※このページは以下の10編のエッセイを収録しています。
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先日、知人のK氏に会った。彼はここ数年、コンピュータを使って自分の好きな曲を演奏するのを趣味としている。コンピュータに楽譜を入力して、シンセサイザで音を出す、つまり、コンピュータをシーケンサとして使って、自動演奏をさせるわけだ。最近は新しい高性能のシステムを導入して、意欲満々だ。
新しいシステムの特徴は、ソフトと、音源。ソフトはドイツ製、音源はアメリカ製だが、なかなか使い勝手がよい、という。K氏によると、日本のソフトや音源は、音楽を表現する、という点では物足りないそうだ。なるほど。日本の技術で高性能のICチップは作れても、その応用となると、話は別らしい。
ところで、K氏はもともとクラシック・ファン。コンピュータで演奏させる曲もヴィヴァルディやバッハが中心で、ごく普通に演奏させたいのだが、それが意外とむずかしいらしい。
どんなに長い曲でも、楽譜をそのままコンピュータに入力するのは簡単で、とりあえず、一音も間違いなく演奏させることができるが、「いい演奏」にするにはその何十倍もの時間がかかるという。
たとえばリタルダンド。今のところ、「rit.」と指定して、コンピュータが適当にリタルダンドするようにはなっていないらしい。したがって、四分音符=120、100、85‥‥というように、テンポを少しづつ、遅くしていかなければならないのだそうだ。この数値や減少率は曲によって異なり、あれこれテンポを変えていくうちに、どれがいいのかわからなくなることもあるという。
この他にもデュナーミク(強弱法)、アゴーギク(緩急法)、アーティキュレーションなどの微妙なニュアンスをいちいち指定するのはえらく大変らしい。「でも、やっているうちに、演奏家がいかに大変なことをやっているかが、よくわかるようになりましたよ」とK氏はいう。そして、「ほんのわずかの違いが、演奏のよしあしを大きく左右しますね」ともいっていた。
「ミスなく、適切なテンポで演奏する」、これは、決して目的あるいは到達点ではない。むしろ出発点であって、ここから音楽を「表現する」という仕事が、すなわち、本来の意味での「演奏」がはじまるのだろう。
しかし、このことはこれまであまり明確に意識されてはいなかった。コンピュータによる自動演奏によって初めて、即物的に「楽譜どおりに間違えないで速く弾く」ということが、現実にはいったいどんなものなのか、理解できるようになったといえる。
数百分の1秒の精度で制御されるコンピュータの演奏に比べれば、しばしば「機械的正確さ」と評される G.グールドや「新即物主義」と呼ばれるピアニストの演奏でさえ、いかに「人間的」かがわかる。
筆者は、安易に作られたコンピュータによる即物的自動演奏は好きではないし、将来、コンピュータが人間の演奏家にとってかわるとも思っていない。ただ、コンピュータによる演奏は、ひとつの基準尺度として、いわば「物差し」のような機能を持つという点は評価すべきだと考えている。
コンピュータの演奏は、よくはないが、かといって悪くもない。間違えずに正確なテンポでくるから、「無味乾燥」という印象は与えても、「ヘタ」という印象を与えないのだ。また、パソコンにゆっくりしたテンポで演奏させると、速く正確に弾くのがむずかしいだけではなく、ゆっくり、正確に弾くのもむずかしい、ということがよくわかる。
つまるところ、コンピュータの演奏は無色透明、きわめてニュートラルな演奏といえる。
これに対して、人間の演奏は、無色透明ではありえない。美しく色づけされた演奏が「よい演奏」であり、汚く色づけされた演奏が「ダメな演奏」になるのだ。
そして、ここで重要なことは、この「色づけ」は、ほんとうに微妙なものだ、ということ。K氏の制作した自動演奏の試行錯誤を聴いてわかることは、アゴーギクは、全くやらないと機械的単調さに陥るが、はっきりわかるほどあからさまにやってもダメだということ。気付かれない程度にやることで、自然な演奏になるといえる。もっとも、これは、注意深く聴けば、人間の演奏にもいえることだ。
よい演奏をするには、微妙なニュアンスの違いを表現できなければならない。そのためにはテクニックが重要であることはもちろんだが、それ以前に、そもそも微妙な違い聴きわけられなければならないだろう。
そして、微妙な違いがわかるようになるには、自分の、あるいは他人の演奏の細部を注意深く聴いていくことしかない。無神経な演奏ほど腹立たしいものはない、といってもよい。
有名なバッハの「平均律」も、アメリカのジャズ・ピアニスト、ジョン・ルイスが弾くと、どこか違う(「J.S.バッハ プレリュードとフーガ」PHILIPS 824 381-2)。
個々の音のタッチ、アーティキュレーションの微妙なコントロールと、全体のノリの微妙な違いで、聴き慣れたバッハがこんなにも変貌する。クラシックのピアニストやチェンバリストの弾く「平均律」とは、リズム感とアクセントが微妙に違うからだろう。同じバッハであっても、同じ演奏ではない。演奏というものの奥の深さを痛感させられるCDだ。
内藤孝敏によるCD、「シェーンベルク:ピアノ作品(全曲)」(Gramophon POCG-1431)は、現代テクノロジーが、クラシック音楽に何をもたらすかを考えさせるCDだ。
このCD、説明なしに聴けば、ほとんどの人は非常にテクニックのあるピアニストが、ピアノで弾いているように聴くことだろう。ところが、このCDには「コンピュータ&シンセサイザー」という副題が付いている。そう、コンピュータ上で、いわゆるシーケンス・ソフトを用いて、シンセをコントロールして録音されたものなのだ。
「シーケンス」や「シンセ」という言葉、バンド関係の雑誌ではよく目にするが、クラシックでは、ほとんど目にすることがないので、簡単に説明すると、シーケンスというのは、シーケンサーsequencerに由来する言葉で自動演奏のこと、シンセというのは電子的に音を合成synthesizeする機械のこと。
シーケンス・ソフトを用いて、あらかじめ、音の高さと、長さのデータをコンピュータに記憶させておき、テンポや強弱を指定してやると、コンピュータは指定された音を演奏するための信号をシンセに送り、自動的に演奏する。これは一般に「打ち込み」と呼ばれている。
ただしこの場合、前回(071)にも触れたように、楽譜どおりにデータを作成してコンピュータに演奏させてみると、平板、単調でつまらない。フレーズの終りでのテンポの微妙な変化や、各音の音量バランスなど、楽譜に書かれていない重要な要素がまったく無視されるからだ。コンピュータは指定されたことしかやらないから、よい演奏をさせようと思うなら、演奏の細部をていねいにデータ化する必要がある。
コンピュータを使えば、楽器が弾けなくても、原理的には自分のイメージによる演奏をさせることができる…はずだが、実際には修正しては聴き、また修正する、というプロセスを繰り返すので、場合によっては、1曲のデータを完成させるために数週間かかる、ということも起こってくる。
だから、ある程度、楽器を演奏できる人は、MIDIキーボードを直接弾いてデータを入力することが多い。この方法は一般に「リアルタイム入力」と呼ばれ、ニュアンスを表現しやすく、機械的な単調さに陥ることはなくなる。ただし当然のことながら、演奏の質は、演奏者の力量に依存する。
これまでにも、コンピュータを使ってクラシックを演奏しました、という録音はいくつ存在していたが、いずれも、聴いてすぐに仕掛けがわかってしまうものだった。しかし、このCDは違う。ちょっと悔しいが、筆者には、予備知識なくこのCDを聴いて、コンピュータによるものだ、と断言できる自信はない。非常に完成度の高い演奏といってよいだろう。
もっとも、このCDで取り上げられた作品が、ベートーヴェンや、ショパンではなくて、シェーンベルクである点は重要だ。
コンピュータの演奏は、どうしても機械的、非人間的で、不自然な感じになりがちなので、古典派やロマン派の作品をそれらしく再現することはむずかしい。
これに対して、シェーンベルクのピアノ曲は、不協和音が多く、無調的で、しかも不規則なリズムからなっていて、そもそも、通常のピアノ曲に比べれば「不自然」だ。だから、コンピュータで演奏しても、さほどおかしくはならないともいえるのだ。
シェーンベルクのピアノ作品は、bcc: 029でも紹介した、ポリーニの演奏やグールドの演奏があり、それらとこのコンピュータによる演奏を聴き比べれば、特定のパッセージが、あまりにも機械的に正確なので、コンピュータでなければ不可能であることがわかるし、ピアノの音質、特に低音の余韻などの点で、シンセを使っていることもわかる。しかし、これはかなり注意して何回か比較しないとわからないだろう。
このCDは1991年に発売された。筆者は発売直後に聴いて、最初は、否定的な評価を下した。しかし、常日頃、「一回聴いただけでわからなくても、何回か聴けば、よさがわかってくることもあるよ」と言っている手前もあって、しばらく時間を置くことにした。
そして、数年たった現時点での筆者の評価。このCDは、音楽として聴けるものであり、十分、存在理由がある。ポリーニやグールドの演奏と比較すれば不満もあるかもしれないが、これは趣味嗜好の問題。「コンピュータの演奏なんかダメだ」と頭ごなしに否定するべきではない。
ただし、コンピュータを用いた頭脳のみによる演奏が、従来の人間の頭脳と身体による演奏を駆逐する、と考えるのは早計だ。ここしばらくは、少なくとも今後50年から100年ぐらいは、電子楽器の音質は、(たとえ録音であっても)アクースティック楽器に一歩も二歩も譲るし、コンピュータ演奏システムは、微妙な表現と柔軟性の点で、人間のすぐれた演奏を超えることはできないだろう。
それでも筆者は、産業革命時の「機械打ち壊し運動」に参加した職人たちの気持ちが、少しわかるような気がする。 93/02
日本人は「定番」が好き。「ブランド志向」という言葉が聞かれるようになったのは最近のことだが、考えてみれば、昔から「学歴」とか「家柄」にこだわる傾向がある。これも、一種のブランド志向だ。「有名」、「一流」、「名門」、「世界初」という言葉にもめっぽう弱い。
では、なぜ「ブランド志向」なのか。ブランド品は品質がよい、間違いがない、だから安心できる、みんな知っているから人に自慢できる、自慢しないまでも、バカにされないですむ…はずである。
かくいう筆者も、たとえば、スピーカはタンノイ、カートリッジはオルトフォン、レンズはツァイス、ふりかけは永谷園、という具合に、ものによってはやはり「定番」や「ブランドもの」に弱い部分がある。
しかし「ブランド志向」には大きな危険が潜んでいる。だれもが価値を認めるものが「定番」となり、質のよい製品を作るメーカーが「有名ブランド」になるのが本来のありかた。ところが、品質を評価できないユーザーが盲目的にブランド志向に走ると、しばしば悲喜劇が起こる。
そのいい例がグッチのニセモノなど、いわゆる「ニセブランド商品」。また、時おり週刊誌をにぎわす、結婚詐欺のたぐい。自称「某有名大学出身のエリート」にコロッとだまされるのも、ブランド志向の心理を巧みに利用した手口に弱い証拠だ。
世の中には、本当に鑑識眼があってブランドを愛好しているケースと、本質的な価値を見抜くことができないで、他人やマスコミの言葉に踊らされて、ブランド志向に走るケースがあって、現代社会では後者が圧倒的に多くなってきているのではないか*1。
クラシック音楽の分野にも、この「ブランド志向」がある。チラシやプログラムには、しばしば「○○に師事」とか「○○コンクール入賞」というようなことが書いてある。欧米の「○○音楽院留学」も箔付けになる*2。
こういったことは、ある程度、その音楽家の実力を反映しているといえないことはないが、演奏会当日に体調を崩したり、やる気をなくしたら、どんな経歴も吹き飛んでしまう。演奏というのは、出たとこ勝負、賭けに似た側面があるのであり、経歴はその演奏家を判断するためにはあまり役に立たない、と思っておいた方がいい。
さて、有名ブランドのものではなくても、いいものはある。バッグでも、ドレスでも、使いやすくて自分によく合うものが、いいもの。自分をより引き立ててくれるものが、いいものだ。「まあ、素敵なバッグね」と(バッグだけ)ほめられるのと、「まあ、あなた今日は素敵だわ!」とほめられるのと、どちらが気分がいいだろう。
どんな高級ブランド品を持っていても、似合わなかったらお笑いだ。陰で「なんとかに小判」、「なんとかに真珠」といわれるのがオチ。
音楽も同じ。自分が気に入った曲なら、だれが作ったものかは関係ない。だから、特定の有名作曲家にばかりこだわっていると、ほんとうに自分に合った音楽に出会う機会を失ってしまうことになる。いつまでたっても、「モーツァルトにショパン」でもないだろう。
そこで、今回紹介するのは、「ロシア5人組」のピアノ曲集(RUSSIAN PIANO MUSIC - Margaret Fingerhut. Chandos CHAN 8439)。
「ロシア5人組」とは、バラキレフ、ボロディン、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフの5人。19世紀ロシアの国民楽派として知られており、中でもボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフの管弦楽曲とオペラは日本でもある程度は知られているが、ピアノ曲はあまり知られていない。一部では、「ロシア5人組はバラキレフ以外アマチュア(だから大したことはない)」と評されることさえあるが、これはブランド志向の裏返しで、なんともバカげた話しだ。
さて、このCDには、ロシア風の音楽が聴かれるものも収録されているが、民族色の弱い作品も収録されている。筆者がお薦めするのはバラキレフの《トッカータ嬰ハ短調》、キュイの《前奏曲》 op.64-2、8、9、10、リムスキー=コルサコフの《ノヴェレッテ》op.11-2、ボロディンの《ノクターン》。すべての人がこれらの曲を気に入るとは思わないが、何人かの人は、きっと気に入ってくれる…そんな無名ブランドの逸品に思える。
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*1:三杉隆敏:『真贋ものがたり』(岩波新書451)は、主に陶磁器の鑑定の問題を扱っているが、ホンモノとニセモノの問題がそうそう単純ではないことを教えてくれる。
*2:欧米でも、CD解説などに演奏家の紹介として「○○音楽院で学ぶ」とか「誰某に師事」ということが(日本ほどではないにせよ)書いてあるところを見ると、洋の東西を問わず、音楽の世界は徒弟制、家元制の世界なのだろう。 (1991.03)
ピアノで演奏する場合、フーガの主題は強調して演奏されることが多い。しっかりした技術を持つピアニストならば、3声や4声のフーガを弾きながら、特定の声部を強調して演奏することができる。
たとえば、《平均律》第1巻のハ長調フーガをグールドの演奏で聴いてみよう(CBS SONY 46DC5247〜8)。
主題は非常に明確に聴こえてくる。このフーガでは、主題がおよそ23回現われる、しかもほとんどエピソードらしいエピソードもなく、連続的に提示されるので、聴いていていささかくどい感じがしてくるほどだ。だからこのグールドの演奏、筆者には、いささか主題を強調しすぎているように思える。
確かに、主題は大切だ。どこに主題が提示されているかを理解せずにフーガを演奏するなどということはまず考えられない。しかし、演奏者が主題を意識することとと、主題をどのように歌わせるかは別問題。主題が出てくるたびに、同じアーティキュレーションで、他の声部よりも明確に強く弾く、というのはかえって演奏をつまらなくしてしまうのではないか。
筆者はフーガの主題というのは、必ずしも常時はっきり聴こえる必要はないと思っているし、聴き手の側も、提示される主題をすべてはっきり意識する必要はない、と思っている。
そもそも、フーガでは、最初に単声部で主題が提示されるから、いやでも、主題は印象づけられる。そして次第に声部が増えてくるにしたがって、すこしづつ、主題は他の声部に取り囲まれ、全体の和声的な響きの中に埋没していく。他の声部の旋律と重なり合うことで、あるときは明確に、あるときは控え目に聴こえてくることで主題の表情がいろいろ変る。これがフーガのおもしろさだ。
ところで、ウィルソン・ブライアン・キイ著の『メディア・セックス』、『メディア・レイプ』、『潜在意識の誘惑』(リブロポート刊) は、主にアメリカの宣伝広告に使われている、潜在意識に訴える手法を論じた、興味深い本だ。この本の大きなテーマのひとつが、サブリミナル・テクニック、すなわち潜在意識に訴える手法。
人間は、視覚、聴覚などの感覚を通じて、外界からの刺激を受けている。しかし、感覚器官が感知した刺激をすべて明確に認識しているわけではない。たとえば、喫茶店で話しをしているとき、あなたは、相手の話しだけを意識的に聞いている。
ところが、実際には、となりのテーブルの客の話し声やBGMの音楽の音、コーヒーをまぜるスプーンの音など、雑多な音が入ってきている。その中から、相手の話し声だけを聞いているのは、耳の働きではなくて、脳の情報処理機能なのだ。視覚でも、聴覚でも、脳が情報を選択することで、必要な情報が得られるようになっている。
人間は、このような、意識された情報にのみ、対処しているのではない。それ以外の、つまり、脳による選択過程で切り捨てられた情報も、決して無視しているわけではない。これらは、潜在意識、無意識の領域に取り込まれ、記憶されることがある。
この潜在意識の概念は、フロイトによって提唱されたもので、人間存在の根源に深くかかわる生と死、性的欲望などが隠されているといわれる。そして、キイによれば、潜在意識的な刺激に対して、人間はきわめて無防備であり、特に道徳的抑圧の強い人間ほど弱いのだそうだ。
そこで、宣伝や広告は、訴えたいことを意識されないように、巧みに隠して、私たちの潜在意識に潜む欲望や、不安に直接、訴えかけようとする。
たとえば、宝石のコマーシャル。ダイヤが何カラットだの、だれそれのデザインだのといった、宝石そのものの価値についての説明がなされることはまずない。上品な音楽をバックに、シルクのドレスを着た美しいモデルが、宝石を身に付ける。
このコマーシャルを見ている女性は、自分も、宝石を持てば、画面のモデルのように美しくなれる、という幻想を無意識的に抱くようにしむけられているのだ。
男性を対象としたタバコのコマーシャル。場所は、ゴミゴミした都会ではなく、スイスやカナダの山や湖が舞台。決してほこりっぽい都会が舞台となることはない。そして主人公は、スポーツマンだったり、ビジネスマンだったりするが、いずれもハンサムで若く、引き締まった体型をしている。そして、彼の横には美しい女性が出てくることも多い。
このコマーシャルを見ている男性は、タバコを吸う、という行為が理想的な男性に付随するもので、同時に清潔で、男性的魅力を高めることなのだ、という幻想を無意識的に植えつけられるのだ。
宝石の場合も、タバコの場合も、宣伝は「これを買いなさい!」と命令したりはしないし、決して押し付けもしない。宣伝の効果を高めるためには、あからさまに商品をアピールするのではなくて、できるだけ、さりげなく、訴えること。できれば、相手に気付かれることなく、相手の潜在意識に直接、訴える。これが、ポイントのようだ。
キイの本にはもっと興味深い、そしておそろしい広告のテクニックが出てくるのだが、ここではこれ以上は深入りしない。
本題に戻ろう。 音楽の場合、聴き手が明確に聴いている、と意識している音ばかりではなく、もっと多くの音を潜在意識でも聴いているといってよいだろう。特に、同時に複数の音がなり、複数の旋律が重なり合うような構造を持つ西洋音楽は、意識に訴えると同時に、潜在意識にも訴えていると考えられる。
たとえば、ふつう、私たちはたとえばショパンの《別れの曲》の、あの主旋律が美しい、と思っている。しかし、どうやら実際には、バスと内声の和音の微妙な変化にも、相当程度、影響されている。
これは、子供向き、アマチュア向きにピアノ名曲を簡単に弾けるようにアレンジした曲を弾いたり聴いたりしてみればわかる。伴奏部分を単純化してしまうと、曲がまったくつまらなくなってしまうのだ。
だからおそらく、内声の響きに無神経な演奏は、いかに主旋律を美しく歌おうとも、やがて、飽きがくるだろう。しかし、なぜ、その演奏に飽きたのか、その理由は、決して明確に意識されることはない。なぜなら、その判断は、意識によってではなく、潜在意識でなされたものだからである。
フーガの主題が、のべつまくなし、前面に出ていてはおもしろくない、というのも、こういった心理から説明できる。
平均律第1巻のハ長調フーガ、ギルバートがチェンバロで演奏したCD*1を聴いてみよう。個々の音に強弱をつけられないチェンバロで弾くと、確かに内声の主題が隠されてしまうことがあるが、それはそれでいいのである。そもそも、ことさら「聞き耳」を立てて「主題探し」をする必要もないのだ。おそらく潜在意識は、隠された主題も聴いており、曲の統一性を把握しているのである。
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* J.S.Bach: Das Wohltemperierte Clavier. Kenneth Gilbert (ARCHIV 413 439-2)
1996年3月のある日のこと。筆者はいつのまにか、シューベルトの《野ばら》を口ずさんでいる自分に気づいた。別に理由はなく、気がついたら歌っていたということで、何でまた、よりによって《野ばら》なのだろう、とちょっと釈然としないものを感じた。
数日後、この不可解な現象の謎が解けた。《野ばら》の旋律が、あるパソコンのテレビCFのバックに流れていたのだ。このCFは、これまでに何回も目にしていたし、バックの音楽も聴いてはいた。しかし、ここでは《野ばら》をポピュラー風にかなりくずして、しかもピアノ・ソロで演奏していたため、鈍感な筆者は《野ばら》とは意識せずに、漫然と聴いていたのである。
筆者が突然《野ばら》を歌い出したのは、おそらく、このCFの影響だったのだ。
認知心理学に関しては素人の筆者が生半可に論じるのは気が引けるが、この現象もサブリミナル=潜在意識の働きを象徴しているようで興味深い。
つまり、筆者は、例のCFを見、聴いたが、「《野ばら》を聴いた」という自覚はなかった。《野ばら》という曲を意識しなかったのだ。しかし筆者の「潜在意識」は、この曲が《野ばら》であると認識し、聴いていた。
なぜなら、筆者がこの曲を突然、口ずさんだとき、"Sah ein Knab ein...."と歌詞を付けて歌ったからである。ただし、このとき歌っていたのは、厳密にいえば筆者の「潜在意識」だった。しばらくして、筆者は、この曲を歌っている自分に気が付いた。つまり、筆者の「意識」が、自分の無意識的行為を認識し、そして当惑したのである。
前回(074)にも述べたように、「イメージ広告」的な潜在意識に訴える手法は、最近では雑誌やテレビなどのメディアを通じて、広告宣伝に応用されているが、古くから、少なからぬ呪術師やサギ師、宗教家や政治家が、昨今の用語で言えば「マインド・コントロール」の道具として用いてきたものでもある。
たとえばナチスの党大会でのヒトラーやゲッベルスの演説は、その語られる内容よりも、周到に演出された会場の雰囲気と、なによりも語り手の「音楽的」ともいえる語りのリズムや抑揚が人々を酔わせているように見える。
身近な例では、狭い会場に客を集めて、巧みに熱狂をあおり、高額商品を売りつけるような商法がある。いずれの場合も、もはや人々は理性的に判断できなくなり、極めて情緒的に反応し、だまされやすくなってしまうのだが、これは人間が、暗示や、ほのめかしをはじめとするさまざまな潜在意識への攻撃に極めて脆いことを示しているのだろう。
この潜在意識の働きを音楽にあてはめてみると、「自分は、今この曲を聴いている」と明確に意識して聴く場合よりも、喫茶店のBGMや、テレビのCFのように、なにげなく聴いている音楽の方が、潜在意識への作用は大きいということになるかもしれない。なにしろ、何年も歌っていなかった《野ばら》を、筆者に歌わせてしまうほどの力があるのだから、ちょっと怖いぐらいだ。
そもそも、ある種の音楽を聴くと、自分で感情を制御しようとしても、なんらかの喜怒哀楽の感情が引き起こされてしまうことがある。このことは、理性や意識によって知覚され解釈される音楽よりも、潜在意識によって知覚され、解釈される音楽の方が、より重大な意味を持つことを示しているのかもしれない。
さて、同じようにおそらくテレビCFの影響で筆者が最近聴きたくなった音楽がもうひとつある。ミュージカル《サウンド・オブ・ミュージック》の中の《私のお気に入り My favorite things》。
ジュリー・アンドリュースの歌うオリジナルもいいが、ジャズのサックス奏者、ジョン・コルトレーンの一風変わったインプロヴィゼーションもおもしろい。筆者の持っているのは1960年10月21日録音のもの*。中間での、マッコ・タイナーのピアノ・ソロも聴かせる。
ところでこの曲は、何のCFで使われていたかというと…これはひとつ、クイズということにしておこう(解答は本稿の最後に)。
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* John Coltrane - My Favorite Things (ATLANTIC 1361-2)
【クイズの答】 1996年に、JR東海の「そうだ京都へ行こう」キャンペーンのテーマとして用いられた。
【追記】
それ以後も、JR東海は継続してこの曲をCFに使っており、2005年の時点でも、この曲をCFで聴いた。(2005.12)
生活水準の向上によって、いわゆる「ごちそう」の意味も、近ごろではだいぶ変わってきている。
たとえば、正月の「おせち料理」。 おせち料理というのは、正月だけの、特別の食べ物だ。これは、昔も、今も、あまり変わっていない。筆者は関東の育ちだが、ふつう、数の子、田作り、栗きんとん、こぶ巻き、ごまめ、かまぼこ、伊達巻き、といった料理が重箱に入っている。このうち、数の子から、ごまめまでの5種は、正月以外はまず、食卓にはのぼらない、という意味で、特別な食べ物だ。
これらの食べ物は、昔は特別なだけでなく、贅沢な、いわば「ごちそう」でもあった。少なくとも戦前までは、日常、食べるものが、現在よりもずっと質素で、魚も卵も高級品、肉など、ほとんど食べられなかったからだ。
たとえば、落語『長屋の花見』では、貧しい長屋の住人達が花見のためにあれこれ料理を用意するのだが、卵焼きの代わりにたくあん、かまぼこの代わりにだいこんを持っていく、ということになっている。
もっとも、何が高級品で、何がその代用品かは時代によって変わってきたのだろうが、かつては、卵焼きやかまぼこが、庶民にとっては、ちょっとした高級品だった、ということを示している。
ところが、現在では卵やかまぼこはそれほど高級品ではなくなり、さらには日常的に肉類を食べているから、おせち料理というのは、かえって質素なイメージになってしまった。かろうじて数の子だけが高価だ。
日常の食生活が豊かになったために、本来は「特別に豪華な食品」であったはずのおせち料理が、取り残されて、立場が逆転してしまったのだ。
同じような現象は、縁日の菓子類にもいえる。江戸時代には甘いものは贅沢品だった。そもそも砂糖は貴重品だった。だから年に何回か、祭りや縁日でりんごあめなどを食べるのが、子供には大きな楽しみだった。
ところが、現代では、日常的にチョコレートやアイスクリームやケーキやらを食べているから、縁日のりんごあめや綿菓子は、多少は珍しさがあるものの、さほど胸がわくわくするようなものではなくなっている。これも、一種の逆転現象といっていいだろう。
同じような逆転現象は、音楽にも起っている。今から40〜50年前は、CDもカセットもなく、音楽を聴く手段としては、ラジオかレコードしかなかった。しかも、それらは性能が悪くて音質はひどく、雑音も多かった。
そういう状況では、生演奏は素晴らしいものだった。特に演奏会で聴くプロの生演奏はよかったのである。たとえ、多少、演奏が下手でも…。
現在は、どうだろう。いつでも、どこでも、よい演奏を、よい音質で楽しむことができる。FM、テレビ、ビデオ、カセット、CD、DAT、LD、MD、DVD…。
こうなってくると、いくら本物がよいとはいえ、生演奏の価値は相対的には低下してくる。
「クラシックは生演奏に限る」といわれる。確かに、すぐれた演奏者が最高のコンディションで演奏する生演奏を、聴く方もベスト・コンディションで聴くことができるなら、その「生演奏」が最高であることを筆者は否定しない。
しかし、たとえ著名な演奏家であっても、体調が悪くて、よい演奏ができないような状況での生演奏を聴くくらいなら、その演奏家が最高のコンディションで録音したCDを聴いた方がよい、ということもある。
さらに極論すれば、下手なピアニストの生演奏を聴くよりも、上手なピアニストのCDを聴いた方がよい、ということもあるだろう。
このように生演奏の価値の低下した今日、一般的な音楽鑑賞なら、CDやLDで充分だから、演奏家の需要は低下する一方だ。現在、どんなジャンルでも、一流と呼べる演奏家は、世界でも数人から十数人だろう。これは「数人しか存在しない」のではなく、「数人いれば充分」ということ。彼らの録音が何万枚ものCDで聴かれれば、ほとんどの需要に応えられるからだ。
もちろん、このような一流の演奏家のコンサートとなれば、大いに期待されるが、彼らはそうそう頻繁に演奏会を開くわけではないし、特に日本では、来日のための経費もバカにならないから、どうしてもコストが上昇する。
問題は、「それでも、生演奏は素晴らしい」と納得できるかどうかにかかってくるが、筆者は納得できない。たとえどんなによい演奏でも、1回のチケット代が数万円というのは行き過ぎだ。
レコードやCDは、決して、生演奏の「代用品」ではない。過去のすぐれた演奏の録音は、現在のデキの悪い生演奏よりもはるかに価値がある。CDアルバム『これがオペラだ!!!』(LONDON F30L-20194)は、このことを端的に示している。テバルディ、モナコ、サザーランドなど、往年の名歌手の名演は、録音で聴いても、やはり名演なのである。
ミュージカル映画《サウンド・オブ・ミュージック》の中で歌われる《ドレミの歌》は、日本語にも訳されて大変、親しまれている。著作権が絡むので、全文は紹介しないが、きちんと歌詞に対応して「ド」、「レ」、「ミ」と音の高さも上がっていくので、階名を覚える役に立つことは確かだ。原曲(英語)では、「ラはソに続く音」とやや安直だが、日本語版では律義に単語が当てはめてあるところも面白い。
ではこの「ドレミ」は、いったい、どうして「ドレミ」になったのだろうか。たとえば、なぜ「レ」は"Le"でなくて"Re"で、逆に「ラ」は"Ra"でなくて"La"なのだろうか。
「ドレミ」は11世紀の音楽理論家、グイド・ダレッツォが考案したといわれる聖歌に由来する。
グイドは、音の高さを線を用いて明確に表すなど、記譜法の発展にも寄与した人物。その彼がキリスト教の修道士たちが聖歌を正しく歌うための、いわばソルフェージュ教育のために、あるお祈りの言葉にメロディを付けた。このお祈りは《あなたのしもべたちが Ut queant laxis》という言葉で始まる《聖ヨハネ賛歌》と呼ばれるものだった。この賛歌の最初の部分が「ドレミ」の起源だ*1。
Ut queant laxis
resonare fibris
Mira gestorum
famuli tuorum,
Solve poluti
labii reatum
Sancte Johannes.
各フレーズの最初が、"Ut, re, Mi, fa, Sol, la"となっている。さらに旋律では、これらの最初のシラブルが「c-d-e-f-g-a」に対応している。この聖歌ではC音が"Ut"になっているが、これは、後の時代になって、"Do"に置き換えられて現在のイタリア式階名(音名)になった。なおフランスではC音を"Ut"と呼び、ハ長調が "Ut majeur"と表記されるのは、この名残りだ。
さて、この歌詞はラテン語で「あなたのしもべたちが、のどの筋をゆるめて、 すばらしいみ業を讃えることができますように、汚れた唇の罪を取り除いてください、聖ヨハネよ。」というような意味。
歌詞そのものが、神や聖人を讃えるための聖歌の機能を象徴していて興味深い。この時代、少なくとも教会や修道院では、音楽はあくまで「神を讃えるもの」だったのだ。
現在、世界中で「ドレミ」が使われていることをグイドが知ったら、さぞかし喜ぶことだろう。しかし、もとの聖歌の意味は忘れられてしまって、ただ単にシラブルとしてだけ歌われていることを知ったら、ちょっと顔をしかめるかもしれない。
ところで、この聖歌は一般に「グレゴリオ聖歌」と呼ばれているもののひとつ。《ドレミの歌》に比べると、ちょっともの悲しい感じの曲だ。クリスマスや復活祭といった大祝日の聖歌ではないため、知名度は低く(もっとも、グレゴリオ聖歌自体、知名度はおそろしく低いが)、録音されることも少ない。
コンラート・ルーラントが指揮した1992年録音のものは、珍しい部類に属するといってよいだろう*。 しかも、ここで、ルーラントは、この聖歌を音に長短の区別をつけて、8分の6拍子風のリズムで演奏している。
グレゴリオ聖歌は、一般に拍節リズムなしで、お経のように歌われたと考えられているが、ある時期は定量リズムで歌われた、とする研究者もいる。ほんとうのところは、よくわかっていないのだ。
さて、この聖歌の歌詞には「シ」が現れない。この時代、音名としての"B"は存在したが、階名唱法では、7音音階ではなく、6音音階(ヘクサコルド)を用いていて、「シ-ド」の半音を「ミ-ファ」に読み替えるべく、曲の途中で「ドレミファソラ」をずらして読んでいた。だから階名の「シ」は用いられなかったのだ。
しかし、やがて音階の第7音としての「シ」が登場する。では、この「シ=Si」は何に由来するのか。 前掲のラテン語テキストの最後の行、"Sancte Johannes"は、たとえば11世紀のある写本では"Sancte Iohannes"と綴られている(中世のラテン語ではJは存在しなかった)。したがって、"Si"は、この2つの単語の最初の文字"S"と"I"を取って後に導入された可能性がある。
これは、"Ut"が"Do"に変わったことに関連する。もし"Do"が"Dominus"=「主」に由来するとすれば、第7音の"Si"には聖書的必然性がある。"Si"の音は、やがて主音"Do"を導く音、つまり「導音」になった。洗礼者聖ヨハネもまた、聖書では主イエス・キリストのさきがけとして、「主を導く者」として現われ、イエスに洗礼を施したのである。
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* Gregorian Chant. Konrad Ruhland (SONY CLASSICAL SK 53 899)
ヤコブス・デ・ヴォラギネ『黄金伝説』(人文書院刊)によると、聖ヨハネ讃歌のテクストは、モンテ・カシーノの修道士であったパウルスの作。あるとき、パウルスはロウソクを聖別することになったが、自慢の声が出なくなってしまった。そこで、また声が出ますように、という願いを込めてこの讃歌を作ったという。これは、ヨハネの父ザカリアが、妻に子供のできたことを疑ったためにヨハネが生まれるまで、しゃべることができなくなった、という新約聖書の記述に関連している(同書第2巻324ページ)。
参考資料:聖ヨハネ讃歌の楽譜と解説(PDF)
2012年9月、ひょんなことから、この聖ヨハネ讃歌に関連づけられた「ソルフェジオ周波数 Solfeggio frequencies」が存在することを知った。この説では、「Mi」を528Hzとしており、DNAを修復する作用があるという。そもそも、古代ギリシア時代から18世紀までの音楽理論は、あくまで音程や音階の相対的な比率を論じたもので、絶対的な周波数(振動数)は論じられることがない。また、標準ピッチが確立されるのは19世紀以降で、それ以前は国や地域、ジャンルによってさまざまな基準ピッチが用いられていた。したがって、聖ヨハネ讃歌の「Mi」が528Hzというような数値は歴史的には存在しない。さらにこの説では、「Ut, Re, Mi, Fa, Sol, La」の他の音についても、周波数を割り当てているが、これらは通常の音階を構成しない。これらソルフェジオ周波数は、歴史的証拠によるのではなく、合理的根拠のない思弁的な整数の操作から得られたもの(Wikipedia English のPreston toroidal scaleの項参照)。したがって、少なくとも西洋音楽史の観点からは、この「ソルフェジオ周波数」は珍説、奇説というべき。また、このような歴史的背景はさておき、528Hzの音にDNAを修復する作用があるかどうかは、科学的実験によって検証可能だろう。なお、Wikipedia Englishの「Soleggio frequencies」の項では、この説を「疑似科学 pseudoscience」としている。
関連ページ:
Wikipedia English> Solfeggio frequencies
Wikipedia English> Preston toroidal scale
(2012.9.10加筆修正)
モーツァルトのピアノ・ソナタ ハ長調 KV545は、技術的にはそれほどむずかしくないが、それだけに、おざなりに弾いてしまうとつまらなくなるし、あまり感情移入し過ぎても、仰々しい感じになる。この曲に限ったことではないが、シンプルな曲を音楽的に、きちんと弾くのは意外とむずかしい。
このシリーズでは、以前にグールド、ピリス、プレトニョフ、インマゼールの演奏を紹介したが(bcc: 044)、今回は、その後、筆者が入手した3人の演奏を聴き比べてみよう([ ]内は録音年)。
◎H.ドレフュス/モーツァルト:ピアノ・ソナタ選(2)
(DENON COCO-7616)[1990]
◎A.シフ/Mozart: Klavierwerke
(DECCA 433 188-2 / ISM 91/3)[1991]*
◎J.ベッカー/Sonate Facile- Sonaten für Hammerklavier
(Capriccio 10415)[1993]
今回の3人は、現代のピアノではなく、いずれも18世紀〜19世紀初頭のフォルテピアノ(ハンマーフリューゲル)を使用している。
ドレフュスが弾いているのはヨーハン・シャンツェが1790年頃に製作したフォルテピアノのコピー。シフが弾いているのは、1780年頃のフォルテピアノで、モーツァルトが晩年の5年間、弾いていたと伝えられる楽器。ベッカーが使っているのは、ブロートマンが1810年に製作したフォルテピアノ。
これら3台の楽器は、いずれもハイドンやモーツァルトの時代のウィーンにゆかりのある楽器だが、録音も含めて、音色面ではだいぶ異なっている。
まず、ドレフュス、音は明確だが、室内の残響はほとんど聴こえず、音は硬質。シフの演奏は、なんとザルツブルグのモーツァルトの生家で録音されたものだが、これも残響は少なく、音は硬質だ。これに対して、ベッカーの演奏は、室内の残響が多く、楽器の音もやや、柔らかい。
また、この3台の楽器、いずれも現代の12平均律ではなくて、中全音律系の古典調律法を採用しているようだが、ドレフュスの楽器がもっとも平均律に近く、ベッカーの楽器がもっとも平均律からの偏差が大きいように聴こえる。
演奏そのものはどうだろう。まず、最初に考慮しておかなければならないのは、ドレフュスとベッカーはチェンバリストで、シフはピアニストだということ。
チェンバリストには独特の弾き方がある。チェンバロという楽器は、個々の音に強弱を付けることができないため、演奏が平板になりがち。クレシェンドやディミニュエンドをピアノのようには表現できない。そこで、しばしばチェンバリストは時間的な要素のコントロールでクレシェンドやディミニュエンドを表現する。つまり、微妙な間合いの変化や「タメ」によって、あたかも強弱が漸進的に変化しているかのような効果を出すのだ。
これは、ピアノでやると「粘っこい」感じになることがあるが、チェンバロでは大変効果的で、表情が豊かになる。ドレフュスもベッカーも、フォルテピアノを弾いても、このチェンバロ的な弾き方が感じられておもしろい。間(ま)の取り方が非常にデリケートなのだ。特にベッカーの演奏が著しい。
これに対して、シフは現代のピアニストだ。この演奏家としての基本的な違いが、フォルテピアノの演奏にも反映している。シフは、ドレフュスやベッカーよりも速いテンポで、あっさりと演奏している(特に第2楽章)。
さすがにタッチのコントロールは巧みで、演奏は完璧だ。しかし、モーツァルトの使っていたピアノを用いているとはいえ、演奏はあくまで「現代のピアニストの」という感じがする。
さて、この3人の演奏、聴く人によって、受け止め方はかなり異なるだろう。チェンバリストがフォルテピアノで弾いたものと、ピアニストがフォルテピアノで弾いたものとの違いも大きいが、同じチェンバリストでも、ドレフュスとベッカーはまた大きく異なっている。
たとえば、ベッカーの演奏は、テンポの微妙なゆれが「表情豊か」に感じられるかもしれないが、逆にちょっと「やり過ぎ」に感じられるかもしれない。他方、シフの演奏は「端正ですっきり」と感じられるかもしれないが、逆に「素っ気なく物足りない」感じにもなり得るだろう。ドレフュスは、ベッカーとシフの中間だ。この3人の演奏、それぞれに特徴があり、甲乙つけがたい。
いずれにせよ、フォルテピアノによる演奏もこれだけいろいろ出てくると、やはり演奏者の個性、力量が問われる。「歴史的楽器で演奏しました」というだけでは、もう珍しくない時代になった、ということだろう。
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*このCDは、ザルツブルグを訪れた知人から、おみやげとしてもらったもの。通常の輸入CDのルートには乗っていないようだが、銀座松屋のミュージアム・グッズのコーナーで販売しているのを見かけたことがある。
関連ページ:
bcc: 044 どのモーツァルトがお好き? /ソナタ ハ長調 K. 545 の演奏さまざま
ひとくちに「編曲」といっても、いくつかの類型がある。
まず15世紀以前には、独立した器楽曲というのは舞曲以外にはほとんどなく、多くの場合、声楽曲(合唱曲)を編曲して演奏していた。器楽が独立して書かれるようになるのは、およそ16世紀以降のことだ。
また19世紀には、交響曲やオペラ序曲などの管弦楽曲をピアノ・ソロや連弾に編曲したものが流行した。まだレコードもCDもない時代には、自宅で音楽を楽しむためには、演奏家を雇うか、自分で演奏するしかなかったが、よほどの金持ちでない限り、オーケストラを雇うわけにはいかないから、多くの市民は、管弦楽曲のピアノ編曲を自分たちで弾いて楽しんだのだ。
この種の編曲ものの連弾楽譜は現在も出回っているが、本来の目的、つまり管弦楽曲を自分で弾いて楽しむ、という意味合いは薄くなっている。いうまでもなく現在では、多くの管弦楽曲をCDで聴くことができるからだ。
これらの編曲は、いわば大規模なものを小規模に編曲するわけだが、小規模なものを大規模に編曲する場合もある。典型的な例がムソルグスキーのピアノ曲をラヴェルが管弦楽に編曲した《展覧会の絵》だ。この曲など、現在ではピアノの原曲よりもラヴェルの編曲の方が有名になってしまった。
今回紹介するのは、同じくピアノ曲の管弦楽編曲*。編曲したのは指揮者として有名なストコフスキー(1882-1977)だ。
まず、バッハの《トッカータとフーガ ニ短調》。この編曲は、ディズニーのアニメ《ファンタジア》にも登場するのだが、低音の弦のトレモロなど、ちょっと「おどろおどろしい」感じもするし、表情の付け方がおおげさで、オルガンによる硬質な響きとはだいぶ趣きを異にしている。
ベートーヴェンの《月光ソナタ》第1楽章。3連符の伴奏音型は、弦で演奏されると音が減衰しなくなるので、これまた、だいぶ趣きが変わる。筆者には、全体が原曲よりも暗く感じられるから不思議だ。主旋律もピアノよりも叙情的。
ショパンの《前奏曲》ホ短調。主題を演奏する弦の響きが切なく、感傷的な気分になってしまう。
ドビュッシーの《月の光》。ハープやチェレスタも入り、なんとも幻想的な雰囲気。スメタナの《モルダウ》の中間部のようになる。前述の《月光》の1楽章もそうだが、月の持つ神秘的な(あるいは人を狂わせる)側面が強調され、ちょっと怖さを感じるほどだ。
ドビュッシーの《沈める寺》。これもまた、おどろおどろしく始まる。やがて音楽が高まると同時に、管弦楽の響きも色彩豊かになり、ついには壮大な交響詩、といった雰囲気になる。空虚5度が用いられるなど、もともと東洋風の響きの聴き取れる曲だが、筆者にはどこかロシア民族主義にも感じられる。
ラフマニノフの《前奏曲》嬰ハ短調。よく知られた小品だが、ストコフスキーの手にかかると大きく変身してしまう。もともとピアノで弾いてもドラマティックな曲。それをフルオケでやるのだからたまらない。
前半は弦を主体に静かに進むが、後半では金管も加わって盛り上がる。ラストはチャイムも加わって、遠く弔いの鐘が鳴りわたっていく冬のロシアの平原を思わせながら終わる。たった5分弱だが「雄大さ」を感じさせる編曲だ。
これらの編曲を聴いて、筆者は考え込んでしまった。
まず、ピアノ曲は一見、地味だが、実際には相当密度が高い、ということ。管弦楽曲のピアノ編曲は、どうやってみても原曲のスケール感や色彩感を表現することはできないが、ピアノ曲を上手に管弦楽に編曲すると、隠されていたものが明確になる、といってもよいだろう。
しかし、それ以上にショックだったのは、作品のアイデンティティの問題。このCDのいくつかの編曲を聴いていると、もう原曲と同じ曲とは思えなくなってしまう。ストコフスキーは、原曲をいったん自分の中にのみ込み、それを「素材」として、自分の個性を付与して、まったく別の音楽を新たに生み出している。つまり、これはもう新しい作品を「作曲した」といってもよいのである。
別の見方をするなら、このストコフスキーのようなレベルでの「編曲」というのは、音域別に安直に楽器を割り振って楽譜を書き直すようなことではなく、高度の音楽性を要求される創造的行為なのだ。
このストコフスキーの編曲、人によってはあまりにもロマン主義的、表現過剰、と感じるかもしれない。ラフマニノフの《前奏曲》など、ある意味では、笑ってしまうほどおおげさだ。
しかし、このCDは、特にピアノを弾く人やピアノ音楽ファンには大いに興味深いものになると思われる。おそらく、これらの曲の聴き方、捉え方が大きく変わることだろう。
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*Stokowski Transcriptions / Sawallisch (EMI 7243 5 55592 2 7)
しばらく前、アメリカの救急病院を舞台にした連続テレビドラマ『ER』がNHK衛星放送で放映された。これは、とんでもなく忙しいドラマ。救急病院を舞台にしているから、忙しいのは当然といえば当然なのだが、複数のストーリーが同時に並行して進むので、場面転換の速さとあいまって、あれよあれよ、というまに進行していく。このドラマに限らず、最近のアメリカのテレビ・ドラマや劇場映画は概して「テンポ」が速い。
さて、改めていうまでもないことだが、音楽にとって、テンポというのは非常に重要だ。同じ曲でも、テンポが違えば、その印象は大きく変わる。そもそも速い演奏は聴いていて退屈しないし、爽快でもある。
もっとも、音楽性のなさを、ただ単に速いテンポでゴマ化してしまう、という場合もあれば、素人向けにプロのテクニックを印象づけるために速いテンポで演奏することもある。本当の名手というのは、ゆっくり演奏しても聴き手を退屈させないだけの表現力を持ち合わせているようにも思える。
いずれにせよ、ある曲を演奏するとき、どのようなテンポ設定をするかは、演奏者に課せられた大きな課題だ。これは、古い音楽になればなるほど、むずかしい。
たとえば、かつては15〜16世紀の合唱曲、特に教会音楽は、非常にゆっくり歌われる傾向があった。これは、当時の演奏様式に対する認識不足だけではなく、楽譜の読み方にも問題があった。
この時代の音楽は、基準拍が現在の2分音符(棒の付いた白音符)で書かれていたため、現代譜に書き直すときにも、2分音符を基準として、4/2拍子、3/2拍子で書くことが多かった。で、こうした楽譜を見ると、2分音符、全音符、さらには2全音符が多いので、4分音符を基準拍にしている現代の感覚からすると、ゆっくりしたテンポの曲に見えてしまう。このため、パレストリーナやラッソの合唱曲はゆっくり歌われていた、と誤解されたのだ。
しかし、よく考えてみれば、4/2拍子の曲を2分音符=120で演奏すれば、4/4拍子の曲を4分音符=120で演奏するのと同じテンポになる。
そのため、やがて基準拍を4分音符にした楽譜が出版されるようになり、それに伴って、これらの曲も、以前よりは速いテンポで演奏されるようになってきている。
では、現在の記譜法がほぼ確立された17世紀以後の作品の演奏についてはどうか。メトロノームが登場したのはベートーヴェンの時代。しかしそれ以降でも、すべての作曲家がメトロノーム表示を書いたわけではないので、作曲家の意図したテンポや当時のテンポがわからないことの方がむしろ多い。
そこで、今回紹介するのは、このテンポの問題について考えさせらるCD。ロジャー・ノリントンが指揮する、ワーグナーの管弦楽曲集だ*。
このCDの解説の中でノリントンは、「テンポ」という項目を設け、「ワーグナーの作品は、概して遅く演奏される傾向にあり、生前のワーグナー自身がこの点について不満を表明していた」という主旨のことを書いている。
この見解に基づき、ノリントンは、ワーグナーの序曲や前奏曲を全般的に速いテンポで演奏しているが、中でも楽劇《トリスタンとイゾルデ》前奏曲は驚異的だ。
ノリントンはこの曲を6分59秒で振っているが、これは従来の一般的な演奏と比べると、ほぼ倍の速さといってよい。たとえばショルティの録音(1977年)では、11分50秒かかっているからだ。
この曲、とりとめなく延々と続くところが「トリスタンとイゾルデの解決しない愛を象徴して云々」などと言われることがあるが、ノリントンの演奏では、ふたりがスロー・ワルツを踊っているような感じになる。このテンポ設定、少なくとも、退屈せずに聴けることだけは確か。
「トリスタン和声」といわれる複雑な半音階的和声が、速いテンポで聴くと、すっきり見通しがよくなってくるのも面白い。
もちろん、音楽は常に演奏家によって再創造されるものであり、テンポの設定も、演奏家の創造行為のひとつ。作曲家が意図したテンポを守る必要はない。ゆっくりしたワーグナーがあってもよい。しかし、同様に、アップ・テンポのワーグナーがあってもよいのである。
問題なのは、いつのまにか《トリスタンとイゾルデ》前奏曲をゆっくり演奏することが定着してしまい、誰も疑問を抱かなくなり、それが唯一絶対の演奏方法であるかのようになっていくという現象。無批判にワンパターン化、ステレオ・タイプ化していく傾向には、常に警戒を怠ってはならないだろう。
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*Wagner: Orchestral Works. Norrington. (EMI 7243 5 55479 2 7)
bogomil's CD collection 071-080
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