば、民衆には公私混同と憎まれたかもしれない。
その彼も前562年に没する。そして前539年、新バビロニアはキュロス2世率いるペルシャ軍によって滅ぼされる。そのキュロス2世は征服地域の民族に寛容でバビロンに捕われていたユダヤ人を解放したので、後世の歴史家によってしばしば名君とされている。
臆病で気の弱い人物はしばしばそれを覆い隠そうとして威張ったり大胆に振る舞う。だから軍事力を誇示し侵略戦争を起こすような王や政治家も、一個人としては案外、小心者だったりする。こう考えると、ネブカドネザルをはじめとする歴史上の、あるいは現代の権力者が、家庭ではやさしい(気の弱い)夫だが対外的には攻撃的な侵略者、というのは決して矛盾する話ではないのである。
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*『バビロンの川のほとりに/パレストリーナ:ミサとモテトゥス』プロ・カンティオーネ・アンティクヮ(アルヒーフ POCA-2097)
最近、日本では刑務所が不足しているという。これは受刑者が増加しているということで、つまりは犯罪が増加しているのだ。おそらくこの背景には長引く不況がある。倒産、リストラ、失業などなどが人々の生活を圧迫する。多くの国民は健気に耐えているが、しかし短絡的に犯罪へ走るケースが増加しても不思議はない。
ところで刑務所といえば、以前テレビで尾道刑務支所のドキュメンタリー番組を見たことがある。テーマは受刑者の高齢化。この刑務所は全国で唯一、身体の弱った高齢の受刑者を収容する施設でバリアフリー、病気になれば医師が診察し、投薬や介護をしてくれる。
しかも夜間には刑務官の巡回があるから、体調が急変してもすぐに発見してもらえる。食事は当然、贅沢なものではないが栄養学的にはバランスが取れているので肥満になることはなく、成人病予防につながる。
刑務所だから作業労働を含む規則正しい生活をしなければならないが、これも考えようによっては適度な運動となるから健康的といえる。
自由時間もあり、読書をしたりテレビを見ることができる。カラオケの設備もあり、受刑者が楽しそうにカラオケを歌っていた。そしてその横には温厚そうな刑務官がいて、なんとカラオケの操作をしているのだ。
つまり高齢の受刑者にとって、この刑務所は健康的な生活ができる場。刑務所というより至れり尽くせりの老人ホームのように見えてくる。 だから出所の日が近づくにつれて受刑者は次第に不安になるという。出所したくないのだ。実際、出所直後に無銭飲食などの微罪を犯して再びこの刑務所に戻ってくるケースもあるとか。
なんともいいようのない話で筆者はパロディ映画を見ているような感覚にとらわれてしまった。しかしよく考えてみれば、これは一般社会(シャバ)が住みにくくなった結果の逆転現象。特に高齢者にとって現在の日本は暮らしにくい。不況や福祉予算の削減で最低限の生活もままならない。それが刑務所に入れば衣食住は保証されるのだ。
ところで刑務所といえば、17世紀初頭イギリスの監獄=刑務所で10年間、鍵盤曲の楽譜を写した人物がいる。彼の名はフランシス・トレギアン Francis Tregian(1572-1619)*1。もっともトレギアンは一般的な意味での犯罪者だったわけではない。
当時イギリスでは国王を最高指導者とする英国国教会を設立して、宗教に関してはローマカトリックから独立してしまった。しかし国民の中にはカトリック信仰を固持し、国教会への改宗を拒む者もいた。彼らは国家に対する反逆者とみなされて弾圧され、投獄されたり処刑されたりした。トレギアンもそのひとりで、今でいえば政治犯あるいは思想犯ということになる。
彼は1609年にロンドンのフリート監獄に投獄され、1619年に獄死するのだが、この10年間になんと297曲を筆写した。友人が面会にきてそのときどきの人気のある曲の楽譜をトレギアンに渡し、それを筆写したといわれているから、面会は認められ、時間的な余裕もあったのだろう。
それでも10年間、獄中で楽譜を写す…トレギアンがどんな気持ちで写譜したのかはわからないが、結果的にこの曲集のおかげで当時の鍵盤作品が後世に伝えられた功績は大きい。ウィリアム・バードをはじめ、G.ファーナビー、J. ブルなど、当時イギリスで人気を博していた作曲家の作品が数多く含まれているし、中にはこの曲集にしか作品が残っていない作曲家もいる(ただ一個人が筆写したために書き間違いはけっこうある)。
この曲集、トレギアンの死後J.C.ペープッシュの手に渡り、さらにコレクターのR.フィッツウィリアム子爵(1745-1816)の蔵書となった。このため現在では《フィッツウィリアム・ヴァージナルブック》The Fitzwilliam Virginal Book*2と呼ばれているが、本来なら写譜した本人に敬意を表して「トレギアン・ヴァージナルブック」と呼ぶべきだろう。
なおヴァージナルとは小型の鍵盤楽器で、発音原理はチェンバロと同じ。ただし弦が鍵盤に対して横または斜めに張られていて、ケースが長方形あるいは多角形をしている点が異なる。当時ヨーロッパでは家庭用の楽器として貴族や裕福な市民が楽しんだ。フェルメールなどの絵画にもしばしば描かれている(美術書では「エピネット」などと表記されることもある)。
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*1:「トリージャン」、「トリージアン」と表記されることもある。
*2:録音としては『フィッツウィリアム・ヴァージナルブック(選集)/クリストファー・ホグウッド』ポリドール POCL-3345/6 (L'OISEAU LYRE 443 076-2)がお薦めだが現在は入手困難。再発に期待しよう。楽譜は全曲がDover社から2巻で出ている。
果たしてイラクは大量破壊兵器を保有していたのか。今回の米英軍によるイラク攻撃は、イラクが大量破壊兵器を持ちテロリストを支援している危険な国、ということが大義名分だった。だから、これでもしイラクから大量破壊兵器が発見されなければあの戦争の正統性は大きく揺らぐ。
敵が強力な兵器を持って攻撃してくる、という危惧。それならこちらが先手を打つべきだ、という先制攻撃の発想。かつてこれと似た状況が日本の運命を大きく変えたことがあった。それは1945年8月に広島・長崎に原爆が投下されるまでの経緯だ。
アメリカはなぜ原爆を開発したのか。1930年代のドイツでは核物理学が進んでおり、原爆を作るための基礎的研究を進めていた。そこでもしヒトラー/ナチス・ドイツが原爆を持ったらどうなるか、アメリカはそれを恐れた。そのためにアメリカは巨費を投じて核物質精製の施設を建設し、科学者、技術者を大規模に組織して原爆開発に着手した(マンハッタン計画)。
しかし実際にはドイツは原爆開発を断念してしまった。つまりアメリカはありもしないヒトラーの原爆を恐れるあまり、世界で初めて原爆を完成させた、ということ。しかも当のドイツはその原爆が完成する直前、1945年5月に降伏している。
一方1945年春の時点で日本の敗北は時間の問題だったが、米軍が日本本土に上陸し地上戦が行われれば、最終的には米軍が勝つとはいえ、米軍側に多くの死傷者が出ることは明らかだった。この犠牲を避けるためにアメリカは原爆の投下を決断したのだ。
また東京を始めとする諸都市に焼夷弾を投下して灰燼に帰し、さらに広島と長崎に原爆を投下したB-29爆撃機も、もともとはヨーロッパがヒトラーに征服された場合に、アメリカから大西洋を越えてドイツ本土を爆撃するために開発されたもの。つまり原爆もB-29も、当初の目的である対独戦には用いられず、対日戦に転用されたのだ。
日本ではヒトラーといえばユダヤ人虐殺のことは知られているが、当時はドイツと同盟国だったこともあり「敵」という認識はない。しかし敢えて極論するなら第2次大戦末期の日本本土空襲や原爆投下の遠因はヒトラーにあったともいえるのである。
フランツ・レハール(1870-1948)の代表作《メリー・ウィドウ》*。20世紀初めにウィーンで大ヒットした軽妙な恋愛喜劇で、現在のミュージカルにつながるオペレッタだ(1905初演)。中でもワルツ《言葉にしなくても愛する心は伝わる》は有名だが、実はこのオペレッタはヒトラーの大のお気に入りだった。
彼はまだ貧しい画学生だったころウィーンでこれらのオペレッタに親しんでおり、後にドイツの最高権力者=総統になった後もこの作品を愛好した。そのために1938年にヒトラーがオーストリアを併合したときには、レハールはこのオペレッタに新たな序曲を書き、ヒトラーへの献呈の辞を書いているし、またヒトラーやナチの有力者の誕生日には必ずカードを送った。
このような行為はレハールがヒトラー信奉者だったからではなく、おそらく妻がユダヤ系だったからと考えられる。夫の尽力で彼女はかろうじて収容所送りを免れることができた。それでもやがて一緒に仕事をしていたユダヤ系の台本作家や役者が強制収容所に送られ死んでいくようになると、レハール夫妻はウィーンを離れ、終戦まで地方の町でひっそり暮らしたという。
ところでこのオペレッタの中で伯爵ダニロが歌う《マキシムへ行こう》に似た主題がショスタコーヴィッチの交響曲第7番《レニングラード》(1941)第1楽章に聴かれる(当時ドイツ軍はレニングラードを激しく攻撃していた)。
これを《メリー・ウィドウ》を好んだヒトラーへのパロディ(引用)とする説がある。しかしこの主題はありがちな音階進行で《マキシムへ行こう》とはちょっと違う。ショスタコーヴィッチがこの主題でヒトラーを暗示したというのはあくまで推測の域を出ないし、そもそも《マキシムへ行こう》をどこまで意識したのか、筆者としては疑問だ。
さらにバルトークの《管弦楽のための協奏曲》(1943)第4楽章にもこのショスタコーヴィチの主題が聴かれるが、これに関しても諸説あり、バルトークが、当時反ファシズムの作品として連合国側で絶大な人気のあったショスタコーヴィッチの第7交響曲を揶揄したという説もある。
いずれにせよ《メリー・ウィドウ》そのものは、音楽も物語も甘ったるく通俗的で、今となっては女性蔑視とみなされかねない卑猥なセリフも多いが、まあ他愛ない娯楽作品。しかしたとえば映画《戦場のピアニスト》を観た後には、このオペレッタはあまりにもバカバカしくて最後まで観る気にはなれないだろう。
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*レハール:喜歌劇歌劇「メリー・ウィドウ」(ニホンモニターDLVC-1056)[DVD]
【参考文献】
ルメイ/イェーン『超・空の要塞:B-29』新戦史シリーズ37 朝日ソノラマ 1991
シャレといっても某クラシック番組の某作曲家のダジャレとは次元が違う。音楽クイズといっても曲名を当てるクイズではない。なにしろ、あのバッハが考えたシャレとクイズだけに手が込んでいる。
バッハは晩年の1747年5月7~8日、ベルリン郊外ポツダムにあるプロイセン国王フリードリッヒ2世(大王、1712~1786)の宮廷に招かれた。自らフルートを演奏する王は、ゴルトベルク変奏曲で知られるカイザーリンク伯爵からバッハの話を聞き、関心を持ったらしい。
また王の宮廷には1740年以来、バッハの息子のカール・フィリップ・エマヌエルが仕えていたから、もしかすると王に「父は畏れ多くも陛下の前で演奏できますことを切に願っております」などと言ったのかもしれない。
さてポツダムの宮廷で、バッハは王が提示した主題によって3声のフーガを即興したと伝えられている。そしてライプツィヒに戻ったバッハは、その王の主題にもとづくカノンやトリオ・ソナタ(フルートを含む)を作曲、《音楽の捧げ物 Musikalisches Opfer》*1と題して印刷し、同年7月7日に王へ献呈するためにベルリンに送った。
ポツダム訪問の際に即興演奏されたと推定されているフーガは、この曲集ではリチェルカーレ*2と題されている(当時ポツダムの宮廷にはジルバーマンが製作したフォルテピアノがあり、この3声のリチェルカーレはバッハが書いた唯一のピアノ曲だ、という説もある)。そして同じ主題による6声のリチェルカーレも新たに作曲された。
しかしなぜバッハは「フーガ」ではなく古めかしい「リチェルカーレ」という題を付けたのか。これが一種のシャレ。この曲集の冒頭にはラテン語で
Regis Iussu Cantio Et Relique Canonica Arte Resoluta
王の命による曲、およびカノンの技法で解決された他の曲*3
と書かれているのだが、この各語の最初の文字を取るとRICERCARe=リチェルカーレとなるのだ。
「音楽クイズ」というのは、この曲集の中の一連の「謎カノン」。なぜ謎かというと、これらのカノンは全声部が完全に書かれておらず、一部の声部と、そこからどのように残りの声部を導き出すか、というヒントを示す変則的な記号が付されているだけだからだ。
たとえばカノン第1番《2声の逆行カノン》。ソプラノ譜表の1声部の楽譜でハ短調。そして最終小節には逆向きのソプラノ記号と調号、そして拍子記号が記されている。これはどういうことかというと、上声は楽譜通りに1小節から始めて最終小節までを演奏し、下声は楽譜を終わりから逆向きに、つまり最終小節の最後の音から始めて1小節の最初の音までを演奏するのである。
しかもこのように2声部を演奏したとき、対位法的にも和声的にも矛盾しないでちゃんとした音楽になるのだから恐れ入ってしまう。
ちなみにこの曲はラテン語で「Cancrizans=カニのように」と名付けられている。この曲の構造をカニの横歩きにたとえたものだが、もしかすると大王はカニが好物だったのかも。
カノン第5番《諸調を経過する2声のカノン》も極めてユニーク。この曲は8小節が反復されるのだが、ただ反復するのではない。最初ハ短調で始まり、2回目にはさらりとニ短調に転調し、以後ホ、嬰ヘ、嬰ト、嬰イの各短調に転調していく。つまり全音ずつ上がっていき、7回目には最初よりも1オクターブ高いハ短調になる。演奏が可能ならばさらに際限なく上昇していくことも可能だ。このため、この曲は螺旋(らせん)カノンとも呼ばれる。
ところで筆者はこの曲を初めて(予備知識なく)聴いたとき、単に同じフレーズを反復していると思って聴き、最後にいつのまにか音域が高くなっていたので「あれ?」となにやらキツネにつままれたような気分になった。
これはフロアがなだらかな螺旋状のスロープで構成されていて、あれこれ見ていくうちにいつのまにか上に上がってしまう、というバクミンスター・フラー設計の巨大なショッピング・センターを思わせる(規模は小さいが東京銀座ソニービルもこのコンセプトを応用している)。
このトリッキーなカノンは純粋に音楽としても興味深いが、バッハが献呈楽譜の脇に付した言葉がまたおもしろい。
...転調が上昇するように、王の栄光も昇りゆかんことを
...Ascendentque Modulatione ascendat Gloria Regis
これは明らかにおべっか、へつらい。しかしこのような音楽に仕立て上げてしまうところは、さすが対位法の大家バッハだ。
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*1:NAXOS 8.553286
*2:フーガの先駆形態。「探索」という語に由来すると考えられ、ルネサンスの通模倣様式のモテトが器楽化されたもの。
*3:この訳および各カノンの訳は、角倉一朗(1997)『バッハ作品総目録』(白水社)による。
イスラエルではパレスチナ過激派による自爆テロが頻発している。そもそもの発端は長年イスラム教徒が住んでいたパレスチナ地方にユダヤ人が入植し、1948年にイスラエルを建国したこと。その結果、住み慣れた地を追われたイスラム教徒の中からパレスチナ過激派が出てきたのだ。一方ユダヤ人は2世紀以来国を失い、ヨーロッパで差別され迫害されてきた歴史がある。
ユダヤ人に帰せられた汚名は「キリスト殺し」だった。イエス・キリスト自身もユダヤ人でユダヤ教徒。そしてイエス自身は新しい宗教を創始しようとしたのではなく、ユダヤ教の改革をめざしていたと思われるフシがある。
しかし彼は教条主義に陥った当時のユダヤ教や、権威をふりかざす祭司階級を痛烈に批判した。つまり彼は原理主義的なユダヤ教徒であり、当時のユダヤ教多数派から見れば過激派的な存在だった。そのために彼はユダヤ教祭司階級からはうとまれた。彼の十字架での処刑をローマ総督に要請したのもユダヤ教の祭司たちだったということになっている。
そしてイエスの死後、ローマ帝国に広まっていく過程で初期のキリスト教は次第にユダヤ教とは一線を画すようになり、やがてユダヤ人をイエスの神性を理解できずに殺してしまった罪ある民族、とみなすようになる。この思想が中世ヨーロッパに受け継がれ、ユダヤ人は迫害されたのだ。
ユダヤ人が迫害された理由はもうひとつある。それは彼らが高利貸し、つまり借金に利子を要求することだった。中世ではキリスト教もユダヤ教も高利貸しを禁止していた。しかし差別されて不安定な地位にあったユダヤ人の一部は、12世紀になると自分たちの生きる道として高利貸しを始めた。
しかしこれもまた迫害のもととなった。借金を返せなくなったキリスト教徒はしばしばユダヤ人を敵視し、襲ったりしたからだ。このことを端的に示しているのがシェイクスピアの『ベニスの商人』。ユダヤ人のシャイロックという金貸しが狡猾非情な悪人として描かれている。
さてクラシックの作曲家にもユダヤ人はいる。たとえばメンデルスゾーン(ただし一族はキリスト教に改宗)、マーラー、シェーンベルク。その一方でユダヤ人に対する差別意識を持つ作曲家も存在した。
その典型がリヒャルト・ワーグナー。彼はドイツ民族=アーリア民族至上主義を信奉する民族主義者であると同時に、ユダヤ人が商業によって社会を堕落させたと考える反ユダヤ主義者だった。
もちろんワーグナーの音楽は純粋に音楽として評価されるべきだし、ワーグナーには明らかに音楽的才能があった。それに作曲家の人間性や思想と彼の音楽は基本的に無関係。たとえワーグナーが今となっては偏狭で不寛容な思想の持ち主だったとしても、そのことをもって彼の音楽を否定するべきではない。
ところで2003年8月末にヨーロッパを歴訪した某国の首相がワーグナー教の聖地ともいうべきバイロイトで《タンホイザー》を鑑賞した。このときドイツのシュレーダー首相が同席したが、第2次大戦後のドイツ首相がバイロイトでワーグナーを聴くことはこれまでなかったといわれる。それはワーグナーの音楽を政治的に利用したヒトラーの記憶に配慮したためだ。
しかし、前々回に書いたように通俗的な《メリー・ウィドウ》を好むようなヒトラーがどこまでワーグナーの音楽を理解していたかは大いに疑問。彼は単にワーグナーがアーリア民族至上主義者で反ユダヤ主義者だったという理由からその音楽を自分の演説やイベントに利用したに過ぎなかったのではないか。
画家になりそこなったヒトラーが、抽象画など新しい傾向の絵画を嫌ったことは有名で、このことからすれば、ヒトラーがワーグナーの音楽の革新的な側面を理解できなかった可能性は高い。
あるいはヒトラーはワーグナーが題材とした神話世界や中世といった空想的な過去に時代錯誤の民族の理想を求めたのかも知れない。そしてそれはまた極端な反ユダヤ主義につながった。
自分の民族、宗教、国に誇りを持つことは悪いことではない。しかしそれは一歩間違えると他民族、他宗教、他国への差別意識や対立意識を生み出す。あるいはまた集団を一致団結させるためには共通の敵を作るのが効果的なことがあるのだ。
もっともワーグナーの音楽を利用するアイディアは、ナチスの宣伝相ゲッベルスあたりが思いついたのかもしれない。彼は今でいえば天才的広報宣伝マンだが、それだけに国民を誤った方向に導いた責任は重いといえる。
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*Wagner: Tannhäuser/ Solti(Decca 470 810-2)
参考文献:
アンドルー・マッコール『中世の裏社会』人文書院
ショーンバーグ『大作曲家の生涯・中』共同通信社。
フランスのルイ14世(1638-1715)。父ルイ13世がパリ郊外のヴェルサイユに建てた「狩りの館」を拡張し、広大な庭園と豪奢な館からなるヴェルサイユ宮殿を造営した。ニックネームは「太陽王」だ。
この王のいるところ、常に音楽があったといわれる。朝は礼拝堂で合唱やオルガンなどの宗教音楽が流れ、午後、庭園を散策するときや狩りの際には野外専門の楽隊がお供をし、夕べには宮殿でオペラ、バレエ、演劇が王と貴族のために上演された。また室内楽やクラヴサン(チェンバロ)が演奏されることもあった。
広大な庭園での狩猟、船遊び、バレエ、オペラ、演劇から、贅を尽くした料理が供される晩餐会、ギャンブルその他の娯楽、さまざまな快楽の追求。そんなヴェルサイユでの華麗な宮廷生活の頂点に立つルイ14世は何の苦労もないお気楽な王様、道楽者、趣味人、遊び人だったのだろうか。いや、どうもそうではなかったらしい。
王は幼い頃、貴族の反乱のために命からがら逃亡するという経験をしている。そのため長じて王となってからも、フランス各地の有力な貴族に対して警戒心を抱いていたといわれる。そんな王がヴェルサイユで各種イベントを催したのは貴族を懐柔するため。いわばレジャーランドで遊ばせて貴族たちを骨抜きにし、自分の地位を安泰にしたのだ。
王は他にも宮廷に集う貴族たちを巧みに操る方法を知っていた。王といえどもすべての貴族に充分な経済的恩典を与えることはできなかった。そこで王はしばしばちょっとした恩典を特定の貴族に与えた。つまりエコひいきするのである。そしてこの恩典を巧みに使いわけて貴族たちの競争心、嫉妬心をあおり、仲違いさせ、彼らが一致団結して自分に反抗するのをくい止めたのである。
このようなテクニックは支配力を維持するための古典的手法で、現代社会でも企業をはじめワンマン的なリーダーが支配する組織・集団にしばしば見られる。
いずれにせよ、ルイ14世のホンネは「王はつらいよ」だったかもしれない。そして晩年はしばしば憂鬱になることがあったと伝えられている。そんな晩年の王に仕えたのがフランソワ・クープラン(1668-1733)。
彼はまず1693年に王に認められて4名の王室礼拝堂オルガニストのひとりとなる。そして翌年には王室のクラヴサン教師となり、王の子供たちやブルゴーニュ公にクラヴサンを教えるようになる。その後は声楽曲にも力を注ぎ、カンタータ《テネブレ》は晩年の王を大いに慰めたと伝えられている。
また彼は自作の室内楽やクラヴサン作品も王の前で演奏しているが、これらのいくつかは王の憂鬱を慰めるものだった可能性がある。
そこで今回紹介するのは1722年に出版されたクープランの《クラヴサン曲集》第3巻*。ここには第13組曲から第20組曲が収録されている(組曲といっても原題はオルドルOrdreで、宮廷生活を彷彿とさせる標題を持つ小品からなり、バッハなどの舞踏組曲とはちょっと性格が異なる)。
これらの中には「これはもしかしたらルイ14世の憂鬱を慰めたのではないか?」と感じさせる曲がいくつかある。まずは第13組曲(ロ短調)。
第1曲の《花開く百合》はブルボン家の象徴である百合の花をモルデント記号に見立てた小品だが、どこか切ない悲哀を感じさせる。
第2曲《葦》も16分音符の左手の伴奏の上に、なめらかな、しかし悲しげな旋律が歌われる。そして終曲は題名からして暗い《煉獄の魂》。煉獄とは地獄に堕ちるほどの大罪はおかしていないが、微罪を犯したために天国には行けない魂がとどまるところで、この世の人々が祈ることで魂が清められ、天国にいける、とされたところ。この曲は、そんな中途半端な状態に置かれた魂を思わせるような、やるせない沈鬱なサラバンドとなっている。
この第13組曲(数からして不吉?)に対して第15組曲は長調で明朗だ。特に第2曲《ねんね、またはゆりかごのキューピッド》は、中低音域を主体とする落ち着いた響きの中でオスティナート風の低音の上にゆったりとした旋律が歌われ、2段鍵盤で同じ音を右手と左手が同時に打鍵するとき、ユニゾンの2本の弦がわずかにうなりを生じて独特の味わいとなる。今ならさしずめリラクゼーション、ヒーリングミュージックといってよい曲だ。
そう、クープランはルイ14世専属の音楽療法士だったのだ。
余談だが当時はまだトイレットペーパーがなく、王は絹のハンカチを使ったという。当然使い捨て。そして王はよほど気に入らなければ同じ曲を2度と演奏させなかったといわれる。だから王に仕える作曲家は常に新しい曲を書き続けなければならなかった。こちらはいわば音楽の使い捨て。いずれも今では考えられない贅沢だ。
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*François Couperin: Troisième livre de Pièces de clavecin. Christophe Rousset (harmonia mundi france 901442 44)
現在、一般にピアノの原型とされるのは1700年ごろにイタリアのクリストフォリが製作した楽器。これは外見的には小型の1段鍵盤チェンバロで、そこにハンマーアクションが組み込まれている。現在のピアノと同じくハンマーが弦をたたくが、ハンマーはずっと細く、ハンマーヘッドは羊皮紙を丸めたものだ。
山本宣夫氏が復元したクリストフォリのフォルテピアノ(1726年)の録音を聴くと、その音色はピアノというよりチェンバロ。実際、クリストフォリ自身もこのタイプの楽器を「強弱の出せるチェンバロGravicembalo col piano e forte」と名付けていたから音色がチェンバロに似ていても不思議はない。それに強弱がつけられるとはいえ、その幅は現在のピアノよりもはるかに狭く、この点からもチェンバロと区別が付きにくい。
他方、ピアノ的な音のするチェンバロもあった。チェンバロは弦を弾くプレクトラム(ツメ)に、通常は鳥の羽根の根本の軸を薄く削ったものを使った。このプレクトラムが真鍮あるいは鉄の弦を弾いて、チェンバロ独特の鋭く輝かしい音が生み出される。
ところが18世紀のフランスでは、このプレクトラムに水牛の皮を使ったチェンバロがあった。イヴェット・ピヴトーが演奏するバルバトルの作品集*1でこの水牛のプレクトラム(jeu de buffle)の音を聴くことができる。
水牛の皮は鳥の羽根の軸よりも柔らかいので音色は倍音が弱くなってまろやかになり、フォルテピアノに近くなっている。そして遅くとも18世紀後半までに、フランスでもチェンバロのアクションをハンマーメカニズムに交換することでフォルテピアノへの改造が行われ、やがて初めからフォルテピアノとして製作されるようになっていく。
このようにピアノはチェンバロから派生したといえるのだが、もうひとつルーツがある。それはクラヴィコードだ。この楽器はチェンバロよりも古い歴史がある。
もともと中世に音階音を得るために用いられたモノコード(「1弦」の意)が出発点。モノコードではひとつの弦の中間にコマを立てて音高を変えたが、このコマをタンジェントという金属片に置き換え、鍵盤を取り付けて弦をたたくようにしたものが初期のクラヴィコードだったようだ。
弦は1本で、打弦点を変えて音高を変えるのである。これでは単旋律しか演奏できないので、やがて弦の数が増え、同時に複数の音が出せるようになる。しかし多くのクラヴィコードはひとつのキーに対して一組の弦を持つのではなく、2キーあるいは3キーで一組の弦を叩くようになっていた。
たとえばfとfisのキーが一組の弦を共有している(このためfとfisは同時に打鍵できない)。このような「弦を共有する」という発想はモノコードの名残りといえるだろう。
さてクラヴィコードは弦をたたいて音を出すという点ではピアノと同じ。そしてクラヴィコードもまた、わずかではあるが打鍵の強さに応じて音に強弱を付けることができる。メカニズムはピアノやチェンバロよりもはるかにシンプルで、サイズも小さいので家庭用の楽器として使われ、特にドイツ・オーストリアでは18世紀末にいたるまで広く使われていた。
バッハのインヴェンション、シンフォニアやフランス組曲あるいは平均律の一部は、微妙なニュアンスが表現できるという点でクラヴィコードを意図していた可能性があり、さらにハイドンやモーツァルトの鍵盤作品の一部も、クラヴィコードで演奏された可能性がある。
そこで今回紹介するのはハイドンのソナタをクラヴィコードで演奏したCD*2。ソナタ ニ長調、ハ短調、嬰ハ短調 、変ホ長調 (Hob. XVI:19, 20, 36, 38)が収録されている。
使用楽器は1785年に製作されたもの。クラヴィコードとしては大型で5オクターブ+4音の音域を持つ。現代のピアノによるハイドンを聴き慣れた耳には、最初のうち違和感があるが、聴いていくうちに曲と楽器が意外とマッチしていることに気付かされる。
ところでひとつ注意すべきことがある。18世紀にはまだピアノの名称が確定しておらず、フォルテピアノ、ハンマーフリューゲル、ハンマークラヴィーアなどと呼ばれていた。時にはクラヴィーアとかフリューゲル(羽の意で、チェンバロやグランドピアノの平面形が鳥の羽にているところからこう呼ばれた)という曖昧な表現も用いられ、さらにはクラヴィコードと呼ばれることもあった(この背景には、大型化したクラヴィコードにハンマーアクションを組み込むことでいわゆるスクエアピアノが生まれた経緯があるのかもしれない)。
いずれにせよ歴史的な文献を読むときには楽器の名称には注意が必要で、前後関係、文脈から慎重に判断しなければならない。
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*1:C. B. Balbastre/ I. Piveteau 《Du clavecin au piano-forte》(ADDA 581160)
*2:Haydn - Clavichord Sonatas. (GLOBE GLO 5023)
2003.11
世界には幼い子供が苦労しなければならない国や地域がある。経済的に貧しく、生活インフラの整備されていない地域では、子供は小学校に行くことさえできない。たとえ授業料が無料でも、親が子供を学校に通わせないケースがある。それは子供が労働力となるからだ。
意外に思えるかもしれないが、少し想像力を働かせほしい。たとえば水道やガス、電気が整備されていない地域では、貧しい人々は飲料水を自分で汲んでこなければならない。燃料として使う木材や枯れ草なども集めなければならない。そしてこのために必要とされる時間と労力はけっこうなもの。当然子供も手伝わされる。農業、手工業、商業を行うにしても、子供は貴重な労働力になる。
だいたい5~6歳になれば子供でも何かしらの作業ができるようになるから、こういう地域の貧しい家庭では子供を学校に行かせないのだ。だからしばしば子供は学校に行きたがる。家にいれば過酷な労働をしなければならないが、学校に行けば働かないですむからだ。
貧しさから脱したい、という強い衝動はしばしば向学心や向上心につながる。いわゆるハングリー精神と呼ばれるものもこれに相当する。しかしこの種の向学心は当然のことながら生活が豊かになれば弱くなる。恵まれた環境にいれば、いくら「勉強しないと将来苦労するぞ」といわれても切実感はない。
現代日本は、餓死者がほとんどいない、伝染病で大量死することもなければ、内戦で土地を追われたり殺されたりすることもない、という意味においては豊かで平和な国。その日本の子供や若者に向学心が乏しくなったり、無気力が蔓延するのはある意味で当然だ。
もちろん貧困で不安定な社会がいいとはいわないが、豊かで平和な社会は一歩間違えば子供や若者をひ弱にしてしまう危険性があるといってよいだろう。
さてクラシックの著名な作曲家の中には庶民なみ、あるいはどちらかといえば貧しい子供時代を生きた人が多い。バッハやハイドン、ベートーヴェンの子供時代は決して経済的に恵まれていたとはいえないし、モーツァルトはある意味では幼い頃から働かされていたといえる。
むしろ裕福な家に育った作曲家の方が珍しいが、その代表格が裕福な銀行家の一族に生まれたメンデルスゾーン。彼がいかに恵まれていたかを示すエピソードがある。彼はほぼ12~14歳にかけて弦楽のための交響曲を12曲作曲したのだが、両親は息子の作品を演奏するためにわざわざオーケストラを雇い、教会を借りて演奏会を催したというのである。
もちろんメンデルスゾーンは「金持ちのバカ息子」ではなく本モノの天才少年だった。なにしろ一度聴いた曲はまず忘れずにピアノで演奏できたというし、ベートーヴェンの9つの交響曲を暗譜でピアノで弾けたという。
ところで、ある社会において権力や豊かさを享受している階層はその社会の変革を好まず、伝統を守り保守的となる。彼らには現状維持が望ましいからだ。これに対して抑圧され、貧しく疎外されている階層はしばしば伝統を否定し、変革の道を選ぶ。人間は失うものがなければダメモトで大胆になれるのだ。
この類型から、ショーンバーグなどはメンデルスゾーンに保守的で慎重な性格を見いだす。確かに彼には大バッハの《マタイ》を再演したり、時代遅れのオルガン音楽に力を注ぐなど、懐古的な面がある。また彼はベルリンで大バッハの次男C.P.E.バッハの音楽に強く影響を受けた。大叔母のサラ・レヴィはC.P.E.バッハの未亡人から入手した手書き譜をメンデルスゾーンに与えたし、メンデルスゾーンに作曲を教えたツェルターはC.P.E.バッハの崇拝者だったといわれる。
しかしそもそもC.P.E.バッハに代表されるベルリンの音楽は保守的だった。たとえば交響曲では3楽章制に固執し、しばしば対位法的書法を導入するなど、古い様式のものだったのだ。メンデルスゾーンが子供時代に書いた前述の弦楽のための交響曲にも明らかにこのような保守性が認められる。コンチェルト・ケルンの演奏するCDで聴いてみよう*。
たとえば第12番ト短調。この曲は3楽章制で第1楽章はフーガだ。他に1、4、6、7番が収録されているが、いずれも18世紀末のベルリンの様式に近い。
しかしメンデルスゾーンの場合、裕福な家の育ちであることや保守的であることのマイナス面を感じさせないすぐれた曲を残した点が重要だろう。彼のヴァイオリン協奏曲ホ短調や交響曲第3番《スコットランド》、《フィンガルの洞窟》はきわめて美しい音楽であり、たとえ革新的な要素は見られないとしても、独創的な音楽であることは否定できない。
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*Mendelssohn: String Symphonies Nos. 1, 4, 6, 7 (TELDEC 4509-98435-2)
bcc: 172
スーパーオーディオCDを聴く
---プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番
2003.12
次世代オーディオ規格のスーパーオーディオCD(以下SACD)も実用化されてから今年で5年目。
SACDの目玉はまずなんといってもその高音質。オーディオ装置の再生できる音の強弱の幅のことをダナミックレンジというが、従来型CDの96dBに対してSACDは120dB以上。高音がどれくらいまで再生できるのかというと、CDの20kHzに対してSACDは100kHzとなっている。
かつてCDが登場したとき、人間が聴ける音は最高でも20kHzなので、そこまで再生できれば十分、といわれた。しかしこれは単純な正弦波として聴けるのが20kHzまでということで、実際にはもっと高い周波数成分も聴いているらしいことがわかってきた。だからSACDの100kHzというのも決して無意味なオーバースペックではないのだ。
当然のことながらこれは最新のデジタル録音でもっとも威力を発揮するが、過去の名演も適切にSACD化されればCDよりも高音質になるからクラシックファンにとっても朗報だ。
SACDはまた最近ホームシアターで話題の5.1サラウンドにも対応できる。5.1対応のDVD映画ソフトではしばしば音が自分の周囲をグルグル回るような効果が聴かれるが、クラシック音楽の再生でも、コンサートホールやオペラ劇場の空間を再現することが考えられ、映像なしで音楽だけを聴く場合でもリアルな臨場感が期待できる。
さてこのSACD、ディスクの外見はCDとまったく同じだが、CDがPCM(Pulse Code Modulation)方式で変換・記録されるのに対してDSD(Direct Streaming Digital)方式で変換・記録されているため従来型CDプレーヤーでは再生できない。
しかしエレクトロニクス技術の進展はすさまじいもので、ハイブリッドCDというのが可能となった。これは1枚のディスクにSACDの記録層とCDの記録層とを重ねたもので、従来型CDプレーヤーではCD層を再生し、SACDプレーヤーではSACD層を再生するというもの。
ほとんどのSACDがこのハイブリッドCDとなっているので、従来型CDプレーヤーでも再生できるのだ。逆に市販のほとんどのSACDプレーヤーはCDも再生できるようになっているので、ユーザーにとってはCDからSACDへの移行はLPレコードからCDへの移行のときに比べればずっとスムーズに行える。
03年末には普及価格帯SACDプレーヤーやSACD対応のミニコンポも発売され、一気に普及に拍車か、という感じがしてきたが、しかしSACDに不安材料がないわけではない。まずDVDオーディオという対抗馬がある。これは音楽に特化したDVD*1で、こちらもディスク外見はCDと同じだが記録方式が異なるためSACDとは互換性がない。メーカーの力関係もあり、再びベータ対VHSの二の舞になりかねない(もっともこのところCD、SACD、DVDビデオ、DVDオーディオのすべてが再生できるユニバーサルプレーヤーというのも出てきている)。
またSACDに最適化するには録音機材からDSD方式にする必要があるが、録音現場での普及はイマイチらしい。そんなこんなで従来型CDもまだしばらくは制作・販売され、ハイブリッドSACDが並行して制作・販売されることになりそうだ。しかしモタモタしていればDVDオーディオが主流になってしまったり、さらに新しい次世代オーディオフォーマットやメディア(たとえば光ディスクではなくメモリーチップに音楽を記録してしまう)が登場してSACDがアダ花に終わる可能性もゼロとはいえない。
それでも少しずつではあるが興味深いSACDが発売されるようになってきたので数枚を購入してみた(ついでに普及価格帯SACDプレーヤーも)。その中から今回紹介するのはペーテル・ヤブロンスキーの演奏するプロコフィエフのソナタ第7番*2。
反ロマン主義者でショパンやリストのピアノ作品を軽蔑し「ピアノは打楽器だ!」と主張して新しいピアニズムを開拓したプロコフィエフらしい作品だが、その衝撃的な響きがSACDではどう響くのか…ガブリロフの第7ソナタ(DG、91年録音)に比べると明らかにリアルで透明な響きだ。
ではこのディスクのSACD層とCD層との差はどうか。使用機材にもよるのだろうが筆者の耳にはその違いはごくごくわずかなもの。ブラインドテストされたら区別できないかもしれない。つまりこのディスク、従来型CDプレーヤーで聴いても新録音の高音質を享受することができるということで、SACDプレーヤーをお持ちでない方にもお薦めしたい。
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*1:DVDとは「Digital Versatile Disk=デジタル多目的ディスク」の略。
*2:プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第7番他(EXTON OVCL-00146、02年録音)。【追記】
その後、SACDもDVDオーディオもあまり普及してはいない。この記事で予測したように、2005年にはiPod nanoに代表されるメモリタイプの再生装置がヒットし、ウォークマンもメモリタイプとなって発売された。(2005.11)
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