クラシック音楽正誤表

 作曲者が誤って伝えられた曲の例。いずれも後世には忘れられた作曲家の作品が、同時代の、現在では著名な作曲家の作とされたケース。意図的なケースもあれば、伝承過程で情報が欠落した結果、20世紀に再評価された際に作曲家を誤ったケースもある。当然、古い時代になるほど、このような誤りは多く、検証もむずかしい。


【誤?】ジョン・ダンスタブル:《おお、美しきバラよ》
【正?】ジョン・ベディンガム:《おお、美しきバラよ》

 この曲 "O rosa bella"は従来、15世紀イギリスのもっとも著名な作曲家であるダンスタブルJohn Dunstable(1453没)の作とされてきたが、ジョン・ベディンガム John Bedingham(1422頃-1459/60)の作という説がある。


【誤?】ヘンリー・パーセル:グラウンド ト短調
【正?】ウィリアム・クロフト:グラウンド ト短調

 従来、17世紀イギリスの代表的作曲家パーセルHenry Purcell(1659-1695)の作とされてきたこのグラウンド(ロンドン大英博物館蔵 Ms.Add.34695)は同じくイギリスのウィリアム・クロフトWilliam Croft(1678-1727)の作とする説がある。


【誤?】J.S.バッハ:トッカータとフーガ ニ短調 BWV 565
【正?】J.S.バッハ:独奏ヴァイオリンのためのトッカータとフーガ ニ短調のオルガン編曲
【正?】J.P. ケルナー:トッカータとフーガ ニ短調

 この曲はオルガン曲といえばまずこれ、というぐらいポピュラーだが、バッハの自筆譜は残っておらず、18世紀後半の写本でしか伝わっていない。また様式的、作曲技法的に見ても、バッハの作とするには疑問が多い。構成の単純さや難易度の低さから、バッハの若い頃の作(つまり未熟さを習作とみなす)というのが現在の定説だが、他にバッハのヴァイオリン曲を後に誰かがオルガン用に編曲したという説、チューリンゲン地方のオルガニストだったヨハン・ペーター・ケルナー Johann Peter Kellner(1705-1772)の作とする説がある。

 ケルナー説は、作品の様式から見ると一定の説得力がある。トッカータにおける表面的な即興的効果や、フーガにおける対位法的書法の単純さ(浅薄さ)は上述のように従来、「バッハの若い頃の習作」として説明されてきた。しかしこのような対位法的書法の「未熟さ」あるいは「浅薄さ」は観点を変えれば古典主義的な理念から単純化された結果と見ることが可能で、この点からすればバッハよりも若い世代の作とも考えられる。

 他方、単旋律やオクターブ並行進行の箇所は原曲が無伴奏ヴァイオリンのための作品だったと考えれば納得がいく。実際、ヤープ・シュレーダーの編曲によるヴァイオリン独奏版(正確には編曲ではなく、失われた原曲の復元ということになる)を聴くと、ヴァイオリンで演奏した方がこの曲のよさを引き出しているようにさえ感じられる。

 ケルナーはオルガニストであり、オルガン作品を残した他、バッハのオルガン作品やヴァイオリン作品をいくつか写譜している。これらのことから、この曲は、現在は失われてしまったバッハのヴァイオリン作品をケルナーがオルガン用に編曲した、という可能性も考えられる。

 筆者は、バッハの現存するオルガン作品とヴァイオリン作品から推測するに、この曲はもとはヴァイオリン独奏曲だった可能性が高いと考えている。作曲者の推定は難しいが、バッハの可能性は50%ぐらいだろうと思う。

 なお、当時、オルガンのベンチに座って両手でヴァイオリンを演奏し、両足でペダル鍵盤を演奏することもあったようだ(版画が残っている)。BWV565も、もとは、このような特殊な演奏形態のための曲だったかも知れない。

 この問題を考えるためには、以下の作品も参考になるだろう。

(1) J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第1番 ト短調 BWV1001より、第2楽章 Fuga. allegro.

 1台のヴァイオリンを用いて、あたかも3〜4人のヴァイオリニストがフーガを演奏しているかのような効果を生み出す、興味深い作品。

(2) J.S.バッハ:前奏曲とフーガ ニ短調 BWV539

 オルガン独奏曲で、こちらのフーガは(1)の編曲と考えられている。

(3) J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番 ホ長調 BWV1006より、第1楽章 Preludio

 同音反復の音型など、BWV565のトッカータに似た音型が聴かれる。

・関連ページ:bcc: 032 こんな曲、ぼく知らないよとバッハいい


【誤】J.S.バッハ:メヌエット ト長調 BWV Anh.114、メヌエット ト短調 BWV Anh.115
【正】クリスティアン・ペツォルト:メヌエット ト長調、メヌエット ト短調

この2つのメヌエットは、わが国ではピアノ初学者向けの『バッハ小品集』などに掲載されて広く知られ、特にト長調メヌエットはしばしば聴かれる小品。バッハとアンナ・マグダレーナが書いた手書きの楽譜ノート、いわゆる 『アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帖』に記載されていたことから従来バッハ作とされてきたが、クリスティアン・ペツォルト Christian Petzold(1677-1733)の作であることが判明。

・関連ページ:bcc: 144 あんな本はいらない


【誤】F.J.ハイドン:弦楽四重奏曲 作品3
【正】R.ホフシュテッター:弦楽四重奏曲集

 この弦楽四重奏曲集(特に第5番が「セレナーデ」として有名)はアーモルバッハの僧ロマン・ホフシュテッター Roman Hofstetter(1742-1815)の作。1767年の出版予告でハイドンの名が付されたという。1962年に判明。出版社が楽譜の売れ行きを考えて、ハイドンの名を冠したと推定される。ホフシュテッターはハイドン・ファンだったようだが、本人にハイドンの名を騙る意図があったかどうかは不明。


【誤】F.J.ハイドン:おもちゃの交響曲 (Hob. II:27)
【正?】レオポルト・モーツァルト:カッサツィオ ト長調より、第3、4、7曲

 従来、ハイドンの《おもちゃの交響曲》(ドイツ語ではKindersymphonie=「こどもの交響曲」)として親しまれてきたこの曲は、アマデウス・モーツァルトの父、レオポルト Johan Georg Leopold Mozart (1719-1787)のカッサツィオ Cassatio in Gに含まれていたものを誰か(ミヒャエル・ハイドンとの説もある)が3曲抜き出してまとめたものであることが判明。しかしこのカッサツィオそのものも完全にレオポルトの作とはいえず、当時の既存の曲を集めたものらしい。


【誤】W.A.モーツァルト:カノン《おれの尻をなめろ》KV233 (382d)
【正】ヴェンツェル・ヨハン・トルンカ:カノン《おれの尻をなめろ》

 従来モーツァルトの作とされてきたこの3声のカノン"Leck mir den Arsch"およびカノン《夏の暑さにおれは喰らう》"Beider Hits im Sommer ess ich" KV 234(382e)はブダペスト大学医学部教授のトルンカWenzel Johann Trnkaの作と判明。1988年、ヴォルフガング・プラート Wolfgang Plathが学会で発表。

 ちなみにこの"Leck mir den Arsch"は英語の"Kiss my ass"(直訳すれば「おれの尻にキスしろ」)に相当するもので、相手を罵倒するときや「ちくしょう!」というときなどに使われる、くだけた慣用表現。これを直訳してタイトルにしてしまうのも問題だ。

 なお、訳せば同じ《おれの尻をなめろ》となる6声のカノン、"Leck mich im Arsch" KV231 (382c)はモーツァルトの作とされている。

・関連リンク:
日本音楽学会第49回全国大会(1998年)シンポジウム1要旨
(この曲についての言及がある)


 これらに関連して、書物の例をひとつ。

【誤】アンナ・マグダレーナ・バッハ著『バッハの思い出』
【正】エスター・メイネル著『マグダレーナ・バッハの小年代記』

原著は1925年にイギリス/アメリカで出版されたフィクション。

Meynell, Esther.1925. The Little Chronicle of Magdalena Bach.

 これがドイツ語に訳されたときに出版社が著者名を伏せて出版したようで、そのために日本ではあたかもバッハの2度目の妻、アンナ・マグダレーナ(マクダレーナ)が書いたかのようにこの翻訳書が出版され(訳者はドイツ語版がオリジナルと考えたらしい)、現在も文庫本で出版されている。文芸評論家の小林秀雄(1902-1983)はこの本を読んで感激し、エッセイ『バッハ』(1942)の冒頭で「出典に就き、疑わしい点があるという説もあるそうだが、そんな事はどうでもいい様に思われる…(中略)…バッハの子供を13人も生んでみなければ、決して解らぬ或るもの、そういうものが、この本にあるのが、僕にははっきり感じられたからである」と書いている。

・関連ページ:bcc: 144 あんな本はいらない


last updated: 2014.02.22


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