※このページは以下の10編のエッセイを収録しています。
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イタリア語ではチェンバロ cembalo、英語ではハープシコード harpsichord、フランス語ではクラヴサン clavecinとよばれる楽器、実際に演奏してみると、なかなかおもしろい楽器だ。
とはいえ、ピアノに取ってかわられて、20世紀初頭まで忘れられていた、という事実に目をつぶるわけにはいかない。まず最初に、その長所と短所について確認しておく必要がある。
チェンバロの最大の欠点は、何といっても、ピアノのように個々の音に強弱をつけられない、ということ。キーを強くたたいても、弱くたたいても、出てくる音の強さはほとんど変わらない。だから、クレシェンドやディミニュエンドの微妙な変化はつけられない。
第2の欠点は、同時に複数の音を出すと、いやな音がすること。グシャ、という感じになる。だから、チェンバロでは、和音はアルペジョで、ずらして弾かなければならない。こんなこともあって、ベートーヴェン以降のピアノ曲をチェンバロで弾くと、悲惨だ。当然、ショパンなど、ロマン派の作品もダメ。ピアノ曲で演奏できるのは、モーツァルト以前のものに限定される。
しかし、以上の欠点は、たとえばバッハの鍵盤作品を弾く上では、全く問題にならない。というよりも、むしろ、ピアノで弾くより、ずっと楽で、しかも効果的とさえいえる。
まず、チェンバロはピアノに比べればタッチが非常に軽いので、弾きやすい。特に、装飾音符、トリルが楽に弾ける。しかも、前述のように、タッチの強弱にかかわらず、出てくる音は均質だから、トリルの粒がそろって、きれいに聴こえるのだ。また、フーガのような、各声部が同等の音楽にも適している。指を均等にするためにハノンをさらう必要はない。
このため、手の小さい子供でも、無理なく演奏できる。適切に指導すれば、おかしなクセがつくこともない。バッハのインヴェンンションなど、ピアノで弾くよりはるかに簡単だし、よい楽器を使えば、優雅な響きで楽しむことができる。当然のことながら、タッチが軽いのでアップ・テンポでの演奏も容易だ。
さらにチェンバロには、日本の住宅事情にマッチした面がある。ピアノに比べて音のエネルギーが小さく、しかも基音よりも倍音が強いために、華やかに聴こえるわりには、周囲に音が広がりにくい。チェンバロは数千人規模のホールでは使いものにならないが、せいぜい4畳半から10畳程度の、一般的な日本の住宅の部屋では充分な音量を持っている。
しかも、弦の張力が弱いために、マンションなど集合住宅でも、音が床を伝わって離れたところで聴こえることもほとんどない。だから、夜でも気がねなく演奏できる。
さらに、チェンバロは室内家具としても、美しい。17〜18世紀の楽器を復元した歴史的モデルでは、大理石を模した塗装がなされていたり、蓋の裏や響板に美しい絵が描かれていたりして、目を楽しませてくれる。
楽器の形状、大きさもさまざま。矩形のヴァージナルや、ベントサイド・スピネットは小さく、部屋のすみに簡単に置ける。重量も、小型のものなら20〜30kgだから、大人2人で移動可能だ。2段鍵盤の大型チェンバロでも、長さは2.3~2.5 mと長いものの、横幅は1m以下と狭く、また重量も60~70kgでアップライト・ピアノよりも軽いから、床の補強なしで置ける。
かつては、調律がやっかいだった。おおまかにいって、1週間に1回は調律する必要がある。だから、チェンバロの場合は、自分で調律しなければならず、まず調律法を修得するのが大変だった。しかし、現在では、電子チューナーで簡単に調律できる。
もちろん、30分から1時間くらいの時間と手間はかかるが、慣れてしまえば、それほど苦にならないし、自分の楽器を自分で調律するのも、考えようによってはいいものだ。
さて、もちろん、チェンバロで弾く音楽はバッハだけではない。簡単に弾けて、しかもチェンバロ独特の美しい響きが楽しめるのは、17〜18世紀フランスのクラヴサン音楽。ダングルベール、シャンボニエール、クープラン、ラモー、ダカン、ダンドリューなどの作品がある。楽譜やCDが入手しやすいのはF.クープランの《クラヴサン曲集 Pièces de clavecin》*。テクニック的には、それほどむづかしくはないが、優雅に上品に弾くのはむづかしい。
*François Couperin - Pièces de clavecin Skip Sempé (deutsche harmonia mundi RD77219)
《アヴェ・マリア》といえば、一般にはシューベルトやグノーの作品がよく知られているし、合唱の分野では、15〜16世紀のポリフォニーの作品もしばしば取り上げられる。もちろん、グレゴリオ聖歌にもある。
ところで、この《アヴェ・マリア》で讃えられているマリアとは、キリストの母、聖母マリアのことだが、キリストを讃える音楽よりも、その母を讃える音楽の方が広く知られている、というのは興味深い現象だ。
どうして《アヴェ・マリア》は名曲になったのか。「ヨーロッパ文化=キリスト教文化」という図式の背後には、ちょっと複雑な事情が隠されている。
歴史的に見ると、キリスト教というのは今からおよそ2000年前に、イスラエルで、イエス・キリストによって、ユダヤ教から派生したものと考えられる。ユダヤ教から見れば、キリストは教祖というよりは、ひとりの宗教改革者として位置付けた方が適切だ。そしてもし、初期のキリスト教がユダヤ人のみを対象としていたなら、今日のキリスト教はなかっただろう。
しかし、パウロ以後、キリスト教がユダヤ以外の諸民族への布教を積極的に行うようになると、必然的に当時の地中海地域の諸宗教との衝突も生じてくる。そして、しばしば、こうした衝突の結果、一見、キリスト教が勝利を得たようにみえても、実質的にはキリスト教側の変質、シンクレティズム(宗教混淆、習合)を引き起こすことも多くなった。
たとえば、「救世主」や「世界の終末」という観念は、イランのゾロアスター教にも見られるものだし、クリスマスの日、12月25日も、もともとは古代ローマの「不敗の太陽神」の祝日だったという。
キリスト教は、やがてローマ帝国の国教となり、さらにヨーロッパ全土に広まるのだが、その間に土着の数多くの宗教と対決し、あるものは吸収し、あるものは排除しつつ、かなり御都合主義的に自ら変質しながら発展していったと考えられるのだ。
さて、現在にいたるまでカトリック教会で特別な尊敬を受けている聖母マリアを、このような観点から見ると、どうなるだろう。
聖母信仰は、キリスト教の枠内で位置づけたり、聖書的に意味付けるよりも、地中海的大地母神、古代からのさまざまな女神(イシス、キュベレー、アルテミスなど)への信仰を反映したきたと考える方が妥当に思えてくる。
「幼子を抱く母」のイメージは、多くの古代宗教に認められるし、処女降誕もまた、豊穣の神、大地母神特有の神話として存在していた。
ヨーロッパで聖母信仰が隆盛を見るのは10世紀以後のことだが、これは、表面的にはキリスト教化されたはずの中世ヨーロッパにおいて、民衆レベルでは古代からの宗教、とりわけ女神信仰がしぶとく生き残り、教会側でも、それを聖母マリア信仰に習合させることで、容認せざるを得なかった、と見ることができる。
カトリック教会は、あくまで「聖母マリアは神ではなく被造物」としながらも「天使よりも勝る」とし、「聖母マリア自身も原罪なく生まれ、その肉体は朽ちることなく昇天した」という特権的な地位を与え、「聖母に祈れば、キリストに取り次いでもらえる」という教義を設定して、本来キリスト教とは異質の「女神信仰」を事実上、容認したのだ。
その結果、聖母や、聖母と幼子イエスを描いたおびただしい数の絵画、彫刻が作られ、音楽においては、さまざまな作曲家が《アヴェ・マリア》をはじめとする聖母への音楽を作曲することとなった。
ここで典型的な例として、ジョスカン・デ・プレの4声の《アヴェ・マリア》を聴いてみよう*1。タリス・スコラーズの極度に静穏で澄み切った響きから醸し出される雰囲気は、聴きようによっては母性的包容力にも感じられる。この意味では、この曲はキリスト教の聖歌というよりは「マリア教」の、すなわち女神信仰の聖歌といってもよいくらいだ。
さて、このような聖母信仰の容認が、一歩間違えば、キリスト教の本質を脅かすものであることは容易に想像できる。結局のところ、人々は、建前ではキリスト教の枠内にありながら、実質的には聖母マリアを古代からの女神に重ね合わせて、あるいはすり替えて崇拝し、祈ったからだ(このような「神様のすり替え」は、徳川幕府時代に迫害されたキリシタンに認められるし、今もなお、中南米の黒人社会や、ペルー、ボリビアのインディオの社会などに認められる)。
現在でもカトリックが支配的なイタリア、フランス、スペイン、ドイツ南部、オーストリアでは、引き続き聖母マリアが崇敬されているし、19世紀に入っても、フランスのルルドなどに聖母マリアが出現した、という奇跡が起こっている(キリストではなく、聖母マリアが出現した、という点に注目するべきだ)。
これは、本来的に人間が母性的な神への希求を持っていることを示しているといえなくもないが、やはりキリスト教以前に、これらの地域に女神信仰が存在していたこと、それが現在もなお存続し続けていると解釈する方が妥当に思える。
他方、ルターに代表されるプロテスタント諸派の多くは、彼らが考えるところの「本来のキリスト教」に回帰しようとして、聖書中心主義を唱え、聖母マリアに関しては、特別な信仰の対象としない、という態度をとった。
プロテスタントは厳格なユダヤ=キリスト教的な男性神の原理、絶対的な一神教の原理を徹底させようとするために聖母信仰を後退させたのである。しかし、プロテスタントの一部にも聖母信仰を復興させようという立場もあり、話はややこしくなっている。
いずれにせよ、啓蒙主義時代を過ぎると、カトリックであれ、プロテスタントであれ、その精神的な支配力は弱体化し、キリスト教は衰退していく。それに応じて、聖母マリアに混淆して生き延びてきた古代の女神も、魔女*2も、微妙に姿を変え、最終的には文学という、虚構であることが了承されている世界で、かろうじて生き延びることになる。そして音楽の主流もまた、教会からは離れて、「世俗音楽 secular music」として発展していくことになるのである。
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*1:The Tallis Scholars/ Christmas Carols and Motets
Gimell CDGIM 010
[注]
*2:被征服民族の神は、しばしば悪魔や怪物として征服民族の宗教体系に取り込まれるという。ヨーロッパ中世の魔女現象は複雑な背景を持つが、ひとつには、古くから薬草を扱ったり、占いをしたり、産婆の役を果たしてきた女性たちが、教会から敵視されて魔女の烙印を押されたという指摘がなされている。この問題については、上山安敏著『魔女とキリスト教』(人文書院)に詳しい。
【追記】
カトリック教会には、聖母マリアの母親もまた、男性との交わりなくマリアを懐妊したという教義がある。これは「無原罪のおん宿り」と呼ばれる。つまり、マリアはアダムとイブの堕罪以来、人間に不可避である原罪を免れている。このためにマリアは死ぬことはない。また老いることもない(老いは死の前兆とみなされるからだ)。このために古今東西のマリア像や絵画、ピエタ、マリアの被昇天の図像に描かれたマリアはみな「若い女性」だ。
また、マリアは生涯の終わりに死んだのではなく、そのまま、身体とともに天に上げられたことになっている。そのために、依然として目に見える身体とともに、この世界に出現できる。ルルド、ファティマに聖母が現れても、それはカトリックの教義とは矛盾しない。(2005.12)
キリスト教の祝日といえば、一般にはまず降誕祭(クリスマス)が思い浮かぶ。一般に知られている聖母の図像学的表現は、「幼子イエスを抱く母」だが、これは降誕祭に関連したイメージ。前回取り上げた《アヴェ・マリア》は、マリアがイエスの母になることを祝った内容を含んでおり、降誕祭に関連している。
しかし、キリスト教の中心部分は、キリストが十字架にかけられて死に、そして復活することによって、人類が救われた、という教義にあるから、復活祭(イースター)の方が、より重要だ。
カトリック教会では、古くから復活祭の前に、キリストの受難と死を記念する儀式が行われてきた。 このキリストの受難に関連して13世紀ごろから、「悲しみの聖母」という主題が登場する。典型的な例は、「ピエタ」と呼ばれる絵画や彫刻で、これは処刑後のキリストを抱いて、嘆き悲しむ聖母を描いている。
このピエタの音楽版といえるのが《悲しみの聖母はたたずめり=スターバト・マーテル》。ジョスカン・デ・プレ、ペルゴレーシ、ハイドン、ロッシーニ、ヴェルディ、ドヴォルジャークの作品が有名だ。これらの作品は、キリストの受難を主題としているだけに、暗く悲痛だ。
《アヴェ・マリア》を「明」とするならば、《悲しみの聖母》は「暗」。どれかひとつということなら、ちょっと感傷的だがペルゴレーシの作品を薦める。
ところで一時、「C.G.ステレオグラム」がちょっとしたブームになった。一見すると、細かい意味不明の模様だが、左右の目の視線をずらして見ると、あら不思議、立体的な図形が浮かび上がる。
ここで左目で《悲しみの聖母》を、右目でプッチーニのオペラ《トスカ》*を見ると、どんな像が浮かび上がるだろうか。
主人公は、歌姫トスカ。恋人の画家マリオは、政治犯アンジェロッティをかくまった容疑で、残忍な警察長官スカルピア男爵に捕らえらる。このスカルピアは、以前からトスカに横恋慕しており、彼女をファルネーゼ宮殿に呼びだし、自分のいうことをきけば、マリオを助けてやる、と脅迫する。
トスカはいったんは、スカルピアの要求を飲む覚悟を決める。そこでスカルピアは、マリオの銃殺の際に実弾の出ない空包を使用し、マリオは死んだふりをして処刑されたことにし、その後、トスカと逃亡する、という手筈をととのえる。そして、トスカに約束の履行を迫るのだが、土壇場で、トスカはナイフでスカルピアを刺し殺す。
翌朝、マリオの銃殺がサンタンジェロ城(古代ローマのハドリアヌス帝の墓の上に建てられた要塞)で行われるが、スカルピアの計画はデタラメで、マリオは本当に銃で撃たれて死んでしまう。恋人を失い、殺人も犯したトスカは、絶望して塔から身を投げて、幕。
ざっとこんな物語だが、トスカはマリオに対して、恋人というよりは、母親的に振舞っているように見える。トスカ役の歌手が、たいていは、結構な年齢の女性なので、余計、そう見えるのかもしれないが、トスカに助けてもらうマリオもマリオで、だらしがない。変な小細工などあてにせずに、自力で脱出するべきだろう。
まあ、それはさておき、トスカが母親、マリオが息子、とすると、ラスト近くで、処刑後のマリオをトスカが抱く場面は、まさしくピエタの、あるいは《悲しみの聖母》の構図となる。
さらにこのオペラの登場人物の役割や名称も、宗教的象徴性に満ちている。アンジェロッティは「天使」を、羊飼いの少年たちは降誕際を連想させる。聖書では、天使がマリアにキリストの懐妊を告げる(受胎告知)。つまり、喜ばしい知らせを持ってくるわけだが、このオペラの天使=アンジェロッティは不吉な役回りだ。そもそも、アンジェロッティがマリオのところに逃げてきたことが、マリオとトスカの悲劇の発端だからだ。
また、聖母は古くからしばしば「海の星」、「明けの明星」にたとえれるが、これはマリオが歌う有名なアリア《星はきらめき》に、その残響を聴き取ることができる。
さて、マリオという名前は、マリアの男性型だ。では、キリストはどこにいるのか。深読み好きの評論家ならば、トスカのフルネーム、Floria Toscaの中に、イタリア語のキリスト=Cristoの6文字がすべて含まれている、と指摘するかもしれないが、もはや、このオペラには主人公たちを救ってくれる人物=救い主=キリストは存在しない、と考えるべきだろう。
さらに、このオペラのラストは、いわば聖母信仰の反像となっている。聖母は、一切の罪、汚れを免れていた。だから、聖母マリアは死後、肉体が朽ちることなく天に「上昇」することができた。しかしトスカは、スカルピアを殺害することによって大罪を犯した。そのためにトスカは塔から身を投げる=「降下」しなければならなかったのである。
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* プッチーニ/歌劇「トスカ」(ポリドールW00Z25008/9)
「現代音楽」という言葉から何を連想するだろう。そもそもクラシックに関心のない人には、何のことかわからないかもしれない。
こういった用語の問題は意外にむずかしい。たとえば、筆者は、「邦楽」というと箏とか三味線を思い浮かべるが、最近の普通の若い人にとっては日本のロックの意味になるらしい。
「現代音楽」というのも、言葉の意味からすれば、「現代の音楽」だから、ロックだろうがニューミュージックだろうが演歌だろうが、とにかく今の音楽ならいいはずだが、実際にはそうではない。
「現代音楽」というのは、欧米の芸術音楽の中で、だいたい20世紀に作曲されたものを意味することになっている。しかし、この定義はかなりおおざっぱだ。そこで、少し狭い意味では、20世紀に作られた曲の中でも、いわゆる前衛的なもの、特に無調的な音楽の意味になる。
ところがこの定義も、20世紀を残すところあとわずか、という現在では、ピンとこない。たとえば、シェーンベルグの12音技法による作品は、今となっては後期ロマン主義に近く感じられる。
そこで「現代音楽」をさらに限定するなら、20世紀後半、あるいは第2次大戦以後に作られた作品になる。
しかし筆者は、時代がどうあれ、「現代音楽」というと「独創的な音楽」、「意表を突いた音楽」、「今までにない新しい音楽」という意味合いを期待してしまう。
伝統という美名の陰には常に因習化とステレオタイプ化、そして陳腐化の危険性が潜んでいる。そういった負の側面を破壊することには、それなりに意味があるだろう。楽器を通常の方法で演奏するのではなく、意表を突いた使い方をするのも、うまくいけばおもしろい。
ただし、これは裏を返すと「わけのわからない音楽」、「変な音楽」、「きれいじゃない音楽」という否定的なイメージに結び付きやすく、失敗したら悲惨だ。場合によってはバカバカしくてお笑いになってしまうし、後追いすると「二番煎じ」と嘲笑される。
そこで、「現代音楽を聴く」というテーマで、まず最初に取り上げるのは、チェンバロとオルガンをユニークな方法で使った作品。リゲティのチェンバロ曲《コンティヌウム Continuum》(1968年)と、オルガン曲《ヴォルーミナ Volumina》(1961/62年)。ヴェルゴからCD化されている(Gyorgy Ligeti: Continuum etc. Wergo WER 60161-50)。
いずれも、以前にLPで出ていたもので、筆者は20年以上聴いてきたから自信をもって薦められる、とまではいわないが、未だにユニークな作品であることは確かだ。
《コンティヌウム》は、減衰するチェンバロの音を持続させるために、始めから終わりまで急速なトリルで繋げてしまったところが、いわば逆転の発想。音の粒がモアレ模様のように聴こえるところがあっておもしろい。
《ヴォルーミナ》は、手の平(おそらく手袋をするのだろう)や腕で鍵盤をグジャっと押えて、さらに鍵盤上で手や腕を動かして演奏するクラスター奏法による曲。
パイプオルガンという最古の鍵盤楽器によって、神秘的で広大な、いわばSF的な、宇宙的なイメージが広がるところが不思議だ。
これに比べれば、シンセサイザーによるスペース・サウンドなど、ちゃちでうすっぺら。《ヴォルーミナ》の強烈で破壊的な響きは文字どおり、身の毛がよだつし、後半で送風機をオンオフするところは異次元の響き。オルガンの背後からエイリアンが出てくるような怖さ、ものすごさがある。
この2曲、少なくとも、それぞれの楽器の常識をくつがえしていながら、その楽器でしか生み出しえない音楽となっている点で、聴く価値のある現代作品といってよいだろう。
last updated: 2012.01.24
「音楽の3要素」とは、旋律、和声、リズムのこと。中学校の音楽の時間に教わることもある。前回紹介したリゲティの作品、《ヴォルーミナ》と《コンティヌウム》は、まがりなりにも12平均律の楽音を用いていて、この音楽の3要素が備わっていたが、過激な現代音楽の中には、この3要素が欠落しているものも多い。
アマンダ・パーカッション・グループによる「ジョン・ケージ:4分33秒」(HUNGAROTON HCD 12991)は、そんな音楽(?)を集めたCDだ。
まず、通常の意味での旋律と和声が存在しない音楽。その古典的な例が、エドガー・ヴァレーズの《イオン化》(1929〜31年)だ。(このCDの日本語解説では《イオニゼーション》)。
この作品は、13人の奏者が37種の楽器を演奏する。楽器の大部分は打楽器で、楽音を発生するのはチャイムとグロッケンシュピールだけ。しかも、旋律や和声を構成するようには使われていないから、この作品は、リズムと強弱変化で音楽が構成されていることになる。サイレンの音が、動物の鳴き声にも聴こえておもしろい。
しかしこの曲、打楽器音だけからなるにもかかわらず、リズムの推移にある種の一貫性があって、意外にまともに聴こえる。どうしてだろう?
ジョン・ケージの、打楽器とプリペアド・ピアノのための《アモール》もそうだ。プリペアド・ピアノというのは、弦にゴムや木片やボルトなどをはさんで、まともな音が出ないように「準備された=prepared」ピアノのこと。
20世紀には、バルトークやプロコフィエフがピアノを打楽器的に使うようになったが、プリペアド・ピアノはその窮極。聴いただけではピアノではなく、アフリカやインドネシアの打楽器に聴こえる。
この《アモール》や《イオン化》を聴いていると、音楽の3要素のうち、ほんとうに重要なのは、つまり、音楽を音楽たらしめている要素というのは、時間の制御、すなわち周期的リズムあるいは一定間隔のパルスではないか、と思えてくる。
さて、このCDのタイトルになっているジョン・ケージの《4分33秒》は、「窮極の音楽」というよりは「音楽の窮極」。初演はピアノ用(後に楽器は自由となった)ということになっているが、演奏会のプログラムにはまず、載ることはない。この曲を取り上げるには、かなりの勇気が必要だ。といって、テクニックがむづかしいわけではない。
実は、この作品はピアノの音を出さないのである。
筆者が記録映画で見た、ケージ自身による「演奏」とは、こんな風だった。まず、ピアノが街中の歩道上に置いてある。その周囲を何人かが取り囲んでいる。ストップウォッチを持ったケージがやってきて、ピアノのフタを閉め、時間を計り始める。そして、4分33秒後にフタをあけて、終わった、というポーズ。拍手。
そう、4分33秒間、演奏者は何もしない、つまり音を出さないのである。しかし、聴き手は何かを聴く。この場合は、街頭のさまざまな騒音が聴こえてくる。ホールではもっと静かだろうが、それでも、何か音は聴こえてくる。「そういった音が音楽だ」というのが、ケージの主張らしい。
このCDでは、本来なら極力カットされるはずのスタジオの周囲の環境音がわざとらしく収録されているが、上記のような趣旨ならば、デジタルの完全無音状態を「録音」し、聴き手がCDを再生するときには完全な無音で、そのリスニング環境に入ってくる他の音を聴くようにするべきだろう。
さて、「4分33秒」という表題も、タイプライター上で適当に決められた、という説や、これを秒になおすと273秒であって、この273というのは物理学上の絶対温度、摂氏マイナス273度を象徴している、という説がある。
この温度は、現在理論的に可能な最低の温度で、あらゆるものが凍ってしまい、すべての物理的変化が停止するのだそうだ。だから、ケージのいいたいことは、「音楽が凍ってしまった状態」すなわち「無音」ということ。
しかしまあ、どう理屈を並べたところで、普通の感覚ではこれを音楽と呼ぶのは無理がある。音楽の3要素など、カゲもカタチもない。
もっとも、下手な演奏を聴かされるくらいなら、音などないほうがまし、ということもある。この《4分33秒》をやった方がいい、と感じさせる演奏もある。
【追記】
この作品の楽譜は、ペータース版で入手できる。Edition Peters No.6777 John Cage: 4'33"( Edition Peters No.6777)は、実質1ページ。
I Tacet
II Tacet
III Tacet
と書いてあるだけ("Tacet"は「沈黙」、「音を立てない」の意)。また同じくペータース版の No.6777aは「比例記譜法によるオリジナル版」と書かれているが、ただ縦線と、時間を示す数字がいくつか記されたページが数ページ続くだけ。(1990.11)
一般にクラシック音楽というのは、後期バロックから印象派あたりまでで、バロック以前の古い音楽が聴かれないのと同じくらい、いや、それ以上に現代音楽は聴かれることが少ない。現代美術や現代文学というのも似たようなものだが、現代音楽は特に人気がないといってよいだろう。
さて、「現代音楽」というと、一般に「わからない、むづかしい、暗い」というイメージがつきもののようだ。四字熟語でいうと意味不明、複雑難解、性格暗澹。このおかげで、なかなか広い支持を得られないのが、現代音楽にとって最大の不幸といえるかもしれない。
昨今は、難しいもの、めんどくさいものは嫌われる。たとえばカメラ。昔は絞りもシャッタースピードもピントも手で合わせ、フィルムも1枚づつ手で巻き上げた。シャッターを押すまでにあちこちカメラをいじらなければならなかったが、それはそれで、結構、楽しめた。
それが、今ではシャッターを押すだけ。やがて、シャッターも押さなくてよくなるだろう。現に、拍手を検知してシャッターが切れるカメラが売られたこともある。こんな御時世だから、難解でめんどうくさい現代音楽が敬遠されるのは当然といえば当然だ。
では、「楽しい現代音楽」とか、「誰でもわかる現代音楽」というのは存在しないのだろうか。現代音楽を、「わかりにくい現代のクラシック音楽」と定義するなら、当然「わかりやすい現代音楽」というのは存在しない。つまり、「わかりにくさ」とか「耳障りな響き」を現代音楽の存在理由とする限り、現代音楽はわかりやすくてはならない、わかりやすかったら、それは現代音楽ではない、明朗で楽しいのは現代音楽ではない、ということになる。
そこで今回紹介するのは、これはある意味で「楽しい現代音楽」ではないか、と筆者が考える2曲、スティーブ・ライシュ*の《6台のピアノ》"Six Pianos"(1973)と、テリー・ライリーの《ハ音で》"in C"(1964)。アメリカのピアノ・サーカスというグループが演奏しているCDを聴いてみよう(Steve Reich/ Terry Riley Piano Circus ARGO 430 380-2)。
この2曲は、いずれも1960年代に登場した「ミニマル・ミュージック」と呼ばれるタイプの現代音楽。複数の楽器で、6〜10音程度からなる短い動機を速いテンポで反復していく音楽で、各パートの動機が少しづつ変化し、旋律的にも和声的にも微妙なズレが生じていく。この微妙な変化に注意して聴いていくと、結構、楽しめる。
《6台のピアノ》は、文字どおり、6台のピアノで演奏されるもので、このCDの演奏はなかなか気迫が感じられていい。
《ハ音で》は、53個の短い動機を、複数の任意の楽器で、任意の回数反復する、という曲。したがって、演奏ごとに違ったものとなる。この曲のタイトル"in C"は、「ハ調で」という意味にもなるが、筆者は《ハ音で》と訳してみた。これは、ピアノ奏者が高いハ音を叩き続けて、テンポを規制するメトロノームのような役割を果すことに由来すると思われるからだ。
このCDでは、グランドピアノ、アップライトピアノ、チェンバロ、ビブラフォンなど6つの楽器で演奏されていて、音色のコントラストがおもしろい。
この2曲、いずれも約20分の演奏だが、テンポが速くてノリがいいので、けっこう飽きずに聴ける。
さて、ミニマル・ミュージックの基本的なコンセプトは、おそらく、ケージのプリペアド・ピアノの作品と同様、アフリカの打楽器の音楽や、インドネシアのガムラン音楽などの民族音楽にヒントを得たものと思われる。科学技術や思想体系の面では先進的なヨーロッパ文明が、音楽の面では閉塞状態に陥って、アジアやアフリカの、ある意味で原始的な音楽文化に活路を求めるというのは、興味深い現象だ。
一方、アジアのどこぞの国では、今ごろヨーロッパ式のコンサートホールを建て、おまけにパイプオルガンまで設置して「文化、文化」と騒いでいる。これもまた、興味深い現象といえるだろう。
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*ライシュ Reichは、日本ではドイツ語式に「ライヒ」と呼ばれることが多いが、本人は「ヒトラーの第三帝国みたいでいやだ」といっているとか。本稿では、「ライシュ」と表記した。 「ライク」と表記されることもある。
音楽に使われる音階は、オクターブの中にいくつの音があるかで、いろいろなタイプにわけられる。
日本をはじめ、世界各地のわらべ歌や民謡に広く使われているのは五音音階(ペンタトニック)。「ドレミソラ(ド)」や「レミソラド(レ)」のように、半音を含まないものや、「ミファラシレ(ミ)」のように半音を含むものなどがある。
この五音音階には、2箇所、3度音程のところがある。「ドレミソラ(ド)」の場合なら、「ミソ」と「ラ(ド)」のところが、短3度になっている。この3度のところに「ファ」と「シ」の音をはさむと、「ドレミファソラシ(ド)」の七音音階ができる。これが教会旋法になったり長音階、短音階になる。
この七音音階の全音(長2度)のところに半音をはさむと、「ドド#レレ#ミファファ#ソソ#ララ#シ(ド)」の半音階ができる。16世紀イタリアのジェズアルドの合唱曲では、すでにこの半音階が用いられていて、現代音楽のように聴こえるし、バロック時代の鍵盤音楽でも、しばしば半音階的な主題が用いられている。
しかし、本格的に半音階が用いられるようになるのは、19世紀末のワーグナーやリヒャルト・シュトラウスのあたりから。これが、やがて、シェーンベルグの無調音楽、そして12音技法へと進む。こういった半音階的無調は、オクターブに12個の音があるから、「12音音階」と呼べる。いわゆる現代音楽の響きだ。
ところで、世の中にはとんでもないことを考える人がいるもので、この半音の中間にもうひとつ音を加えて、オクターブ内に24個の音を含むシステムが考え出された。この半音の半分の音程は、「四分音 quarter-tone」と呼ばれる。この四分音の考え方自体は、古代ギリシャの時代から理論的に論じられていたが、実際の音楽に使用されたかどうかは不明*1。
それが、20世紀初頭に、ついに実際の音楽作品に用いられるようになったのである。
さて、今、ここに1台のピアノがあるとする。このピアノで五音音階も、七音音階も、12音音階も演奏できる。しかし現在のピアノの音程の最小単位は12平均律の半音だから、ピアノでは、四分音を出すことはできない。
四分音が出せるピアノは、オクターブ内に24個のキーがなければならないが、これは、考えてみただけでゾッとする。「ミファ」と「シド」の間に1個キーがあり、さらにすべての黒鍵と白鍵の間にキーが増えるのだ。
しかし、ここでもまた、とんでもないことを考える人がいて、普通のピアノを使って、四分音による曲を演奏できるようにした。どうするのか。 答えは簡単。1台のピアノを通常のピッチで調律し、もう1台を四分音ずらして調律し、この2台のピアノを使って演奏するのである。
こうすれば、四分音の曲を、2つの通常の楽譜で表現することができる。四分音の音階進行なら、この2台のピアノで交互に半音階を弾けばいい。「ヴィシネグラツキー/四分音システムピアノのための作品集」(FONTEC FOCD3216)は、このようにして演奏された、四分音によるピアノ曲を収録したCD。
このCDに収められている《24の前奏曲 op.22》(1934)では、四分音の様々な可能性が試されていて、おもしろい、というかおそろしいというか、なんといったらいいか、異次元の音楽。
初めは音程の狂ったピアノを聴いているような奇妙な感じがするが、やがて耳が慣れてくると、ふつうの音楽では味わえない微妙な音程のニュアンスがわかるようになり、それなりに聴こえてくるから不思議だ。
なお、ヴィシネグラツキーIvan Wyschnegradsky (1893-1979)自身は、1台で四分音が演奏できる特殊なピアノ(3段の鍵盤を持つ)を考案して使っていた。
さて、こういった特殊な音楽は、そう簡単に一般に普及しはしないだろう。しかし、過去2000年の西洋音楽の歴史を見てみると、おおまかにいって、人間の聴覚は少しづつ、複雑な音程比になじむように変化してきているし、中近東の民族音楽では、古くから部分的に四分音に近い音程が用いられている。
だから数百年から千年くらい未来には、四分音の音楽が普通に聴かれるようになっているかもしれない。そして、そのような未来では、音大受験生は(音大というものが存在すれば、の話だが)四分音音程の楽典で四苦八苦し、四分音の聴音で悩み、四分音ピアノの指づかいに苦しむようになるのかもしれないのである。
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*1:古代ギリシャの音楽では、実際に四分音が使われていた、という説や、中世のグレゴリオ聖歌にも四分音が使われた、という説もある。
ピアノという楽器は、ピアノというくらいだから小さい音が出せるし、もちろん大きい音も出せる。「強弱の変化がつけられるので、チェンバロに取って替わった」ともいわれている。
イタリアのクリストフォリ(1655-1731)が製作したピアノの原型は、「ピアノとフォルテが出せるチェンバロ Gravicembalo col piano e forte」と名付けられていた。その後「フォルテピアノ」とか、「ピアノフォルテ」とか呼ばれるようになり、そして最終的に「ピアノ」と呼ばれるようになった。
なぜ「フォルテ」という名称にならなかったのだろう。 おそらく単なる偶然で、いつのまにか「ピアノ」になったのだろうが、歴史的にどうの、文献がどうの、ということは専門家にまかせるとして、この楽器の名称が、「フォルテ」ではなくて、「ピアノ」になったことは納得できる。
まず、デリケートな音のニュアンスがピアノの生命であるということ。これは、同じホールで、同じピアノで、同じ曲を演奏しても、演奏者によって音色がまったく異なる、ということから得た結論。演奏のよしあしは、多少個人的な好みも影響するけれども、フォルテの部分でよりも、ピアノの部分ではっきりするのではないか。
というよりも、弱い音が正確にコントロールされて初めて、フォルテが生きてくる、といえるかもしれない。
人間の聴覚などはだまされやすいものだから、弱音部を上手に演奏して、聴き手の耳を弱音に慣れさせておけば、ほんのちょっと、強く弾くだけで、感覚的あるいは心理的にフォルティッシモの効果をだすことができる。
この聴覚心理的なメカニズムについては、簡単に実験し、体験することができる(この実験をするのは、できれば、周囲の音がほとんど聴こえない深夜がよい)。どんな曲でもいいから、メゾフォルテ程度の強さの曲をウォークマンかステレオでヘッドフォンで聴いてみる。
まず、少しづつボリュームを上げていって、ちょっと大きいな、というところでしばらく聴いてみる。このときのボリュームツマミの位置が、仮に10時だったとする。次に、ボリュームを下げて、かなり小さいな、と感じるところにする。この位置が仮に7時の位置だったとしよう。
さて、これで、実験の準備ができた。まずボリューム7時の位置で、最低1分間聴く。そして、ボリュームをできるだけすばやく、10時の位置まで上げてみる。一瞬、あまりの音の強さに苦痛を感じて、ヘッドフォンを外したくなるに違いない。しかし、この10時の位置は、さっきはやや大きいけれどもそんなに強くは感じなかったボリュームなのだ。
もちろん、10時の位置でしばらく聴けば、耳が慣れて、苦痛は感じなくなる。 これが、耳の、というよりも音を知覚する感覚のメカニズムなのだ。
ボリューム7時の位置では、耳は感度を上げて小さい音でも聴きもらすまい、とする。ボリューム10時では、感度を下げて、苦痛を感じないようにする。ところが、7時から10時に急激に変化させると、この調節が追いつかず、一瞬感度が上がっている状態のままで10時の音を聴くことになるので、オーバーロードで苦痛を感じるのだ。
だから、もしピアノを弾いていて、どうもフォルテが物足りない、という場合は、無理に鍵盤をぶったたかないで、むしろピアニッシモの表現を追求するべきかもしれない。
さて、ピアノ音楽で、フォルテつまり非常に強い音、あるいは激しい音を一貫して響かせるような音楽が作られるようになったのは、20世紀に入ってからだ。
たとえば、
バルトークの
《アレグロ・バルバロ》Sz.49 (1911年)
《ピアノ・ソナタ》Sz.80 (1926年)*
プロコフィエフの
《トッカータ》Op.11(1912年)
《ピアノ・ソナタ第7番》Op.83 (1939〜 42 年)
などになって初めて、それまでのピアノ音楽のフォルテとは次元が違う衝撃的なフォルテが広範囲に実用化されたといえるだろう。
しかし、これらの打楽器的で衝撃的な音を中心とするピアノ語法は、まだピアノ音楽の主流とはなっていない。ピアノのリサイタルでは、依然としてベートーヴェンやショパンやリストたちの作品が優勢だ。これら19世紀のピアノ音楽には、バルトークやプロコフィエフの意味でのフォルテは存在しない、つまり、あくまでピアノなのだ。
* 「コチシュ/バルトークを弾く」(DENON 33C37-7813)
サティのピアノ曲といえば、まず《ジムノペディ第1番》がポピュラーだが、今回、筆者が紹介するのは、3曲の"Embryon desséchés" 。パスカル・ロジェ演奏のCDで聴いてみよう(「3つのジムノペディ/サティ:ピアノ作品集 LONDON F35L-50251)。
この曲の表題 "Embryon desséchés"は《ひからびた胎児》と訳されることが多く、このCDでもそう表記されている。ドキッとするイメージだが、これは誤解を招く表現で、必ずしも適切な訳とはいえない。
問題は"Embryon" の訳。確かにこの語には「胎児」という意味があるが、植物の「胚」という意味もある。ところで、この3曲のそれぞれには、「ナマコの d'Holothurie 」、「甲殻類の d'Edriophthalma」、「柄眼類の de Podophthalma」という題がついている。
これは、たとえば第1曲ならば、"Embryon desséchés d'Holothurie "ということ。ナマコは酢のものにしたり、中華料理でやわらかく煮込むあのナマコのことで、甲殻類とか柄眼類というのはエビ、カニの類のことだ。早い話が海産物、海の幸であって、いずれも卵生の生物だから「胎児」というのはおかしい。
筆者にはフランス語の細かいニュアンスまではわからないが、第1曲ならば、「ナマコの幼生の乾燥したもの」とか、「ナマコの卵の干したもの」という意味になるのではないかと思う。
以前、この表題を「はららごの干物」と訳したLP解説があった。「はららご(鯤)」というのはなじみのない言葉だが、魚卵のこと。この訳のほうが適切だろう。
もしかしたら、日本のカラスミのように、フランスの沿岸地方ではこういった海産物の干したものを食べるのかもしれない。
もちろん、サティがアンドレ・ブルトン風の超現実主義的な表現を意図したという可能性もあるから「ナマコのひからびた胎児」という訳を100%否定することはできない。
しかし、この「ひからびた胎児」という表題ではコンサートのプログラムには載せにくいだろう。そもそもピアニストが演奏するのを躊躇することも考えられる。もっとも「ナマコのはららごの干物」というのも曲名としてはちょっと風変わりだ。
このほか、この曲の楽譜には「歯痛のナイチンゲールのように」いった変な文章があちこちに書いてあっておもしろいが、音楽そのものも、負けず劣らず変わっていておもしろい。この曲は、数少ない「笑える曲」のひとつだ。
そもそも音楽を聴いて笑う、というのは歌詞がおかしいとか、おどけた音(たとえばトロンボーンのグリッサンド)とか、名曲のパロディーという場合がほとんど。
このサティーの「干物」の中でも、第2曲はショパンのパロディーで、原曲を知らない人には通じない。しかし、第1曲と、第3曲の最後の「エンディングのしつこさ」には理屈抜きで笑える。
特に第3曲がすごい。これは、どこかコミック・バンド風、チャップリン風の「音楽そのもののおかしさ」で、素直に笑えるのだ。
「笑える音楽」。思いつくものをいくつか挙げてみよう。曲の中で歌手が笑い続けるジャズ。曲名もズバリ、 《ラフィン・イン・リズム》 "Laughin' in Rhythm" 。シドニー・ベシェとニューオリンズ・フィート・ウォーマーズ Sidney Bechet and his New Orleans Feet Warmersによる演奏(1941年10月24日録音)だ。
最初は「ハッハッハッ」という感じで、最後は「ハーハッハッハッ、ヒーハッハッハッ」とおおげさになる。ただ、これは聴いていると気味がわるくなるかもしれない。聴き手には笑う理由がわからないからだ。理由なく笑うというのは異様だ(それでも、筆者はつられて笑ってしまうが・・・)。
もうひとつ、俳優の斎藤晴彦がクラシックに歌詞をつけて歌った曲を収めたCD『音楽の冗談』(CBS SONY 32DH463)も笑える。
中でも、メンデルスゾーンの《結婚行進曲》で披露宴の司会を歌ってしまったものと、マーラーの第5交響曲第1楽章を「結婚したけどー、離婚がー待ってたー」と歌う《離婚》が秀逸。カツァリスのショパン・ワルツの内声が耳について離れないのと同様、それ以後、この曲を聴くと自動的に斎藤晴彦のこの歌詞が聴こえてきて閉口している。
最近では、関西のお笑いタレントが、やはりクラシックのメロディーに語呂のいい歌詞を付けて歌っている。しかし、いずれも、歌詞がおかしいのであって、音楽そのものがおかしいというわけではない。
とまあ、笑える音楽をいくつか挙げてみたが、人を笑わせる、というのは意外にむづかしいもの。笑いと音楽は、どうもあまり結び付かないようだ。国民性、民族性による差異も大きい。「ホフヌング音楽祭」というのがあるが、あのユーモアの感覚は、筆者にはちょっと理解しにくい。ホフヌングの漫画ほどには、笑えないのだ。これは、やはり社会的、文化的背景の違いからくるものだろう。
ある意味で音楽はまじめ。メニューヒンは「音楽は嘘がつけない」と言ったが、音楽そのものは、人を笑わせることはできないのかもしれない。
そろそろ暑い夏がやってくる。暑いときは、どんな音楽を聴けばいいだろう。音響心理学では、高い周波数の音が涼しさを感じさせる、という説がある。風鈴のチリチリいう音とか、鈴虫の鳴き声などがそうかもしれない。
楽器でいうと、チェンバロの音。「ハープシコード」と呼ぶと、もっと涼しい感じになる。ちょっと聴いてみよう。(CD再生.......)
思ったより涼しくない。北極の氷のきしむ音とか、氷河の音でも聴かないとダメなのだろうか。いや、暑い部屋で聴けば、どんな音でも暑く感じてしまうのだろう。どうやら、発想の転換が必要のようだ。原点にもどって、考えてみよう。食べ物の場合はどうだろう。
筆者は、夏に冷や麦とか、冷やし中華をあまり食べない。むしろ、鍋焼きうどんやグラタンなど、熱い料理を食べる。
その理由。胃は、食物の温度が体温と同じにならなければ消化できない。熱い料理は、口のなかで適温まで冷まされ、胃に到達することにはちょうど体温ぐらいになっていて、すぐに消化されるので、胃の負担が少ない。
これに対して、冷たい料理は、つい喉ごしのよさで、冷たいまま、胃に送り込まれる。このため、胃は、まず食物を体温まで温めるためにエネルギーを消費しなければならず、結果として胃の負担は大きくなり、これがひいては消化不良や食欲不振に通じるのだ。
飲み物も同じ。日本の伝統的な夏の風物詩、かき氷。しょせん、口の中ですぐに溶けて水になるから、極端に大量に食べない限り、まず問題はない。
これに対して、シェイクのたぐいはあぶない。口に含んで、少し溶かしてから飲み込むならまだしも、あれを太いストローでゴクゴクやると、もういけない。直接、冷たいまま胃に送り込まれるので胃がしっかり冷えてしまって、しばらく、どうにもならなくなってしまう。
ということで、夏に冷たいものを食べるのは、夏バテ気味の胃にはよくないのである。
そうすると、音楽の場合も、発想を換えて、冷たい音楽ではなく、熱い音楽、あるいは暖かい音楽を聴くとよいかもしれない。音楽の熱い、冷たいを何を基準に判断したらよいのかよくわからないが、考えてみよう。
まず、思い付くのがアフリカの音楽。タンザニアのマリンバの音楽のLPを聴いてみる。いかにも灼熱のアフリカの草原のイメージだが、これが、意外と心地よい。余韻の短い、乾いた木の音は、どこかサラッとしていて、ベトつく感じがしない。同じ暑さでも、アフリカの暑さは湿度が低いからだろう。
少し、暑苦しさがやわらいだところで、今度はボサノバを聴いてみよう。ブラジルの音楽としては、サンバもあるが、サンバはどことなく荒々しいところがあって、夏バテ気味の状態で聴くには、ちょっとつらい。ヤケクソで汗をかく、というのもいいかもしれないが、ここはひとつ、洗練された軽さの点で、ボサノバは「胃の負担が少ない」イメージだ。
ところで、ジャズが、アメリカの黒人奴隷の音楽を出発点としていることは有名だが、サンバのルーツも黒人音楽だ。ブラジルは南米の国だが、ブラジルにも、アフリカから大量の黒人奴隷が投入され、独特の混血音楽文化が生まれた。
サンバはそのひとつであり、そこにジャズやアメリカのポピュラー音楽が影響して、都会的に洗練されてボサノバが生まれた。1960年ごろのことである。
サンバほどドロくさくなかったため、イージーリスニングとして世界中に広まり、今でも、BGMなどでよく使われている。
このボサノバの第一人者といえるのが、アントニオ・カルロス・ジョビン Antonio Carlos Jobim。《イパネマの娘》、《ワンノート・サンバ》、《ウエーブ》などを作曲し、自ら演奏もする。
曲名でピンとこなくても、曲を聴けば、ご存知の方も多いだろう。これらのボサノバの名曲、ジョビン自身による演奏もいいが、筆者が気に入っているのは、女性ボーカルのナラ・レオンが、シンプルなギターの伴奏で歌っているアルバム(Garota de Ipanema - Nara Lean. Philips 826 348-2)。
ごく自然な、軽い発声で歌われるボサノバの名曲は、夏に聴くと涼しくなり、冬に聴くと、暖かくなる、不思議な魅力を持つ音楽だ。
【追記】
ボサノバはイージーリスニング、BGMとして定着した感がある。2004〜05年でさえ、本稿で挙げたウエーブや、タンバトリオのボサノバをコーヒーショップで耳にした。(2005.12)
bogomil's CD collection 061-070
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