※このページは以下の10編のエッセイを収録しています。
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1700年ごろイタリアで生まれたピアノは、およそ300年のあいだに、大きく変化してきた。音域と音量の幅(ダイナミック・レンジ)は拡大され、また急速連打性能が向上し、音色はより輝かしくなった。このような技術的な面では、ピアノの歴史は、確かに「発展の歴史」、「進歩改良の歴史」だったかもしれない。「現代のピアノは完成の域に達している」ともいわれている。
しかし、これはあくまで、進化のひとつの帰結に過ぎない。もし、周囲の状況が異なっていれば、ピアノは別の進化の道をたどったかもしれないのだ。
たとえば、「表現力の拡大」という問題。18世紀初期には、この要求はあまり顕著ではなかった。ハイドンやモーツァルトのピアノ・ソナタがよい例で、チェンバロでも演奏可能なスタイルで書かれているものも多い。これは、当時まだチェンバロが相当数、使われていたことに加えて、大音量のピアノが要求されていなかったからだ。
これが、ベートーヴェンのソナタになると様変わりして、より激しい表現が要求されるようになる。しかし、ピアノ会社はベートーヴェンの趣味に合せて音量の増大をはかったわけではない。ピアノが大音量化したのは、経済的必要性からだった。
器楽の分野で公開演奏会、つまり、お金を払ってチケットを買えば誰でも聴くことのできる演奏会が普及するのは、18世紀からのこと。こういった演奏会で収益を高めるには2つの方法がある。ひとつは、1人あたりの料金を高くすること。しかし、あまり高くすると敬遠されてしまうから、これには限界がある。
もうひとつの方法は、聴衆の動員数を上げること。1人あたりの料金は低額でも、1回の公演で多くの聴衆を集めれば、収益は上がる。しかし、多数の聴衆を集めるための演奏会場が確保できたとしても、そしてその公演に多数の聴衆が集まったとしても、楽器の音が聴こえなければ、演奏会は成り立たない。
現在では電気的増幅(PA)という手段があるが、19世紀にはまだなかった。そのために当時のオペラ歌手はグロテスクなほどの発声技術で大声を張り上げ、管弦楽団は人数を増やし、そしてピアノは鋼鉄の弦を何トンという張力で張って、強い音が出せるように「改造」されたのである。
ピアノの音色も、また変化した。千人規模の大ホールともなると、音響条件も百人規模の小ホールとはまったく別物になる。大ホールでは、かなり誇張した表現をしなければ演奏が平板に、貧弱になってしまう。楽器そのものの音色も、これに関連してメリハリがはっきりしたものでなければ、使い物にならない。
このために、ピアノの音質は徐々に鋭く、きつくなっていく。ピアノの音色は、純粋に音色に対する趣味の問題で変化しただけではなく、大ホールに適合するために変化してきたという側面を持つのだ。
そこで今回は、ピアノの進化を少し後戻りして、ピアノの超有名曲、ショパンの《幻想即興曲》を、19世紀初頭のピアノで聴いてみよう。ロマン派の名曲を、Fania Chapiro が1820年製のブロードウッドのピアノで演奏したCD*に収録されている。
このピアノの響きは、現代のピアノに比べると、はるかに柔らかい響きに感じられる。ボケた音に感じられるくらいだ。しかし、これは筆者の耳が現代のピアノの鋭い音に慣れてしまっているからで、しばらく聴いていると、違和感は去り、《幻想即興曲》がまったく違った曲に聴こえてくる。
たとえば第13小節から、ずらしたオクターブで聴こえてくる「ソファミファドレミソ」がキンキンしない。そして第43小節以降の変ニ長調の主題は、のどかな、優しい気分で響いてくる。
現代のピアノで弾くと、ともすれば冷たくヒステリックに聴こえがちのこの曲が、暖かく、穏やかに感じられるから不思議だ。
ではショパン自身の演奏はどうだったのか。当時の記録からいくつかのことがわかる。たとえば、ショパンは最大でも観客が200人程度の、小規模な演奏会を好んだという。またパワーで圧倒するような演奏ではなく、微妙なニュアンスで、聴く人の心を打った、という。
これらの点からすると、今回紹介したブロードウッドのピアノによる演奏は、少なくとも音色に関しては、ショパンの意図により近いものといってよいだろう。もしかしたら《幻想即興曲》は、本来はずっと優しさに満ちた曲だったのかもしれないのだ。
----- Discography:
*Schumann Chopin Mendelssohn, Fania Chapiro (fidelio 8840)
ポーランドの現代作曲家、K.ペンデレツキ(1933〜)は、一部でちょっと「評判がよくない」作曲家のようだ。筆者は、最近の彼の動向に関しては知らないが、数年前、「金儲け主義の作曲家」として、やや批判めいた取り上げ方をしたテレビ番組を見たことがある。
わが国に限らず、どうも芸術家に対しては人格高潔、品行方正であることを求めたり、聖人君子であることを期待する固定観念があるようで、ペンデレツキに対しても「芸術家たるもの、世俗的なことは超越して、高尚な芸術に献身するべきであって、実業家まがいの金儲けに精を出すのはけしからん」という声が聴こえてきそうだ。
しかし誰でも貧乏は嫌いで、お金はほしいもの。作曲家とて例外ではない。
たとえば、晩年のバッハは教会の音楽監督、オルガニストを務めていたが、葬儀での演奏に対する報酬が重要な収入源のひとつだったという。だからバッハはあるとき「今年は死者が少なくて、収入が減ってしまった」という愚痴を友人宛の手紙に書いたそうだ。
バッハは単に雇い主から要求される音楽が室内楽なら室内楽を書き、カンタータならカンタータを書く、というプロの作曲家だっただけで、「生涯を教会音楽に捧げる」などという「崇高な意識」を持っていたかどうか、筆者は疑問に思っている。
ベートーヴェンも金銭的な面では細かい人物で、第九の初演が思ったほどの収益を上げなかったとき、「誰かがネコババしたんじゃないか?」と、本気で疑っている。
作曲家といえども人間。カスミを食べて生きていけるわけではないのだ。筆者は別にペンデレツキをかばうつもりはないが、作曲家が金儲けに精を出したとして、それはとやかく非難すべきことではないと思っている。
さて、ペンデレツキの代表作といえば《広島の犠牲に捧げる哀歌》(1960)だが、田村進著の『ポーランド音楽史』(雄山閣、昭和55年)には、この曲の成立事情について、以下のように記されている。
「これはフィテルベルク作曲コンクールに提出するため、2日間で書きあげたといわれ、当初は単に『8分37秒』として書いたが、演奏時間が8分26秒に短縮されたため、『哀歌、8分26秒』と名づけられ3位に入賞した。この曲を録音したレコードを、1961年5月のユネスコ国際トリビューンに提出しようとしたポーランド放送のヤシンスキが、この題名では不適当と考え、ペンデレツキと相談して、現在の名に変えたのである。」(208〜9ページ)
この記述からすると、もともと、この曲は広島とは縁もゆかりもないもので、あとから表題を適当に付けた曲、ということになる。で、それは果たして非難されるべきことなのか。ペンデレツキがまず広島の悲惨な出来事に思いをいたし、何年も構想を練って作曲したのならよかったのか。「たった2日」で書いた曲に、あとから「広島」のタイトルを付けることは許されないことなのか。
そもそも表題(標題)はどのようにして付けられるものなのだろう。まず先になんらかの文学的あるいは絵画的イメージがあって、それを音楽で表現すべく作曲する、というのが常識的な考え方かもしれないが、実際にはそれほど単純ではない。
たとえばシューマンのピアノ曲。有名な《子供の情景》などの標題は、作曲されたあとから付けられたものだ。シューマンはまず曲を書き、その曲に対して「たとえばこんなイメージ」ということで標題を書いたのだ。
だからペンデレツキの場合、あとから《広島…》という題を付けたことをもって非難するのは、いささか筋違いというものだろう。
広島、そして長崎の原子爆弾投下という想像を絶する出来事に対して、ありきたりの音楽、とりわけ感傷的な音楽はふさわしくない。
あの閃光の中では、どのような音楽も存在できないだろう。この意味では、広島と長崎に対して、音楽家はむしろ自分の無力さをかみしめながら沈黙するべきだ。
しかし、強烈な音の衝突と異様な響きからなるペンデレツキの《広島…》は、広島の悲劇の聴覚的な象徴として解釈することは充分可能だ。
作曲家の人間性やら成立事情は、音楽そのものには何の痕跡も残さない。言い方を変えるなら、音楽だけを聴いて、その作者や演奏者の人間性を理解することなど、本来、不可能だ。私たちは、単に「解説」などの言語情報によって、ある種の先入観や後知恵を持つに過ぎない。
聴き手にとって重要なのは、誰が、どんな意図で作ったか、ではなくて、自分がこの曲を《広島の…》という表題を持つ音楽としてどのように聴くことができるか、この音楽によって何を触発されるか、ということなのだ。
筆者としては、今後もこの曲を《広島の犠牲に捧げる哀歌》という表題で聴いていきたい。たとえ話題作りのために、いい加減に表題がつけられたとしても、また作曲者が金儲け主義のイヤな人物だったとしても。
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*Penderecki: Threnody for the Victims of Hiroshima / Viola Concerto (Conifer CDCF 168)
バッハの《イタリア協奏曲》BWV971はちょっとユニークな作品。様式から見ると、この曲はイタリアで発達したバロック時代の協奏曲を、鍵盤楽器の独奏曲に転用したもの。つまり1台の楽器で、ソロとオーケストラのかけ合いを表現するわけだ。
ところで、バロック時代の協奏曲は、まず合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)の形で登場した。これは、たとえば、第1ヴァイオリンからひとり、第2ヴァイオリンからもひとりの独奏者が独奏楽器群(コンチェルティーノ)を形成し、合奏全体(リピエーノ)と交互に演奏していくものだ。
そしてこのような合奏協奏曲の中に、やがて、ほんとうに独奏者ひとりがそのテクニックを披露するような部分が現れる*1。これが、独奏協奏曲(ソロ・コンチェルト)のはじまりで、古典派以降の協奏曲へとつながっていく。
こういった背景は《イタリア協奏曲》に書かれているフォルテforteとピアノpianoの解釈を考える上で重要な意味を持ってくる。これらの記号は、おそらく現在の意味での強弱記号ではないのだ。
バッハのオルガン曲以外の鍵盤作品をチェンバロで演奏することが一般的になるにつれて、この曲に記されたfとpは、2段鍵盤を持つチェンバロの鍵盤を指示している、といわれることが多くなってきた。fが下段の鍵盤で、基本となる鍵盤、pが上段の鍵盤で音色が微妙に異なる。また下段には4フィートレジスターが備えられることが多く、基本の8フィートと4フィートを使用すると華やかな音になる。
この曲をチェンバロで演奏する場合は、この2段鍵盤の使い分けでソロとトゥッティを表現できるが、ピアノで弾く場合はちょっとむずかしい。チェンバロの2段鍵盤の対比は、音量よりは音色・音質にかかわるもので、これをピアノで表現することは無理*2。
では、どう考えたらよいのか。協奏曲の本来の姿を思い浮かべてみよう。協奏曲の中では、独奏と合奏全体のバランスが、曲の中で、どのように変化していくのだろう。
基本的に、合奏全体は、リトルネロ主題を演奏するような総奏(トゥッテイ)の部分では、はっきり、強い音で演奏するが、独奏(ソロ)の伴奏をするときには、かなり弱い音で、バックグラウンドで演奏するはずだ。このとき、独奏の音は、決して強いものではないが、しかし、明確に前面に出て聴こえてこなければならない。
このことを踏まえて、《イタリア協奏曲》をピアノで演奏する場合は、fは合奏全体を、pは独奏を意味するもの、と解釈するべきだ。そして、もしfが、リトルネロ主題を合奏全体が演奏するような部分に適用されているなら、これは基本的に本来のフォルテ、つまり強い音で演奏してよい。
しかし、もしある旋律にpの指定があり、他の旋律あるいはパッセージにfの指定がある場合には、pの方を明確しに、fの方は伴奏としてバックグラウンドで演奏するべきだ。この場合には、音量的にはpの付された旋律が強く、fの付された旋律が弱くなる、という逆転現象もあり得る。
たとえば第3楽章の25〜28小節。ここでは右手の8分音符の進行がソロで主旋律、左手の4分音符の動きは和声的な伴奏音型だ。したがって、ここでは全体的に音量は小さくなり、右手は明確に、そして左手は控え目になるか、あるいは右手と左手が対等に競いあうように演奏するべきだろう。
ところが、ここで左手を強く弾くピアニストもいる。特にカツァリス(1994)はほとんど右手が聴こえないくらいに左手を強く弾いている。シフ(1991)も左手がかなり強い。ブレンデル(1976)も、差は小さいものの、やはり左手が強く聴こえる。
そういう演奏解釈だ、といわれればそれまでだが、どうも筆者は納得できない。この部分、4分音符の進行を強調すると、ソロの部分で伴奏が前面に出ることになり、これは協奏曲として奇妙な状況であるばかりか、仮にこの曲を純粋なピアノ曲と見た場合にも、音楽が不自然に感じられるからだ。
グールドの演奏(1959年録音)では、この部分は右手を強調している*3。そして右手と左手の音型が逆転する29〜32小節では、今度は右手の4分音符の進行を強調して弾いている。筆者には、この解釈の方が適切に感じられる。
《イタリア協奏曲》のfとp、バッハの意図も今となっては完全にはわからない。一般的にいってバッハをピアノで演奏する場合、当時の演奏習慣(たとえば装飾記号の解釈)やら、歴史的背景にこだわりすぎると音楽が息苦しくなることもあり、最終的には演奏者の「よい趣味」にかかっている。
しかし、それでもこの曲の場合は、バッハの時代の協奏曲の歴史的背景を理解した上で、fとpを解釈していくべきだろう。 まさか、シフやカツァリス、バッハが書いたfとpをそのまま強弱記号として適用した、などということはありえないと思うのだが。
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*1:ヴィヴァルディの《四季》や、バッハのブランデンブルグ協奏曲の2、4、5番には、合奏協奏曲の側面と、独奏協奏曲の側面とが認められる。
*2:多くの2段鍵盤の歴史的チェンバロでは、上段の8’は下段の8’よりも、やや音量が小さく感じられる。しかし、音色の違いもあって、上段の8’が下段の8’に覆い隠されるようなことにはならない。
*3:G.グールド(29)/バッハ:フーガの技法&イタリア協奏曲. (CBS/SONY 28DC 5282)なお、この録音セッション(ニューヨークのCBSスタジオ)は、ドキュメンタリー映画"Glenn Gould: Off the Record/ On the Record"に収録されている。
このところの不況で、女子大生の就職戦線は超氷河期といわれている。不況の影響が新卒の採用に影響が出るのは仕方ないとしても、それが特に女子学生に不利な状況になる、というのはある種の男女差別だろう。
最近は、日本でも女性の社会進出が盛んになってきている。確かに働く女性は増えたが、たとえばの話、会社ではある年齢を過ぎると、女子社員はなんとなくいづらくなる雰囲気があったり、たとえ働き続けても、男子社員に比べて明らかに給与が少ない、という話も聞く。これは「女は結婚し、専業主婦となって子供を育てるもの」という考え方が根強いことを示している。
ところで、このところ女子高校生や若い女性の言葉づかいや話し方のことが、ときおり問題となる。筆者なども、女子高校生が「テメー」とか「ザケンナヨ」といっているのを聞くと確かにびっくりしてしまうが、乱暴な言葉づかいがいけないのなら、男子も同じように批判されなければならないだろう。
しかし「近ごろの男子高校生の言葉が乱れている」という批判はまず聞かない。男子なら「テメー」でも許されるのに、女子だと許されない、というのはやはり、どこかおかしい。
「女らしさ」、「男らしさ」という形容も問題だ。かつて筆者は、ソナタ形式の主題を説明するとき「男性的な第1主題と女性的な第2主題」という表現を使ったことがあった。「女性的」、「男性的」という形容を当然のこととして何の疑問もなく使っていたわけだが、最近では、「力強く、明確な第1主題と、やさしく、おだやかな第2主題」などと説明するようにしている。
気弱でやさしい性格の男性もいれば、ダイナミックな性格の女性もいるのであり、「いてよい」のである。 「男性たるもの、軟弱であってはならない」とか、「女性たるもの、しとやかでなければならない」とする社会通念は、決して絶対的なものではなく、むしろ女性を抑圧するために、男性の側(あるいは権力の側)が作り上げてきた幻想といってもよい。
社会に出た女性が家事や育児と仕事に挟まれて大きな負担を強いられるのは、このような意識の点で、まだまだ日本の社会が男女平等とはほど遠い状態にあることを象徴している。
さて音楽の世界では、男女差別はどのような状況にあるだろうか。筆者の子供の頃は、ピアノのお稽古に通うのは女子が多かった。最近では、男子もだいぶ増えてきているようだが、それでも、まだ女子が優勢だろう。日本の音大でも、概して数の上では女子学生が優勢だ。これは、音楽の分野では男女差別が少ないことを意味しているのだろうか?
いや、単に数が多いからと言って、差別がない、とはいえない。むしろ、多すぎることが問題だ。音大の女子学生のうち、どれくらいが、卒業後も音楽を「仕事」として続けていくのだろうか。結婚し、子供ができると、専業主婦になってしまう女性も多いのではないか。この問題は全く別の視点から見る必要がある。
「音大出身」の女性は、お見合いのときなどに好感を持たれる、という話を耳にしたことがあるが、これは女性が「音大で学ぶ」ということが、一部では花嫁修業的にとらえられていることを意味している。対極的に音大に男子学生が少ないのは、「音楽など、女子供(おんなこども)のやるもの」といった社会通念の反映、ともいえるだろう。とすれば、音大に女子学生が多いのは、それはそれで男女差別のひとつの表れということになる。
こんなことを考えながらクララ・シューマンのピアノ曲を聴いていたら、なんとも複雑な心境になってしまった。周知のように彼女はロベルト・シューマンの妻で、幼い頃から才能を発揮し、ピアニストであると同時に、作曲家でもあった。彼女の作品は、ロベルトの作品と比べて遜色のないものだが、にもかかわらず、未だに作曲家としてはほとんど無名だ。ここでもやはり、女性であるがゆえに不当に扱われてきた、と言わざるをえない。
今後、クラシックの「女性作曲家」にも目が向けられるようになり、クララの作品も取り上げられるようになるだろう。それはそれで結構なことだが、しかし、たとえばクララの《小品集 Pieces fugitives》 op.15のダイナミックな響きを「女性らしからぬ大胆さ」と評したり、《ロマンス》 ロ短調、イ短調を「女性的感受性の豊かさ」などと評することは厳に慎まなければならない。
ほめたつもりでも、この種の男性論理にもとづく評価は、なによりもクララと、そして女性音楽家に対する侮辱となるからだ。
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* Clara Schumann-Wieck ・ Piano Works Konstanze Eickhorst (cpo 999 132-2)
バッハの《平均律クラヴィーア曲集》(BWV846〜893)は、現在ではピアノやチェンバロで演奏されることが多い。現在発売されているCDも、ほとんどがこのいずれかで演奏されたもの。しかし《平均律》にはパイプ・オルガン(以下、オルガン)で演奏してもまた違った面白さが感じられる曲も含まれている。
たとえば、第1巻ではフーガ第4、8、12、22番など、荘厳な雰囲気のフーガはオルガン向き。当時「クラヴィーア」という言葉は、狭義にはチェンバロやクラヴィコードを意味したが、広義には鍵盤楽器全体を意味していたから、このバッハの《平均律》をオルガンで演奏することは、それほど見当外れなことではない。
そこで今回は、ルイ・ティリーがオルガンでこの《平均律》全曲を演奏したCD*(1972-75録音)から、第1巻を聴いてみよう。
まず最初に有名な前奏曲第1番ハ長調。この曲、普通はあまりオルガンというイメージはない。分散和音=アルペジョは、どちらかといえば、リュートやチェンバロの様式を思わせる。だからこの曲をオルガンで弾いたら、重々しくなって、つまらなくなるのではないか。
ところが、である。オルガンというのは、大音響も出せるけれども、非常に繊細な音も出せる楽器で、ここでティリーは木管系のストップを用いて、軽やかな、かわいらしい音色でこの前奏曲を演奏している。
ちなみにオルガンは、しばしば鍵盤が何段あるか、ストップ(レジスター)が何個あるか、という規模で比較されがちだが、これはナンセンス。オルガンという楽器は、あくまで各ストップの質、個性で評価されるべきで、単に規模が大きければよいというものではない。同じように、オルガン曲というと《トッカータとフーガ》の冒頭のような鋭く強い音色を思い浮かべがちだが、シンプルで静かな曲も多いのである。
さて、このティリーの前奏曲第1番、テンポ設定もかなり速め。チェンバロによるヴァルヒャ(1974)は2分23秒、ピアノによるグールド(1962)は2分21秒、シフ(1984)は1分54秒で弾いているが、ティリーはなんと1分10秒で弾いている。これはヴァルヒャやグールドのほぼ倍の速さで、このテンポでは、非常に軽快な感じになる。
同じことがフーガ第2、7、11、15、21番といった3声の軽やかなフーガについてもいえる。平均律の中では長い部類に属するフーガ第15番は、オルガンで演奏すると均整の取れた構造がよくわかるように思える。
前述したように荘厳な雰囲気の曲も、オルガンに適している。5声のフーガ第4番嬰ハ短調を聴いてみよう。冒頭のバスの主題(cis-his-e-dis-cis)は、ピアノやチェンバロでは音が減衰して持続しないので、ともすれば貧弱になりがち。しかし、これがオルガンで、しかも足鍵盤で提示されると、やはりなんとも重厚な響きになる。この主題が、35小節以降、8分音符を中心とする主題と組み合わされたときにも、はっきりと聴き取ることができる。
このフーガの随所に現われる繋留音も、ピアノやチェンバロでは印象が弱いが、持続するオルガンの音では、明確に「不協和」として響き、次に解決して「協和」となる効果がはっきりする。この曲は、たとえばシフのピアノでは、どこか、ひ弱で、もの悲しいイメージになるが、ティリーのオルガンでは、堅固で、荘重な雰囲気になる。
現在の日本では、この《平均律》が弾かれるとすれば、用いられる楽器はおそらく80〜90パーセント以上がピアノで、残りがチェンバロだろう。筆者の個人的好みからいえば、この《平均律》、全体としてはチェンバロが最も適していると思うが、質のよい鍵盤楽器であれば、どんな楽器で弾いても、それぞれ、何かしらの「よさ」を出せる可能性がある。
オルガン、クラヴィコード、チェンバロ、ピアノのみならず、小さな足踏み式リード・オルガンでも、シンセサイザーでも、電子オルガンでも、そして未来に出てくるであろう、未知の鍵盤楽器であっても。
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* バッハ:平均律クラヴィーア曲集/ルイ・ティリー J.S. Bach ・Le clavier bien tempere ARION ARN 468306 輸入・発売:ポリグラムIMS。
フランシス・プーランクの音楽、とりわけピアノ音楽は、気楽に楽しめる。耳にやさしい旋律、セブンスコードを効かせた和声。できのいい大衆音楽(ポピュラー・ミュージック)ともいえそうだが、どうもそれだけではない。彼の音楽には、どこかで聴き手に肩すかしをくわせる機知、遊び心も秘められている。
まず、すんなり入っていける小品。《ノクターン第1番ハ長調》*1は、いかにも近代フランス的な優美な旋律で構成されていて、イージーリスニング風に楽しめる。しかし、よく聴くと、その背後にはときおり不吉な予感とでも呼べる異質な響きが見えかくれする。
《3つのノヴェレッテ》*2。第1曲は、のびやかな旋律がリラックスさせてくれる。屈託無く、シンプル。第2曲はプーランク得意の、活発なリズムと、深刻ぶった表現が混ぜ合わされた曲。演奏テクニックの面でもおもしろい。第3曲はマヌエル・デ・ファリャの主題による叙情的な曲で、思わず感傷にひたってしまう穏やかさに満ちている。
《無窮動 Mouvement perpetuels第1番》*3は、わずか24小節の小品だが、ちょっと変わった曲。まず、この曲は軽快な変ロ長調の動きで始まる。ところが第5小節では、左手は変ロ長調のままだが、右手がハ長調という、いわゆる複調になる。音楽の流れが自然なので、筆者などはこのことを、即座にのみこめない。「ちょっと変だな」と感じるころには、音楽はもう先にいってしまって、ふたたび、右手も左手も変ロ長調にもどっている。
しかし、「あれは、いったいなんだったんだろう…」とボケっとしているヒマはない。今度は右手が変ト長調に転じる。また複調だが、今度はフォルテでくるので、調のズレはかなりはっきり感じられる。
次いで、空虚で不気味な長9度音程がでてくる。調子はずれの鐘の音かな、などと思っていると、今度は奇妙な半音階が現われる。この部分、変ホ短調の第2音と第6音を抜いた5音音階にも聴こえ、旋律それ自体がとぼけた味をだしているが、これが、あいもかわらぬ左手の変ロ長調と重なるため、頭の中では調性感がズリッとずっこけてしまう。
ここまでが反復され、再び、軽快な変ロ短調の主題が再現され、そして、謎めいた不思議な響きのエンディング。冗談をいわれて、からかわれているような、あるいは、音楽感覚をくすぐられるような、呆気にとられてしまう曲だ。
《2台のピアノとオーケストラのための協奏曲ニ短調》*4の第1楽章では、異質な様式が連続して、聴き手はあちこち、引っぱりまわされる。曲はまず、インドネシアのガムラン音楽を思わせる4度の平行進行で始まる。これに続いて、芝居がかった短調の主題が現われる。古典派のシュトルム・ウント・ドランクのパロディか、などと考えていると、突然、パリのカフェやレビューを思わせる陽気な音楽が割り込んでくる。
中間部は、レントになり、一転してロマン派のバラード調の切々とした音楽。これがなかなか深刻な趣きだが、どこか信用できない。案の定、突然テンポ・プリモで、またまたお祭り気分。そして最後に再びガムランがもどってきて、第1楽章はあっさり終る。気まぐれというか、移り気というか、翻弄されているような感じがしないでもないが、退屈せずに楽しめるともいえる。
第2楽章は、夕暮れの空の微妙な光の変化を音にしたような、叙情的な音楽。よくも悪くも映画音楽風。ちょっと甘ったるいが、筆者は理屈抜きで「なんてきれいな音楽なんだろう…」と感傷にひたりたくなってしまう。
このような異なる様式の混淆は、チェンバロ協奏曲《田園のコンセール》*5の終楽章にも現れる。ここでは、ラモーやら、ストラヴィンスキー《春の祭典》やら、ポール・モーリア風の旋律まで出てくる。この他、組曲《ナザレの夜》、《オルガン協奏曲》もおもしろい。
しばしばまとまりなく、形式があるような、ないような、楽天的でいて深刻、軽薄なようで生真面目といった、矛盾する要素の併存するプーランクの音楽は、受け止める側の意識によって、いろいろに解釈できるだろう。「フランス的」あるいは「エスプリに満ちた音楽」というのが、ありがちな評価かもしれない。
筆者としては、こういったプーランクの音楽の特質を、ひとつの主義や信条に凝り固まって排他的・不寛容になるような意識に対する批判と解釈したい。 Discography: (
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*1, *2, *3:
・Poulenc:OEuvres pour Piano/ Gabriel Tacchino (EMI CMS 7 62551 2)
・プーランク:ピアノ独奏曲全集/ポール・クロスリー (SONY RECORDS SRCR 8743)
*4:プーランク/協奏曲集”オーバード”(東芝EMI CC35-3835)
*5:クラヴサンと管弦楽のための「田園のコンセール」 (エラートWPCC5049)
ソ連がなくなった。東ドイツを西側に渡してしまったあたりから、相当、苦しい状勢にあるだろうことは想像できたが、ソ連そのものがこんなにも早く崩壊してしまうとは思わなかった。
これまでソ連は、西側にとっては不倶戴天の敵、悪者だった。 「共産主義国家」というのは、嫌われ者で、その本家であるソ連は、おそろしい国、というイメージがある。筆者も、ソ連については、あまりよく知らなかったが、あるとき、戦後、ソ連のウラジオストックに数年間、抑留されていたFさんの話しを聞いて、ちょっと考え方が変った。
Fさんは日本軍の兵士として、朝鮮半島で終戦を迎えた。すぐに武装解除され、船でウラジオストックに送られ、収容所に入れられた。同じ捕虜でも、奥地の森林地帯に送られた人達は、鞭で追い立てられ、酷寒の中、悲惨な境遇に置かれたが、Fさんの場合は幸運だった。
たまたまFさんは機械加工の技術を持っていたので、工場で働かされることになる。 捕虜だから、さぞかし酷使されたのでは、と思うところだが、話しは逆で、技術力のないソ連の工員を指導する立場になって、「捕虜のオレたちが、5ヶ年計画に協力してるんだから、もっとマジメにやれ!」と、のんびりしているロシア人にハッパをかけたこともあったそうだ。最後は、上司にあたる年配の工員から「うちの娘と結婚して、日本に帰らず、ここに残ってくれないか」と懇願されたという。
Fさんによると、ロシア人は非常に純朴で、のんびりしている。だから、工場の能率改善などということは思いもよらないことで、Fさんがアドバイスしたことで、生産性がかなり向上した。
また当時、ドイツ軍に侵攻されたソ連のヨーロッパ地域では、大量の孤児が発生し、15〜6才の孤児の少年が、ウラジオストックの工場に見習い工として来ていた。Fさんも、何人かの孤児を指導することになった。
ところが、つい日本式に、Fさんがどなったり、手を上げようものなら、孤児はぶるぶる震えておびえ、まわりのロシア人工員が飛んできて、「そんな、大きな声を出さないでくださいよ」となだめる。つまり、ロシア人は、子供を大声でどなったり、手を上げたりしない、ということなのだ。
こんな話しもある。あるロシア人が「モスクワには、地下鉄というものがあるんだ」と自慢した。そこで、Fさんが、「なんだ、地下鉄なんか、東京ではオレのウチの前まで来て止まるぞ」というと、ほおー、という顔をする。Fさんがおもしろくなって、「おまえの国は太陽が1つしかないが、日本には3つもあるから暖かいんだ」というと、ようやく、「本当かあ?」と、怪訝そうな顔をしたという。
このような国民性だから、全体主義国家になってしまった、という側面と、全体主義国家は国民に与える情報を統制して、無知な状態に置くことを好む、という側面とがあるようだが、ロシア人、少なくとも1945年当時のウラジオストックのロシア人が純朴でお人よしだった、ということは確かなようだ。
ソ連は第2次大戦で、ドイツとの戦いで大きな被害を被った。戦勝国となったものの、生活は苦しく、ウラジオストックでも、食糧は乏しかった。日本人捕虜に与えられる食糧も乏しかったが、一般のロシア人も、ろくなものを食べておらず、Fさんがパンを食べていると、収容所の金網の外から、ロシア人の子供がじっと見つめていたこともあったそうだ。
それでも、人々はスターリンや共産党のいうことを信じて、「今は苦しいが、頑張れば、そのうち理想的な社会ができあがる」と、本気で思っていたようだ。これが、1945〜7年ごろのことだから、およそ45年たって、ようやく「これじゃ、ダメなんだ」ということに気付いた、といえるかもしれない。
なんとも気の長い話しだが、これがロシア人の国民性なのだろう。日本でもかつてしばしば報道された、商店での長い行列にしても、彼らはそれほどイライラしてはいないのだそうだ。
だから、Fさんの話しを聞いていると、仮に政治体制が変っても、ロシアはすぐに経済的に豊かにはなれないような気がする。市場経済を導入しても、しばらくは混乱が続くだろう。そもそも、自分を犠牲にしてまでがむしゃらに働いて、国を豊かにしよう、などという意識はないのかもしれない。
さて、Fさんが感動したのはロシア人の音楽好き。夕方になると、工員の住宅地域で、誰いうともなく、主婦たちが外に出て、ロシア民謡や流行歌を合唱するのだそうだ。その響きがなんともいえず素晴らしかったという。ごくふつうの、むしろ貧しい労働者階級の人々が誰に命令されるのでもなく、合唱する。音楽が日常生活に溶け込んでいて、戦前・戦中・戦後の日本より、音楽的にはずっと豊かだったのではないか。
急速な市場経済の発展と西欧化によって、こうした素朴に音楽を楽しむ国民性が失われるとしたら、それはそれで残念なことに思えてならない。
今回紹介するのは、そんなロシアの響きを、歴史のある教会音楽で聴くCD、「ロシア修道院合唱の一千年 1000 Jahre russische Kloster-gesaenge」(KOCH 313079)。ロシアの風土とロシアの国民性を彷彿とさせる、暖かみのある響きが聴ける。
パイプ・オルガン(以下オルガン)は、楽器の中でも、特殊な性格をもっている。もっとも大きな特徴は、構造も、そこから出てくる音も、非常にメカニック=機械的ということだ。
そもそも「機械」と「道具」は、どこが違うのか。機械は、動力を内蔵している。つまり、エンジンやモーターを内蔵している。たとえば、自動車や電気洗濯機は機械だ。これに対して、道具は、動力を内蔵していない。たとえば、のこぎり、ネジ回しは道具だ。
この区分を楽器にあてはめると、どうなるだろう。ほとんどの楽器が道具であることがわかる。金管楽器では奏者の唇が振動し、楽器はその共鳴を補助する役割を果たすし、弦楽器、木管楽器では、奏者の身体が、発音源である弦やリードに直接、触れる。これが、ピアノやチェンバロになると、奏者が直接、音源に触れることはなくなるが、音のもとになるエネルギーは、あくまで演奏者の身体的な力だから、これもまた道具ということになる。
これに対して、オルガンは送風にモーターを使っている点で、機械とみなせる。古くは、人力でふいごを動かして送風していたが、これも、演奏者から見れば、楽器が動力を内蔵していることになるから、機械ということになる。オルガンの場合、演奏者は直接、発音に関与しない。ただ、パイプを鳴らすか、止めるかを制御するだけだ。
だからオルガンの音は一本調子で、基本的に無表情。ヴァイオリンやサキソフォーンのように、微妙な音色の変化やニュアンスを、個々の音につけることはできない。
よくも悪くも「機械的」であること、これがオルガンの特徴なのだが、これはまた、オルガンがヨーロッパのキリスト教会で使用されてきたことと無縁ではない。
クラシック、つまり西洋芸術音楽はキリスト教の教会音楽から始まったといわれる。しかし、教会はすべての音楽を容認していたのではない。教会における音楽の目的は、あくまで神を賛美すること、人々の信仰心を高めることにある。だから古くから教会は、享楽的な音楽、官能的な音楽、異教的な音楽には神経過敏で、しばしば特定のタイプの音楽を排斥してきた。
具体的には、器楽全般、とりわけ舞曲のような熱狂的な音楽は概して教会内では禁止された*1。音楽の官能性や音の快感を追及するような音楽に対して、教会は常に警戒心を抱き続けたのである。
こういうこともあって、中世、ルネサンスの教会音楽には、のっぺりしていて、躍動感が欠如しているものが多い。大局的に音楽史を見ると、17世紀までは音楽の中心は声楽で、17世紀から少しづつ器楽の発展が始まり、18世紀には、逆転して器楽が中心となるが、これは、教会の権威が衰えて、新しい、あるいは非キリスト教的な人間中心の思想が普及することと完全に並行関係にある現象なのだ。
似たようなことは、現代の日本にも認められる。中学や高校での音楽の用いられ方である。まず入学式や、卒業式といったシリアスな儀式では、校歌や「君が代」が歌われる。いずれも、どちらかといえば単調で、儀式の雰囲気を盛り上げ、生徒の気分を統率する、という側面が強い。
これに対し、同じ音楽でも、学園祭、文化祭で、ロック・コンサートをやろうとすると、学校側からクレームがつくことが多い。これは教師の音楽的センスが古い、というような趣味の問題ではない。管理者としての教師は、ロックが持つ麻薬的な力、生徒を陶酔させ、熱狂させる力を嫌うのであり、同時に恐れているのだ。この点では、学校側の発想は、享楽的な音楽を嫌った中世の教会の聖職者に通じるものがあるといえる。
さてオルガンは、古代ローマでは闘技場で大きな音を出す楽器だった。それが、いつのまにか、教会の楽器になったのは、オルガンの機械的な音、単調な響きが、人間的なもの=日常性からは隔たっていたからではないのか。
オルガンの響きには、細やかな感情を托すことがむずかしい。そこには、人間の喜怒哀楽が入り込む余地がほとんどない。つまり非人間的なのだが、このことは神聖なイメージにもつながる。オルガンのフル・ストップの響きは、硬く、鋭いが、これは神の厳しさを象徴しているといってもよいだろう。
ユダヤ=キリスト教の神は、父性原理にもとづく厳しい唯一神であり、そこには、優しさや甘い感傷が入り込む余地はないのだ*2。
すぐれたオルガン音楽の作曲家はみな、このようなオルガンの特性を熟知して曲を作っている。今回は、ジャン・アランの作品を聴いてみよう(「ジュアン・アラン オルガン作品集」第1集、エラート2292-45402-2)*3。
まずアランの代表作ともいうべき《リタニー(連祷)》。この曲は、オルガン曲にしてはめずらしく急速で、リズミックではあるが、その躍動感は人間的ではなく、あくまで硬質で無機的であり、その響きには、妥協を許さない強さが感じられる。このようなアランの作品の特性は《3つの踊り》にも、明確に現われている。
フランスの現代オルガン作品というと、日本ではメシアンが有名。過日、他界したときには、一部マスコミは「20世紀最後の大作曲家」というような形容をしていた。確かにメシアンは管弦楽曲やピアノ曲を多数書いているし、大作も多いので、大物作曲家と評価されるのも当然だろう。
しかし、もしメシアンのオルガン作品が聴かれるとするならば、同じ程度にジャン・アランのオルガン作品も聴かれるべきだろう。このふたりは、いずれも才能あるオルガニストだった。第二次大戦において、メシアンは捕虜になったものの、戦後まで生き延びることができた。一方アランは戦死した。彼は戦後を生きることはできなかったのだ。
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*1:キリスト教がヨーロッパに浸透する過程で、それまでのヨーロッパの古い宗教=異教を抹殺するために、古い宗教の神々は「悪魔」とされ、古い宗教の儀礼にまつわる音楽は「悪魔の音楽」として排斥された、という側面もある。この意味で、ルネサンスに「再生」したのは、古代ギリシャの文化などではなく、抑圧された異教を含む、ヨーロッパ古来の文化だった、というべきだろう。
*2:カトリックにおいては、聖母崇敬が、母性原理=優しさを補う役割を担った。イエス・キリストを讃える聖歌よりは聖母への祈りである《アヴェ・マリア》が多数、作曲されるということになったことは興味深い。しかし聖母マリアに、イシスなど古代の地中海の大母神や、ケルト系の女性原理が混淆している側面も無視できない。
*3:このCDの日本語解説では、Jehan Alainを「ジュアン・アラン」と表記している。現在のフランスでは"Jean"が一般的で、"Jehan"という綴りは珍しい。しかし、"h"が入っていることで、2音節"Je-han"と発音する、という解釈で「ジュアン」と表記したとすれば、ちょっと問題。これは彼の親が古風な綴りを選んだだけで、発音は"Jean"と同じ。つまりカナ表記も「ジャン」でよいのである(これは、1995年来日した際に、彼の妹で著名なオルガニストであるマリー=クレール・アランに筆者が直接確認した)。
「偉大な作曲家」という意味とおぼしきタイトルのCDブック・シリーズが刊行されたことがある。第1回発売はベートーヴェン。やはり日本でクラシックといえば、まずこの人。そして、ベートーヴェンといえば、まず思い浮かぶのが《運命》だ。しかし、《運命》は、もともと《運命》と題されていたわけではない。だから、あの交響曲を《運命》と呼ぶのは間違っている。
《運命》の正式名、いわば本名は、「交響曲第5番ハ短調作品67」。ベートーヴェンの生前には、「大交響曲」という題で演奏されたこともあるが、ベートーヴェン自身は、《運命》という題を付けていないのである。
では、なぜ《運命》と呼ばれるようになったのか。その理由は、あの第1楽章の有名な冒頭の第1主題について、ある時ベートーヴェンが「運命がこのように扉をたたく」と言った、というシントラーの証言が残っているからだ。しかし、このシントラーは、極端なベートーヴェン崇拝者で、だいぶ事実を歪曲して、自分に都合のよいベートーヴェン伝を書いた人物といわれているので、この《運命》のエピソードも、あまり信用できるものではない。
そして、この曲を《運命》と呼んでいるのは、現在ではどうやら日本だけのようだ。少なくとも筆者の見た限りでは、この曲の輸入スコアや輸入CDに「運命」に相当する字句は見られないのだ。
この曲を《運命》という標題音楽として聴くのと、単なる《交響曲ハ短調》という絶対音楽として聴くのでは大きな違いがある。「運命」というと、どうも暗いイメージだ。どこか、悲壮で、悲劇的、マジメで重苦しい。「明るい運命」とか「楽しい運命」というのはあまり聞かない。
この曲、確かに、第1楽章は「運命」のイメージで聴くことができる。しかし、第2楽章は明朗だし、第4楽章は快活だ。これを、「苦難を通じて歓喜へ」などと理屈づける人もいるが、そこまで人生論的にとらえる必要があるのか。この曲を、人生論的にしか聴けない、というのは、むしろ、この曲の理解を狭い範囲に制限してしまうという弊害さえ生むものといえる。
一般的にいって、絶対音楽は抽象的で理解がむずかしい。これに対して標題音楽は、理解しやすいとみなされがち。しかし、だからといって、本来、絶対音楽として作られたこの曲を、勝手に標題音楽として聴くように仕向けてしまうのは、聴き手に対する冒涜だ*1。この曲から「運命」という表題を取り去るべきだし、人生論的解釈にもとづく解説や鑑賞指導もするべきではない。
さて、この曲は超有名曲だけに、さまざまな演奏があり、多数のCDが発売されてる。そして、その大半は現代の大編成オケで演奏されたもの。18世紀〜19世紀前半のオケと比べると、弦楽器は鋭い音を出し、管楽器はキー・メカニズムが複雑になって、半音階を楽に演奏できるようになったが、自然な共鳴が犠牲になっている。そして、なによりも編成が巨大化している。その結果として生じる響きは、確かに表現力があり色彩感も豊かだが、一歩間違えば肥大化して大味となり、音楽がもたつく危険性もはらんでいる。
そこで今、逆説的に「新鮮」なのは、ベートーヴェンの生きていた時代の楽器と編成、演奏スタイルで演奏されたもの。筆者の手元にあるのは以下の4種。
・グッドマン/ザ・ハノーヴァー・バンド (Nimbus NI5144/8)
・ホグウッド/エンシェント室内管弦楽団 (L'OISEAU-LYRE F35L-20116)
・ノリントン/ザ・ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ(EMI TOCE-6232)
・ブリュッヘン/18世紀オーケストラ (PHILIPS PHCP-5044)
いずれも、現代のオケに比べれば小人数だが、メリハリが効いていて、ある意味で軽快。かといって、決して迫力に欠けるものではない。金管が荒削りなのだが、それがフォルテを強化し効果的だ。
このような、当時の楽器による演奏を聴いていると、ベートーヴェンがオーケストレーションに関して何を考えていたか、わかるような気がする。同時にまた、楽器の改良が必ずしも「進歩」といえるものではないこともわかる。少なくとも、この曲に関する限り、当時の楽器と編成で必要充分*2。
これは、考えてみれば当然のこと。ベートーヴェンは、当時利用できる楽器で最大の効果を出すべく、作曲したはずだからだ。彼が現代のオケのために作曲するとすれば、スコアを全面的に書き換えることだろう。あるいは「こんなオケは金がかかりすぎるからいらない」と憤慨するかもしれない。
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*1:同じことが、たとえばショパンのワルツや前奏曲などにもいえる。
*2:筆者はホグウッド/エンシェント室内管弦楽団によるこの曲の生演奏を1400席のホールで聴いたことがある。現在の三管編成のフルオケに比べれば低音不足で絶対的な音圧レベルは小さいが、ダイナミックレンジは確保されているので、感覚的には十分な迫力をもつ響きに感じられた。
「名曲」という言葉。よく目にするが、もともとはどういう意味なのだろう。ためしに手持ちの国語辞典を引くと「すぐれた楽曲。有名な楽曲」となっている。この定義は、一見あたり前のように思えるが、「すぐれた楽曲」というのと「有名な楽曲」というのを、どう関連付けるかによって、その意味するところは異なってくる。この2つの定義の間に、「and」を置くか、「or」を置くか、ということだ。
もし、「and」を置くならば、名曲というのは「すぐれた楽曲であり、かつ有名な楽曲」となる。では、「or」を置くと、どうなるだろう。名曲には2つのタイプがある、ということになる。まず、「すぐれた楽曲」があり、次いで「有名な楽曲」というのがある。
そして当然のことながら、裏を返すと「すぐれていない楽曲」と、「有名でない楽曲」も存在する、ということになる。つまり、世の中には、以下の4種類の音楽が存在することになる。
(1)有名で、すぐれている曲。
(2)有名だが、すぐれていない曲。
(3)有名ではないが、すぐれている曲。
(4)有名でないし、すぐれてもいない曲。
(1)は、文句なく名曲。(2)はエセ名曲あるいは通俗名曲。(3)は隠れた名曲。(4)は駄作、とでも呼んだらよいだろうか。
もっとも、物事はそう簡単に割り切れるものではない。ある曲が「有名かどうか」、つまり知名度というのは、ある程度、客観的に判断できる。しかし、「すぐれているかどうか」の判断はむずかしい。
音楽のよしあしを測る単一の尺度など存在しない。仮に多くの人がある曲に感動したとしても、各人が、それまでの人生で体験してきた音楽の蓄積の上に聴いていくわけだから、同じように感動しているように見えても、実際には、その捉え方は千差万別だ。これは、演奏会後などに、ちょっと詳しく掘り下げて感想を述べ合えば、すぐにわかることだ。
そして音楽に関する個人的な主観は特にうつろいやすいもの。たとえ現在は大いに感銘を受けているとしても、数年後にはその曲がつまらなくなってしまうこともある。自分にとっての「すぐれた曲」でさえ、首尾一貫して存在するものではない。強いて言えば、そのときどきに、自分が何かを触発された音楽が、その瞬間における自分にとっての「すぐれた曲」であるに過ぎない。
「すぐれている」、「すぐれていない」という基準は、個々人でさえ、一貫して持ち得るものではないのだから、まして普遍的・客観的な基準が存在するとは思えない。つまるところ、広く世間で「名曲」といわれているのは、前述の4種類のうち、(1)と(2)、つまり、音楽の質よりも、もっぱら知名度で決ってしまっているといってよいだろう。
おそらく、どこの国でもそうなのだろうが、日本では、どうも特定の作曲家の特定の曲しか知られておらず、偏っているように思える。定番好み、という感が強いが、これはウォルフレン風にいうなら、「システムがそう仕向けている」という感がしないでもない*1。
明治以後の官主導の「洋楽移入の伝統」*2と、昨今の音楽プロモーションやレコード会社の企画、それに連動した「権威」のある音楽雑誌や音楽評論家などによって与えられる特定の情報に、いつのまにか方向付けられてしまっているとはいえないだろうか。
今回紹介するのは、日本ではまだまだ知名度が低いと思われるスペインのモンポウ(1893-1987)の作品。1921年から1962年にかけて作曲された12曲の《歌と踊りCancon i danses》は、モンポウの叙情的な作風の微妙な変化を反映していて、興味深い(Mompou Plays Mompou Vol. IV, Ensayo ENY-CD-3453)。
彼の作品には後期ロマン派風あるいは印象派風の標題音楽も多いが、この12曲は、絶対音楽で、標題のイメージにしばられずに、自由に聴けるところがいい。また「前奏曲とフーガ」のように、「歌」と「踊り」がペアになっている対比もおもしろい。
ちなみに、タイトルに示されているように、このCDはモンポウ自身の演奏。1974年の録音だから、なんと81才のときの演奏ということになる。以前、ある日本のピアニストがモンポウを集中的に取り上げたので、ブームになるか、とも思われたが、不発に終わったようだ。モンポウの場合、日本のクラシック音楽界の「システム」は、正当なレパートリーとしては容認しなかった、ということかもしれない。
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*1:カレル・ヴァン・ウォルフレン:『日本/権力構造の謎』(早川文庫)。筆者は、この本の記述がどこまで事実として認められるのかを判断することはできないが、しかし自分の経験からして、相当程度、納得させられるところがあった。日本の社会の(暗黙の)仕組みに関する、かなり説得力ある「説明」あるいは「解釈」といえる。
*2:あまり論じられない洋楽移入に関連する問題、戦前・戦中の音楽界 については、赤井励『オルガンの文化史』(青弓社)に興味深い記述が見られる。
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