音楽を考えるためのブックガイド


概 要

 このページでは、主に実証的な科学についての論考、認知心理学的な論考、歴史に関する論考などを紹介する。これらの著述は、音楽研究(音楽学、 musicology, Musikwissenschaft)が何をめざすべきか、音楽研究をどのようになすべきか、また音楽研究の陥りやすい錯誤や問題点は何か、を考えるために役立つだろう。また、「音楽学と音楽評論」、「演奏系・実技系の修士論文・博士論文」の2項目を付記した。

坂崎 紀


目 次

1. ファインマン『ご冗談でしょう、ファインマンさん』I、II

2. Russel: 『科学史へのさまざまなアプローチ』

3. ギロビッチ『人間---この信じやすきもの』

4. 下條信輔『サブリミナル・マインド---潜在的人間観のゆくえ』

5. エリアーデ『オカルティズム・魔術・文化流行』

6. スウィフト『ガリヴァ旅行記』

7. ガードナー『奇妙な論理---だまされやすさの研究』I, II

8. ブロード/ウェード『背信の科学者たち』

9. コーン『科学の罠』

補遺:

10. ウィンジェル『音楽の文章術』

11. 根岸/三浦信編『音楽学を学ぶ人のために』

12.ヘッセ『ガラス玉演戯』

付記:

付記1:音楽学と音楽評論

付記2:演奏・実技系の修士論文・博士論文


 まず研究者としての基本姿勢から。

1. R.P.ファインマン著・大貫昌子訳
『ご冗談でしょう、ファインマンさん』I、II
岩波書店、1986

 音楽研究に興味のある人、音楽研究をめざす人には、特にIIの最後に収録されている「カーゴ・カルト・サイエンス」(カリフォルニア工科大学1974年卒業式式辞)をお薦めしたい。これは科学研究のあり方についての簡潔で、しかも核心を突いた記述。著者は物理学者、いわゆる科学者だ。この式辞はいわば「科学者の卵」に向けて語られたもの。そして音楽学も広義の「科学 science」だ。

 この式辞には研究者が注意しなければならないことが具体例とともに簡潔に述べられている。たとえば「自分の理論に都合のよいデータを示すだけではなく、そうでないデータや、他の可能性も正直に報告しなければならない」という箇所には大いに考えさせられる。

 またネズミが本当に迷路を記憶して特定の扉にたどり着けるのか、という実験のエピソードは、一見科学的に見える実験や測定の落とし穴を示している。結局、ネズミは反響音を手がかりに特定の扉に到達していたことがわかるのだが、性急に結論を得ず、あらゆる可能性を丹念に検討していく姿勢が実証的な研究には不可欠だ。

 後述のガードナー『奇妙な論理』と合わせて読まれることをお薦めする。

※訳書では"Cargo cult science"を「積み荷信仰式科学」と訳している。しかしここでの"Cargo"とは航空機の一種としての「貨物機」、「輸送機」を意味する可能性もあり、実際にここで取り上げられている現地の人たちは、葦のような植物で実物大の飛行機を作り、山上に置いて礼拝しているので、筆者は「輸送機崇拝科学」という訳を提案したい。


2. Collin A. Russel 成定薫訳
『科学史へのさまざまなアプローチ』
C.A. ラッセル他著:『宇宙の秩序』(OU科学史 I)創元社 1983所収

 「本書は『科学的な』信念体系と『非科学的な』信念体系ともいうべきものの相互作用について論じようとするものである。」(5ページ)

 音楽についての著述、思想、研究はしばしばエリアーデ的な意味での「宗教的な性格」を帯びることがある。ある特定の作曲家や演奏家があたかも神あるいは聖人であるかのように扱われ、その作品や録音は聖なる創造物とみなされる。

 この種の著述では、その音楽家の偉大さのみが強調される。不品行でさえ「人間的側面」として美化される。また一見、客観的な伝記的事実が述べられているようであっても、それらはフィルターを通した事実、選び取られた事実であることも多い。このような資料の恣意的操作からは音楽家の一面しかわからず、しばしば虚像が肥大化し、実像は覆い隠される。

 作品に関する記述においても、一見、客観的に分析しているように見えながら、実はその作品の美点を強調することが主目的であり「偉大な作品は偉大だ」という同語反復であることも多い。同時代人の作品との公正な比較がなされることは珍しく、同時代人は「先駆者」か「後継者」に分類される。

 このような古いタイプの「読み物」は依然として音楽愛好家には受けがいい。彼らは音楽的な偶像を求めているのであり、自分の愛好する作曲家や演奏家が賛美されているのを読んで満足するからだ(だから無名の作曲家の伝記はまず書かれないし、彼らの作品が分析されることもほとんどない)。

 しかしもしあなたがこのような著述に飽き足らず、より説得力のある研究や著述をなそうとするなら、このラッセルの小論を「音楽史へのさまざまなアプローチ」と読み替えてみることをお薦めする。少なくとも「聖人伝」でもなければ「偶像破壊的」でもない研究が可能となるだろう。


 音楽は曖昧で具体性に乏しい。またしばしば主観的に捉えられがち。音楽を科学的に研究するためには、まず自分自身の心理の認知心理学的なメカニズムを認識しておく必要がある。また無意識あるいは潜在意識の問題も、こと音楽や音楽研究には重要な意味を持つ。おそらく音楽は意識よりも無意識に大きく影響している。

3. T.ギロビッチ
『人間---この信じやすきもの』
新曜社、1993

 第I部「誤信の認知的要因」の目次を見ると、本書の内容がおよそ理解できる。

2 何もないところに何かを見るーーランダムデータの誤解釈

3 わずかなことからすべてを決める
  ーー不完全で偏りのあるデータの誤解釈

4 思い込みでものごとを見る
  ーーあいまいで一貫性のないデータのゆがんだ解釈

 また第II部「誤信の動機的要因と社会的要因」も重要なことを教えてくれる。

 「5 欲しいものが見えてしまうーー動機によってゆがめられる信念」では、私たちがそれが真実であって欲しいと私たち自身が望んでいる」ことを信じやすいこと、またしばしば自己を過大評価しがちなことが述べられている(このために私たちはお世辞に弱い)。また、人間は自分の成功の原因は自分自身に求めるが、失敗の原因は外的な要因のせいにしがちである、という指摘には苦笑してしまう。

 ここから導かれることは音楽研究にとっても重要な意味を持つ。私たちは多くの証拠の中から、自説に都合の良いものを選ぶ傾向があり、自分が真実であって欲しい、と考えることを支持する説や意見を探し求めるからだ。これは上述のファインマンの記述と合わせて心しなければならないことだろう。

 「7 みんなも賛成してくれている?ーー過大視されやすい社会的承認」では「総意誤認効果」が論じられている。これは、ある種の信念(価値観・習慣)がどの程度人々に共有されているかを推定する際に、そうした信念を自分自身が持っていると、他の多くの人々もそう思うだろうと過大に推定する傾向をいう。これもまた、音楽を考える際に心しなければならないことだ。

 音楽研究の際にはしばしば作品や作曲家の評価の問題が生じるが、そこにはどうしても研究者の個人的な趣味嗜好が影響する。これは不可避であるとはいえ、一歩間違えれば研究の客観性を大きく損なう危険性を持つ。

 たとえば作曲家Aを高く評価する研究者は、他の多くの人々もAを高く評価すると思いがちであり、曲Xを曲Yよりも愛好する研究者は、他の人々も当然曲Xを曲Yよりも愛好する、と推定しがちだ。このように「みなもそう思うだろう」と思って、特定の評価や見解を当然のこととして無批判に提示してしまうと、研究の客観性が失われ、研究者本人が思うほどの説得力もなくなってしまう。

 また「8 種々の『非医学的』健康法への誤信」は音楽療法の効果を考える際の錯誤や誤信の可能性に気づかせてくれる。

 このように本書は「なぜ、そう感じるのか、自分自身の感覚を疑え」という点で非常に啓発的であり、また実証的な研究、説得力のある研究をなす上で研究者が注意すべきことを教えてくる。


4. 下條信輔著
『サブリミナル・マインド---潜在的人間観のゆくえ』
中央公論社、1996(中公新書1324)

 私たちはなぜ、ある曲はよいと思い、またある曲はつまらない、と感じるのか。自分の「好き嫌い」は、どのようにして生じるのか。この本は「自分自身のことは意外とわからない」という、非常に重要な問題を提起している。

 この本を読むと、「この曲はいい」とか「この演奏はよくない」などということを、不用意に発言できなくなってしまう。

 遅ればせながら、筆者はこの本を読んで、考え方が根本的に変わったような気がする・・・しかし、実際はそう思っているだけかも知れない・・・そういうことが、この本には書いてある。


次は、比較宗教学の見地から。地味な分野だが、音楽愛好家の心理などを考える上で非常に啓発的だ。

5. ミルチア・エリアーデ著
楠正弘・池上良正訳
『オカルティズム・魔術・文化流行』
未来社、1978

 著者は、比較宗教学者。本書の第1章「文化流行と宗教史」は、学問的流行の本質を考察したユニークな論考。現代音楽思潮や古楽のトレンドを考える上で、また演奏スタイルの流行を考える上でも大いに参考になる。

 宗教学関連では、この他、カルロ・ギンズブルグの魔女関連の本(『闇の歴史』など)も参考になる。


 ここでちょっと視点を変えてみよう。

6. スウィフト著
中野好夫訳
『ガリヴァ旅行記』
新潮文庫ス31

 本書は小人国渡航記(第1篇)が有名だが、現代的な意味はむしろ大人国渡航記(第2篇)以降にある。音楽を考える上では第3篇第5章、ラガードーの学士院の記述が秀逸。世の「学問」や「研究」が、いかに容易に錯誤や愚行に陥るか、痛烈に批判したものと読める。また第8章は「書かれた歴史」に関する認識を大幅に修正してくれるだろう。

 第4篇「フウイヌム国渡航記」は、あまりに毒気が強すぎて、読みながら、あるいは読み終わった後、なんとも後味の悪い感じがしてしまう。また第3編第10章で、すでに高齢社会の問題点を、架空のストラルドブラグという存在を通じて鋭く風刺している点にも驚かされる。スウィフトの洞察力にはただただ驚嘆するばかりだ。

グーテンベルク21のサイトから、第3篇、第4篇(梅田昌志郎訳)のテキストファイルをそれぞれ本体価格140円でダウンロードできる。
http://www.gutenberg21.co.jp/100guliver.htm


 科学論、科学史も音楽研究や音楽史研究について考える際に参考になる。

7. マーチン・ガードナー著、市場泰男訳
『奇妙な論理---だまされやすさの研究』I, II
社会思想社(現代教養文庫)

 いわゆる「疑似科学」の実態を、科学的立場から論じたもの。これらの実例には苦笑を禁じ得ないが、しかし同工異曲の諸説が「音楽に関する科学的研究」と称するものにも散見されることに気づかされる。

8. W.ブロード・N.ウェード著
牧野賢治訳
『背信の科学者たち』
化学同人、1988.

9. アレクサンダー・コーン著
酒井シヅ、三浦雅弘訳
『科学の罠』
工作舎、1990.

 一見、客観的・実証的な存在とみなされている科学的発見や科学研究の歴史の中に、いかに多くの虚偽や欺瞞が隠されてきたかを論じたもの。一般に「検証可能」で「再現性がある」とみなされている分野でもこの有様。

 まして音楽という人間の心理にかかわる対象を扱う研究にあっては、いかに主観や思い込みあるいは恣意的な概念操作が介入しやすいか、考えさせられてしまう。

 2010年3月には、東大助教アニリール・セルカンの経歴詐称、論文盗用、剽窃が明らかとなった。筆者は彼を非難しようとは思わない。いつの時代にも、どこの国にも、誇大妄想癖の人物は存在するし、詐欺師も存在する。問題はセルカンの嘘を見抜けなかった大学関係者や学会関係者、そしてメディアにあるというべきだろう。お恥ずかしい話だ。

 さらに2014年にはSTAP細胞問題が起り、同年8月には関係者のひとりが自殺するという深刻な事態に至った。当初、大発見としてマスメディアによって大々的に取り上げられたこともあって、上述のセルカン事件よりもはるかに広範囲に知られるようになったが、これまでの捏造事件の教訓が活かされなかった事例というべきだろう。


・補 遺

10. リチャード J.ウィンジェル著
宮澤淳一/小倉真理訳
『音楽の文章術』
春秋社、1994.

 音楽に関する論文やレポートの書き方を扱った実践的な本。第1章「音楽について書く」はなかなか興味深い。特に第3節「不適切な書き方」には大いに共感できるが、逆に「適切な書き方」が示されていないところは残念だ。

 アメリカの大学生を想定しているので、後半では英文の論文の書き方を詳細に論じている。アメリカらしく実践的、実証的で、曖昧な表現を極力避けるように強調している点は評価できるので、日本語で書く場合にも有益だ。音楽と音楽学の素養のある訳者によるので、訳はよくこなれているが、原書も読むとよいだろう。

Wingell, R. J. 1990. Writing about music: An intorductory Guide. Prentice-Hall.


11. 根岸一美/三浦信一郎編
『音楽学を学ぶ人のために』
世界思想社、2004.

 音楽学の現状を包括的にまとめた本。大学で音楽学を専攻しようと考えている高校生、および音楽学専攻の学生に薦めたい。ただ取り上げられている分野のいくつかについては一般性の点でやや疑問もある。出版当時、一部で話題になった音楽考古学は取り上げられていないが、これはこれでひとつの見識を示したものといえるだろう。


12. ヘルマン・ヘッセ
『ガラス玉演戯』

 研究者、教育者が自らどのように成長してくべきか、また、教師や指導者はどのように学生、弟子を指導するべきなのか、という点で、学ぶべきところが多々ある。また、文明批判という点でも、現代に通じる慧眼を感じる。ただし、筆者の乏しい脳みそにとっては、なんとも難解な著作で、ヘッセの真意は測りかねるところがあるし、音楽の扱いには、やや観念的なところがあり、必ずしもすべてに共感できるわけではない。

 グーテンベルク21から、テキスト版を購入することができる。

「ガラス玉演戯(上下)」


付記1:音楽学と音楽評論

 音大や一般大学で音楽学を専攻した後、音楽評論を書く人がいるし、音楽研究と評論活動を並行して行う人もいるため、しばしば音楽学と音楽評論は混同される。また「評論を書きたいので、音楽学を勉強したい」という学生もいる。

 しかし、筆者は科学的・実証的研究としての音楽学に音楽評論を含めるべきではない、と考える。

 端的にいえば、音楽評論は文学であり、読み物だから、読んでおもしろければよい。客観的裏付けがあるかどうか、事実に依拠しているかどうか、よりも書き手の想像力が問われるといえる。場合によっては造語や象徴的な語法を採用することも評論には認められるだろう。

 他方、筆者の考える音楽学は、あくまで事実に基づく実証的な研究だ。そこでは、たとえば研究者の推測がなされる場合でも、可能性の範囲を公正に提示しなければならない(自説だけではなく、他の説もあるなら言及する、など)。また、同語反復的で内容空疎な美辞麗句や、多義的・象徴的でどのようにも解釈できるような語彙・語法あるいはレトリックで音楽や音楽家を説明するのではなく、誰もが検証可能、再現可能、反証可能な範囲で記述するべきだ。

 そうでなければ、いつまでたっても「あなたはそう思うだろうが私はそうは思わない」で議論が先に進まず、知の蓄積や発展も期待できない。

 この意味で、音楽学的記述が地味で、ある意味ではつまらないものであったとしても、それは仕方ないことだろう。


付記2:演奏・実技系の修士論文・博士論文

関連記事:『西洋音楽史へのアプローチ』(AHWM.pdf)

 この『西洋音楽史へのアプローチ』は、筆者の経験から、実技系院生が論文を書く際に陥りやすい錯誤についてまとめたもの。大学院重点化の影響もあって、音楽系大学・学部でも修士論文、博士論文が書かれるようになってきている。問題なのは実技系の院生にも論文が課せられること。卒業論文を書いた経験のない実技系院生に、2〜5年でまともな論文を書かせるのはほとんどの場合、無理、無謀。実技系の音大生は論理的思考が苦手で、感覚的、主観的。また一般学力も概して低く、中学レベルの学力に不安があるケースもあり、日本語の文章がまともに読めず、まともに書けないケースさえある。外国語の文献を読むなど論外だ。なぜか。

 そもそも音楽の演奏には、極度の集中を伴う膨大な時間の練習が必要。どんな天才でも、長期にわたる段階的な練習なしにベートーヴェンやショパンは弾けない。しかも演奏はリアルタイムなので、脳の負担はかなり大きい。このような特異な性質を持つ演奏技術を身に付けるためには、一般的な意味での学力などは犠牲にせざるをえないのだ。

 また、実技系の院生は、よくも悪くも自己顕示欲が強く、注目されることを好む。ステージで演奏するには、謙虚さよりも、自信と、ある種の図々しさが必要とされる。このような資質は、彼らの演奏家としての成長にはある程度まで必要だが、研究する、論文を書く、という点ではしばしばマイナスに作用する。それは、彼らが地味な研究の積み重ねや、その結果としての地味な論文を嫌うからだ。彼らの研究は思い込みが強く、それをまとめた論文はしばしば論理性が欠如し、一面的かつ独善的になり、結果的に説得力の乏しいものになる。

 そんな演奏系の院生を、主に音楽学系の教員が指導して論文を書かせるのだが、能力もモチベーションもない場合にはどうしようもない。付け焼き刃にもならない。その結果、なんとも珍妙な修士論文、博士論文が書かれることになる。この種の論文を書くためのハウツー的な書籍も散見されるが、小手先のテクニックでどうにかなる問題ではない。基本的にボタンの掛け違いというべきだろう。

 実技系の修士号、博士号はあくまで演奏家としての能力、あるいは演奏指導者・教育者としての能力に対して与えるられるべきだ。

 以下の規定によれば、修士号を得るためには修士論文は必ずしも必要ではない。リサイタルの録音・録画などをもって代えることができるだろう。

 (修士課程の修了要件)
第十六条 修士課程の修了の要件は、大学院に二年(二年以外の標準修業年限を定める研究科、専攻又は学生の履修上の区分にあつては、当該標準修業年限)以上在学し、三十単位以上を修得し、かつ、必要な研究指導を受けた上、当該大学院の行う修士論文の審査及び試験に合格することとする。ただし、在学期間に関しては、優れた業績を上げた者については、大学院に一年以上在学すれば足りるも
のとする。
2 前項の場合において、当該修士課程の目的に応じ適当と認められるときは、特定の課題についての研究の成果の審査をもつて修士論文の審査に代えることができる。

(平元文令三四・平一一文令四二・一部改正)

 博士号となると、現在の文部科学省の規定では論文が必須だ。これは「博士号とは、博士論文に与えられるべきもの」という社会通念が強いことによる。その結果、声楽家やピアニストが不慣れな論文書きに挑戦することになる。昨今は、大学教員になるためには博士号が必要となっていることもある。

 しかし、これはどう考えても、音楽家や演奏家の実態からは乖離した制度だ。実技系に博士号を授与する場合、論文は不要だ。意味がない。繰り返しになるが、演奏家としての力量は演奏活動で評価されるべきだし、実技の教育者としての力量は、どのような弟子を育てたかで問われるべきだからだ。それでも文科省が「博士号には論文が必要」というなら、実技系の博士号はなくていい。実技も中途半端、論文も中途半端な「声楽博士」や「ピアノ博士」など不要だ。

 そもそも音楽のような客観的評価がむずかしい分野では、修士だの博士だのの序列化や権威のお墨付きは大した意味を持たない。実際、「あいつは実技がパッとしないから博士号で箔をつけるのさ」といわれることもある。

 さて、音楽に関する論文の問題は実技系の院生の論文にとどまらない。音楽学系の論文にも、学術的な価値がどこまであるのか、あるいは実証的な研究としてどこまで有効なのか、首を傾げたくなるようなものもある。演奏家は、よい演奏をすれば人々に感動を与えることができるが、内容に乏しい音楽学の論文はほとんど何の役にも立たない。衒示的閑暇(conspicuous leisure)のための蘊蓄ならまだマシで、根拠に乏しい裏読み、深読み、あるいは分析と称する、楽譜を言葉で言い直しただけの文章や、結論先にありきのこじつけも多い。さらには、難解な用語を駆使して言葉数は多いものの、内容に乏しかったり、必要以上に造語や特殊な用語法を用いるなど、ウェルニッケ失語症と見まごうような空疎な論述もある(もっとも、これは、音楽学の論文に限らないが)。

 そもそも再現性、反証可能性のない分野では、学位は基準が曖昧になり、存在意義が希薄になりがちだが、音楽に関する論文など、その最たるものというべきだろう。

 音楽は芸術といえば聞こえはいいが、衣食足りて繁栄している平和な社会で発展するもの。いわば、社会の余裕の象徴だ。この意味では、しょせん歌舞音曲、趣味道楽、暇つぶし、時間つぶし、娯楽の世界。演奏者も研究者も社会的認知度は低いし、実際、どこまで世の中で役に立っているのか、はなはだ心もとない。その身のほどを弁えて、演奏家にせよ、研究者にせよ、分不相応な学位など求めるべきではないだろう。

last updated: 2019.11.24


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