最近の世の中の風潮を見ていると、何事につけ何かを自分でする、ということが少なくなってきている。この傾向はテレビ番組にもっとも端的な形で見ることができる。たとえばスポーツ番組。野球にせよマラソンにせよ、自分でプレイするのではなく、人がプレイしているのを画面で見て興奮する。マラソンなどは見ているだけで疲れてしまって、何かこう自分が走ったような錯覚にとらわれるくらいだ。本来は自分の身体を動かすことによって感じる何かを視覚だけから、いわば疑似体験してしまうのである。
次に最近よく目にするグルメ番組。当初筆者はグルメ番組というのは、ぜひその店に行きたくなるという強い効果があるのではないか、と考えていた。確かに見た直後は「行ってみたい」という気になるのだが、その気持ちはすぐに消えてしまう。で、しばらくして疑問がわいてきた。これもまた一種の「疑似体験」で、見ただけであたかもその店に行って食べたかのような錯覚に陥って満足してしまうのではないか。もしそうだとすれば、グルメ番組は案外店の宣伝にはならないだろう。みなテレビで見ただけで満足してしまうのだから。むしろ情報が表に出ない「謎の店」とか、「知る人ぞ知る」という店の方が集客力があるのかもしれない。何事につけ、神秘的で隠されている方が興味をそそるものだ。
さて、こういうふうに考えていくと、テレビはすべからく疑似体験と錯覚の世界に私たちを引き込んでいるといえる。トレンディ・ドラマは素敵な恋を疑似体験させ、ミステリー、サスペンス・ドラマは犯罪と謎解きの疑似体験をさせてくれる。これらすべては錯覚と幻影。よく考えると、ちょっと空しくなってくる…
音楽はどうだろう。いい音楽を自分で作り、自分で奏で、自分で楽しむことができたら理想的。しかし社会が複雑化するにつれて分業が進み、現在では作曲家、演奏家、聴衆というように完全に分離してしまった。考えようによっては、ただ聴くだけの「聴衆」というのは寂しい。あまりにも受動的だ。何か自分で演奏できれば音楽にかかわっている実感がわくし、また音楽から得るものも違ったものになるのではないか。
この意味では、昨今のカラオケブームというのはいろいろ問題はあるにしても、とにかく「自分で歌う」という能動的側面は評価するべきで、のべつウォークマンで、あるいは自分の部屋であれこれ音楽を聴いているだけの音楽ファンに比べればはるかに健全といえる。プロでも作曲家が作った曲を決ったパターンで歌うだけの歌手よりも、アドリブのできるジャズ歌手の方が格が上に思えるし、シンガー・ソング・ライターは本来の意味での音楽家といってよいだろう(ただし、ほんとうに彼らが自分で書いていれば、の話だが)。
社会も音楽も高度に発達した現在、すべての人が作曲からやるというのは無理にしても、何か楽器を演奏したり、歌を歌うことは決して不可能ではない。メディアが発達した現在、中途半端なプロは不必要で自分のために演奏するアマチュア演奏家がもっと増えるべきだ。
この「アマチュア」という問題、クラシックのピアノについてはどうだろう。概して技術的に簡単なものは聴いておもしろくない、逆に聴いておもしろいものは技術的にむづかしくて、アマチュアには無理。しかも現在、名曲の名演奏はFM放送やCD、カセットで簡単に聴けるから、いくら自分で弾く楽しみがあるとはいえ、簡単な曲しか弾けなければちょっとみじめになってくる。
ところで中学生ぐらいになると、受験勉強のためにピアノをやめる生徒が多くなるという話をしばしば耳にするが、それは受験勉強のせいだけではないような気がする。そろそろ大人になる彼らを夢中にさせるようなピアノ曲が、今の日本のピアノ教育で教えられているのかどうか、大いに疑問だからだ。教材とされるピアノ曲が、十年一日、古典派からロマン派あたりの、しかも特定の作品に限定されていることは問題だ。バロック以前や近・現代をもっと広く取り入れて選択の幅を広げた方がよいのではないか。
現代の側でもっと取り上げられてよいと思われるのがバルトークの《ミクロコスモス》*。この曲集はさまざまなピアノの表現を駆使しているという点でおもしろいと同時に、技術的に段階を追って進めるという点ですぐれた練習曲でもある。ある程度ピアノを学んだ人ならば、第4巻あたりから弾いていくといい。技術的に無理なく、現代的なピアニズムを(疑似体験ではなく)本当に自分自身で演奏することによって体験することができるだろう。ということで今回はただ単に聴くためのCDではなく、自分で弾くためのお手本としてのCDの紹介である。
*Discography:
Bartok/Microcosmos Integrale
Claude Helffer, piano
harmonia mundi france, HMA 190968.69
92/8 last modified 03/07
bogomil's CD collection: 016 (C) 2005-2013 Osamu Sakazaki. All rights reserved.