ベルギーの歴史と文化 vol. 1

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1.肉屋のギルドハウス(Het Vleeshuis)

写真1-1:肉屋のギルドハウス正面より(※画像をクリックすると拡大されます)
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写真1-2:ルッカース広場より、市営住宅向こうの肉屋のギルドハウスをのぞむ(※画像をクリックすると拡大されます)
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 2006年9月1日の夕方のオープニングセレモニーをもって、肉屋のギルドハウス博物館は「町の音の博物館(Klank van de Stad)」と新たな副名を添えてリニューアルオープンした。

 アントワープの市役所から程近い、肉屋のギルドハウスを角に構えたヴレースハウエル通り(Vleeshouwerstraat)はそのまま、「肉屋通り」という意味だ。

 1250年ごろすでに肉屋の市がたつ場所だった。当時アントワープのカテドラルの身廊を手がけていた建築家、へルマン・ドゥ・ワーゲマーケレ(Herman De waghemaekere)のデザインにより、1501年から1504年にかけて建てられた。肉の赤身と脂身の色だとか、ベーコンのようだと言われる赤レンガ造りの建物である。

 中には52の肉屋が建物内に店を構え、ここでアントワープの富裕層相手に肉を売った。あるいはギルドに参加できない貧しい肉屋はここで肉を買い、通りに出て肉を売った。肉屋は通りで肉をさばきもした。

 アントワープの北に市の屠殺場ができたのは、ようやく1877年になってからのことだ。

 中世ギルドは厳格な身分制度を敷いた徒弟制度をもうけ、扱う商品の質と規格、価格を厳しく統制、品質維持を図る一方で独占的に商売を行い莫大な財を築いて都市の発展に貢献した。教会と深く結びつき、アントワープのギルドはギルドごとにカテドラル内に自分たちの場所を持ち、豪奢な祭壇をおき、自分たちの守護聖人の像を掛けたり、その聖人の祝日に教会で会合を行ったりした。

 子弟はギルド内部のものと結婚する、と規約に記されていたほどの徹底した富と権利の保守主義、秘密主義のもと、肉屋の子弟の結婚式は教会ではなく、肉屋のギルドハウスの中の婚礼の間で行われた。

 1795年ギルドが廃止になると、肉屋のギルドハウスはワイン業者に買い取られ、ワインの倉庫として使われた。

 1830年ベルギーが独立してから20年間は、画家たちのアトリエになったり芝居を上演する劇場となったりと、芸術的な目的で使用された。1863年に市の重要工芸品を集めた美術館の構想が練られ当初はステーン城をその場としたが、1913年に肉屋のギルドハウスをアントワープ市が買い上げて移動、博物館になった。

 かつてはそんな、工芸品とされた楽器に食器に絵画、ありとあらゆる町の古いものを集めた骨董市のような博物館だった。今は中に入ると入場料込みでポケットコンピュータが貸しだされ、展示の楽器を使った音楽が聴けたり詳しい説明を読むことができる。この建物が建てられた当時の、チェンバロの音も聴ける。

 ブリュッセルの楽器博物館と比べたら規模は小さいが、音にまつわる絵画やコピーも含めて展示された、なかなか個性的な博物館になった。

 この博物館入り口の近くにルッカース広場(Ruckersplein/またはRuckersplaats)がある。

 チェンバロ製造で世界的に有名だったルッカース一家が1579年から1667年住んでいたゆえその名がつけられた。

 ルッカース広場は16世紀に建てられた家々に囲まれていたが、第二次大戦の空からの爆撃により、たった一軒の家を残して焼け野原と化した。

今その広場は市営住宅に囲まれた中庭になっている。

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2.プロテスタントかカトリックか

 ルッカース一族が暮らした頃のアントワープは、その栄華の頂点を極めていた。しかし時代は頂点ゆえ、そこから下るだけの激動の時代でもあった。

 世界最大級の貿易港をもって、金融の中心地として本国を凌ぐ繁栄を誇っていたアントワープは、スペイン領でありながら1585年スペイン軍によってその港を破壊されている。新大陸の富をほしいままにスペイン絶対王政を築いた王フェリペ2世は熱烈なカトリック信徒で、富を得た商人たちとプロテスタントという二つの新興勢力を徹底的に攻撃した。1609年オランダ独立戦争の停戦協定が結ばれ、南部10州がスペイン=ハプスブルク家領としてとどまった。現在のベルギーに属する地域である。

 ベルギーはだから伝統的にカトリックとされているが、こうした国境近い都市は政治的に経済的に宗教的に、混沌として複雑である。時代の荒波にもまれて人々は、ときに宗教も国境も超えて生きた。

 たとえば画家のルーベンスは1577年ドイツで生まれている。父親がプロテスタントで、アントワープのプロテスタント迫害を逃れドイツに転居したためである。そして父親の死後10歳のときに、母親に伴ってアントワープに戻った。

 プロテスタントに破壊された教会はカトリックの勢力により、再び、それまで以上にその権力と繁栄を誇示するかのごとく華美に飾られるようになっていった。そうした教会の需要に応え、後に画家となったルーベンスの工房で仕上げられた絵画も大量に教会を飾ることになった。

 1585年アントワープ陥落当時の市長はフィリップ・ヴァン・マルニクス。

 オランダ独立戦争の中心人物であったオラニエ公ウィレム1世の重臣で、彼に贈ったウィルヘルムス(Wilhelmus=ウィレム1世のことで彼を称える)の歌はスペイン軍の攻撃に立ち向かう民衆を団結させ鼓舞した。以降その歌はオランダの国歌として現在も歌われており、マルニクスの名は今、異説も残るが大抵その作詞者として知られている。

 マルニクスはプロテスタントであったためオランダに亡命した。

写真2-1:アントワープ・マルニクス広場(※画像をクリックすると拡大されます)
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 マルニクスの下でスペインの攻撃から町を守った護衛団の長はニコラース・ロコックス。

彼はのちに市参事となり、1603年と1605年には市長を務めている。

 フランス王妃マリー・ド・メディシス、スペインの名将アンブロジオ・スピノラ、オーストリア大公アルブレヒトといった大物を含め、当時のヨーロッパの著名な貴族、政治家との取引において、斜陽のアントワープの富の確保に奔走した。

 富裕な商人の娘アドリアナ・ペレーズと結婚したが子供ができず、私財を投じて学校、病院の運営に携わり、貧しい子供たちに奨学金を与えるなど、社会機構の再建にも尽力した。

 ロコックスの市への貢献は、アントワープを監督する立場にあったオーストリア大公アルブレヒトとその妃イザベラに称えられ、1599年民衆の歓喜の声があがる中爵位を授与されている。

 ロコックスはまた、美術品と古代コインのコレクターであり、ルーベンスの友人にしてパトロンでもあった。現在、彼の暮らしたフラミッシュ・ルネッサンス様式の邸宅はKBC銀行の所有となって、そのコレクションとともに公開されている。ルーベンスの描いた彼の肖像画もある。

写真2-2:ロコックスの家の中庭にて(※画像をクリックすると拡大されます)
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写真2-3:ルーベンスによるロコックスの肖像画(※画像をクリックすると拡大されます)
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 アントワープの大聖堂にあるルーベンスの代表作「キリスト降架」は、護衛団のギルドに依頼されて描かれたものである。ゆえに護衛団の守護聖人である巨人聖クリストフォルスも描かれているが、依頼主であるニコラース・ロコックスもひっそり、肖像画と別の角度の横顔で登場している。

 オランダ独立戦争の12年の停戦協定が終わった1621年、アントワープは再び、ヨーロッパを巻き込むことになる三十年戦争に突入した。

 ルーベンスとロコックスは、その戦争が終わる前の1640年という同じ年に世を去った。

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3.花の画家

 ロコックスの家に展示されている絵の中に、オシアス・ベールト(1580-1624)による「ニッチの花束」と題する花の絵がある。ニッチとは、像や花瓶を置くために作られた壁のくぼみのことである。ここに描かれた花束は色とりどりなだけでなく、ユリにバラにチューリップにアネモネに、と、季節も異なる花々による豪華絢爛なものである。花の周りには数匹の蝶すら舞っている。 

写真3-1:「ニッチの花束」オシアス・ベールト(ロコックスの家所蔵)
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 フランドル地方に独立した花の絵が登場するのは16世紀の終わりのことだ。画家たちが自然や植物を芸術的に表現しはじめ背景には、この世紀、科学的なレベルで数多くの野草、花のイラスト画集、つまり植物図鑑がまずラテン語そしてオランダ語で出版された、という事情がある。オシアスもまた、そうした書物を模写して再構成した。一つ一つの花が交わることなく、観る者に向かったちょうどいい角度で、緻密に慎重に描いている。異なる季節も花束の花の向きも、実はリアルではない。しかし外見上非常にリアルな花々は、「花のアレゴリー」を表現するため描かれた。絵の中にはすでに数枚の花びらが散り落ちている。芽生え、花開き、そして枯れる。見事に咲き誇ったあとに訪れる死を思い起こさせる、生のはなかさを表現するのがこの時代の「花の絵」だ。

 花の絵一枚に、描かれた時代の空気が濃厚に漂う。     

 オシアスは、アントワープの芸術家たちのための組合、シント・ルーカス・ギルドの師でもあった。

 この時代、工房に依頼をうけ制作される絵画の大作は、徒弟たちを含め多数の画家の手による。花は花を得意とする専門の画家が描いた。

 花の絵を描く大家として、「花のブリューゲル」という異名もとった画家、ヤン・ブリューゲル(1568-1625)がいる。彼の息子もまた画家で同名のため、区別のため通常ヤン・ブリューゲル(父)と表記されている。

写真3-2:「花瓶」ヤン・ブリューゲル(父)(アントワープ王立美術館蔵)(※画像をクリックすると拡大されます)
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 ロコックスの家では「聖カテリーナの神秘の結婚」の絵を新規購入した。この絵もまた、艶やかなまでに色鮮やかな美しい花がちりばめられている。キャンバス上のサインはE・ケリヌスとあるが、ダニエル・セーゲルス(1590-1661)との共同制作である。ダニエルはヤン・ブリューゲルを師に、その花の絵を学んだ弟子であった。

写真3-3:「聖カテリーナの神秘の結婚」E・ケリヌス、ダニエル・セーゲルス(ロコックスの家蔵)
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 国を超えてあらゆる王侯貴族、カトリック教会といった権力を握っている者たちを顧客にして、シント・ルーカス・ギルドは、自分たちの技術を含めた全財産を固持した。ゆえに、衰え始めたスペインに代わって台等してきたフランスに目をつけられることになる。フランス王ルイ14世は、アントワープの芸術家たちのギルドを解体したい思惑もあって、1648年に王立芸術アカデミーなる組織を設立した。戦争はただ町を破壊し焼き払うだけでなく、根本のあらゆる組織を潰しすべてを奪おうと試みる。独立したオランダとフランスの間に位置した、翳りゆくスペイン=ハプスブルク家の豊かな財源、ヴラームス地方は、その文化のありようを根源から揺さぶられる時代にもあった。

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4.情報革命

 15世紀後半、ヨーロッパではグーテンベルクが発明したといわれる活版印刷技術が急速に普及する。

 グーテンベルグの発明は1450年頃といわれているが、その約1世紀後の1549年頃、フランス人のクリストフ・プランタン(1520-1589)がアントワープに移り住んで製本業を始め、1555年には「黄金のコンパス(De Gulden Passen)」という名で印刷業を始めた。現在「プランタン・モレトゥス博物館」として残る建物は、その家屋、世界最古の印刷機2機を含む工房、膨大な古書など、ルネサンス期からバロック期にかけてのヨーロッパの印刷文化を後世に残した重要な文化財として認められ、ユネスコの世界遺産に登録されている。

 創設者のクリストフは、この博物館のオフィシャルサイトで「抜けめない商売人」と評されている。スペイン王フィリップ2世により、スペインとスペイン領におけるカトリック教会の印刷物の印刷とその独占販売を事実上認められていた一方で、対立するプロテスタントのオランダ議会の公文書の印刷も正式に任されている。彼の残した印刷物の中でも名高い「ビブリオ・ポリグロッタ(Biblia Polyglotta=多言語訳の聖書)」の刊行に当たっては、自らイニシアティヴをとってフィリップ2世に出版許可を得て、カトリック寄りの自分をアピールして見せた。プロテスタント寄りの活動をぼやかしたのである。

 クリストフはまた、エラスムスのあとの、ヴラームス地方で最も重要なユマニスト、ユスタス・リプシウス (1547 - 1606)の全作品を刊行している。ユマニストとはルネッサンス期にギリシア・ローマの古典文芸を学んだ知識人を指す。1492年コロンブスが、「地球は丸い」と信じてアジアにたどり着くつもりで西に進路をとった航海で新大陸を発見し、1530年コペルニクスが地動説を確信した時代、ユマニストはまた科学的根拠に開眼した自由な思考の持ち主でもあり、宗教上の対立には平和と寛容を説いていた。しかしながら一般的に科学は異端扱いであったし、結局はプロテスタントという新たな勢力を世に産んだ張本人としてカトリックからは批判、弾圧を受けた。フィリップ2世はエラスムスの書を「読んではならない本」と指定した。博物館内には当時のネーデルランド総督で、新教徒を弾圧し血祭りに上げたアルバ公の指示下で、クリストフ自らが印刷した「読んではならない本の一覧表」が展示されている。そしてそこにはクリストフが出版したエラスムスの本もある・・・・

 クリストフに続いてその娘、マルティーナと結婚したヤン・モレトゥス(1543-1640)は、公的なカトリックの聖書印刷に長く携わったあと、辞書と植物図鑑の印刷に従事した。この工房で出版された科学的書物は植物のみならず、動物から人体図鑑にも至る。教会の教えに対立しつつ、人体に対し実証的な研究がはじまり学術的な医学が確立されてゆく時代でもあった。とりわけマルティン・ルターを生んだドイツで医学が発達した背景がうかがえる。

 ヤン・モレトゥスの息子、バルタサル・モレトゥス(1574-1641)はルーベンスの友人だった。ルーべンスはこの友人一家のために、様々な本の挿絵やデザインを考案している。館内にはバルタサルがルーベンスに宛てて書いた手紙や、ルーベンスの筆による本の挿絵のスケッチ、一族の肖像画などの絵画が展示されている。ルーベンスもまたこの時代、ユマニストの教育を受けた1人であった。

 それまでの手写本に比べ、初期の印刷された聖書の値は20分の1ほどの値で、印刷物の低廉化と大衆化を可能にした。加えてユマニスト、宗教改革の文書が印刷され、広くそして急速に世に伝わった。情報革命である。

 この時代にクリストフ・プランタンあり。まことに時代の陰のフィクサーとも言えるべき存在であった。

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写真4-1:プランタン・モレトゥス博物館。金曜に骨董市が立つ「金曜市場」という名の広場に面している。金曜日の撮影ゆえ、市があり人ごみが前景にある。
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写真4-2:正面玄関の彫刻〜黄金のコンパス
ラテン語でLabore et Constantia(労働せよ安定して継続せよ)と一家のモットーが読める。
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写真4-3:印刷機の置かれた工房 (※画像をクリックすると拡大されます)
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写真4-4:1647年版の植物図鑑 (※画像をクリックすると拡大されます)
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5.地図を作った人々

 プランタン・モレトゥス印刷博物館に、「地理学の部屋」という名の展示室がある。16世紀にこの印刷所で印刷されて出版されたもののみならず、12,3世紀に作成されたローマ帝国の手書きの地図を写して印刷したものから、他社の手によるアントワープ16世紀の鳥瞰図、地球儀などが展示されている。

 15世紀末に始まった大航海時代、ベルギー・フランダース出身の地理学者の活躍にあいまって、アントワープは地図の印刷においても重要な生産拠点であった。

 地図の投影法であるメルカートル図法、アトラスの名付け親として知られるへラルデュス・メルカートルは1512年、アントワープの南西にあるルペルモンドに生まれた。高名なユマニスト、マクロペディウスのもとで学び、後にルーヴァン大学に入った。その間版画技術を習得し、ギャスパルド・ヴァン・デル・へイデンと出会った。ヘンマ・フリシウスと組んで、地図や天体観測機器を作っていた人物である。ヘンマはルーヴァン大学で医学を教えていた医者であったが、学生時代から地球儀や天体観測機器を製作する工房を持っていた。ギャスパルドはメルカートルに銅板版で詳細な地図を彫らせた。その共同作業は1537年頃ごろのことだが、以降メルカートルは独立して地図、地球儀、天球儀を製作発表していく。 

 メルカートル図法は1569年に発表した正角円筒図法で、子午線に常に同じ角度を保って航行する「等角航路」を、地図上で、直線で示したものである。これにより大航海時代を担う画期的な海図が作成された。

 メルカートルがこの図法を提案した翌年に、アブラハム・オルテリウスが世界初の地図帳を発表、メルカートル自身も自分の図法で地図帳の制作に取り組み、彼はこの地図帳にギリシャ神話の天を支える巨人神の名前を採ってアトラスと名付けた。以降の地図帳がこれを踏襲したため、アトラスという言葉が地図帳一般をさす普通名詞になった。メルカートルのアトラスは実際のところ、1594年に彼が亡くなった翌年、その遺言に従って息子の手によって完成された。

 2002年にBBCが「偉大なイギリス人100人」を選出する、という「Great Britons」という番組を制作、その後EUの国々が真似て、ベルギー・ヴランデレン(オランダ語圏)でも2005年最終候補の10人が決まった。世界に名を残した偉業を称えられメルカートルもその中の一人に選ばれた。

 彼はベルギー人ではあるが、厳密に詳細を語れば、プロテスタントのルター派であったメルカートルは異端として政府から迫害も受け、1552年にはアントワープから離れたドイツのデュースブルクに研究所を設立している。そのため彼のアトラスも、デュースブルクの個人が出版を請け負ってデュッセルドルフで印刷されたものだ。

 当時現ベルギー国内で活躍した、メルカートルに続く重要な地理学者とされ、その地図もアントワープで出版されている一人に、アブラハム・オルテリウス(1527-1598)がいる。彼はアウグスブルグの有力なオルテリウス一族でアントワープに生まれた。1547年地図の印刷士としてシント・ルーカス・ギルドに登録もしているが、1554年古書と古美術を扱う商人として西ヨーロッパをあちこち旅している。1560年にはメルカートルとドイツのトリーア、フランスのロレーヌ、ポワティエをともに旅した。以降、地理学者の活動に専念、そして1570年、アントワープで一番古くから出版業を営んでいたジリス・コッペンス・ヴァン・ディーストのもと、世界初の世界地図帳「世界の舞台(Theatrum Orbis Terrarum)」を刊行した。

 「世界の舞台」は53枚組の地図で、著者として87人の名が挙げられた。彼の亡くなる1598年までに少なくとも25回は再編されている。1595年版には日本も加わった。

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6.近代解剖学の父

 ベルギー・オランダ語圏で選ばれた「最も偉大なベルギー人(De Grootste Belgen)」10人の中にもう一人、16世紀生まれがいる。近代解剖学の父と呼ばれる、1514年生まれのアンドレアス・ヴェサリウスである。

 ヴェサリウスは医学史上抜きん出た人物として詳しい研究がなされている。しかし一般的知名度は低く、日本語で書かれた貴重な一冊、坂井建雄氏の『謎の解剖学者 ヴェサリウス』(ちくまプリマーブックス132)も絶版になっている。それを有難いことに、長野県松本市の相澤病院 傷の治療センター、夏井睦先生が本を解体してPDFファイルを作成されており、ご厚意により読ませて頂くことができた。まずはここに感謝の意を表しておきたい。

 アンドレアス・ヴェサリウスはルーヴァン大学でラテン語、ギリシャ語、文学、哲学、修辞学といった当時の一般教養を、そしてパリで医学を学んだ。それから一度ベルギーに戻った。神聖ローマ帝国と争うフランスで、神聖ローマ帝国の領土であったブラッセル出身の彼は敵国の国民であったから、卒業を待たず帰国せざるを得なくなった。彼はパリ時代から、墓地で野犬に襲われる怖い思いをしながらも骨を拾い集めたし、ベルギーのルーヴァンでも、町の外の絞首台から罪人の死体を盗みもした。人体構造への飽くなき探究心が成せた業であろう。それから医学の先進地パドヴァへ赴いた。そこで医学士の資格授与と同時にパドヴァ大学の外科兼解剖学の教授に抜擢された。23歳という若さにしての快挙である。

 パドヴァ大学では、貴族らの検死のための解剖や、講義における死刑囚の遺体の解剖といった実際の経験を積んで、1543年、スイスのバーゼルにて『人体の構造7巻(De humani corporis fabrica libri septem)』を出版した。人体の完全な解剖を示した世界最初の本であった。ほぼ現在のA3判にあたる大きさで、骨格人体、筋肉人体などの図をとりまぜた609ページに上る分厚い本である。

写真6-1:『人体の構造 第7巻』表紙
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写真6-2:『人体の構造 第7巻』より、人体筋肉の図
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 当時の解剖学は古典医学を注釈するもので、2世紀の医者ガレノスの理論が1500年代になってもそのまま常識とされていた。ガレノスは古代ギリシャ都市、現トルコ領のペルガモンに生まれた医者で、のちにローマで公開解剖を行っている。当時人体の解剖は許されず、サルやブタを代わりに解剖する、というものだった。

 1300年以上の時を越えて、ヴェサリウスが3年過ごしたパリ時代でもなお、解剖の実施は3日にわたる粗雑なものを2回のみ、という少なさで、授業は古典文献に書かれていることの確認作業であった。

 ヴェサリウスはガレノスを信奉しており、そのギリシャ語の原典をラテン語に訳して出版するという貢献をしているし、パリ時代の教師を称賛してもいるが、この本の中では結果として、上記のようなガレノスを批判し当時の解剖学のあり方をも否定したため、彼は非難され反発を招いた。文献が正しいと信じて疑わず、文献と実際の人体構造とに差異があれば文献が正しい、と解釈する人々の中にいて、彼は書物の中ではなく、自分が解剖し自分の目で見たものそのものに真実があるとして『人体の構造7巻』を書いたのである。科学者の観察眼をもって建設的な批判を行ったこの行為は、中世の、神中心の在り方から、自我を主張する人間中心の近代的生き方への転換期、ルネッサンスと呼ばれる新しい精神風土に呼応する。ヴェサリウスが「近代解剖学の父」と呼ばれる所以である。

 非難され反発された一方で、若い学生たちを中心にヴェサリウスは圧倒的な支持を得たし、医者として、解剖学者としての名声も得た。

 出版後はパドヴァ大学を辞めて、曽祖父、祖父がそうだったように宮廷の侍医になって、カール5世、その退位後はスペイン王フェリペ2世に仕えた。

 なお、このたび絶版のヴェサリウスについて書かれた本を読ませて下さった夏井氏も、どれだけヴェサリウスの本がその時代画期的なものだったか、一目でわかる図入りで秀逸な読書録を残しておられるのでここに紹介しておく。

http://www.wound-treatment.jp/wound144.htm

 また夏井氏よりご好意のお申し出を頂いている。

 その絶版本『謎の解剖学者ヴェサリウス』をお読みになりたい方は、氏宛て、メールにて直接ご連絡いただきたい。

wound_treatment@yahoo.co.jp

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7.『薬草図鑑』

 アントワープ州の東に位置するスヒルデ市とスグラーヴェンウェーゼル市が共同管理している、「ドドゥーンスの庭」という名の薬草園がある。16世紀の植物学者レンベルト・ドドゥーンスの『薬草図鑑』に記述のあるハーヴを集めたルネッサンス様式の庭である。このあたりは14世紀から富裕な商人や貴族が町の喧騒を逃れ自然を楽しむ屋敷を構えた緑豊かな別荘地であった。

 「ドドゥーンスの庭」を含む42ヘクタールの広さの土地は16世紀末以来、ヴァン・デ・ウェルヴェ家のものだった。それを1952年に市が買い上げ、かつて屋敷の家庭菜園だった場所にその庭が造られた。1977年から市民に開放されている。

 レンベルト・ドドゥーンスはレンべルトゥス・ドドネウス Rembertus Dodonaeusという名のほうが日本では馴染みがあるようである。16〜17世紀の印刷屋モレトゥス氏が本名はムレントフのところ、ラテン語名も名乗ったように、レンベルトもそうした。植物学者であった彼が、植物の科名であるSapindaceae(ムクロジ科)、あるいはEpilobium dodonaei( アカバナ科)に因んで選んだといわれている。 

写真7-1:ドドゥーンスの肖像画(ライデン・テイラー博物館のサイトより)
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 ドドゥーンスは解剖学の父、ヴェサリウスに並んで植物学の父と評されていいかもしれない。1517年メヘレンに生まれ、ルーヴァン大学で植物学、宇宙形状論、地理学、ギリシャ語、ラテン語を学び、1554年に『薬草図鑑』を出版した。715点の図入りの植物は、彼によって6つのグループに分類されている。植物の分類の草分け的存在でもある。206人の植物学者の研究書を入念に調べ上げ、間違った記述を訂正し、また自らの研究も重ねてより充実した改訂版の発行を繰り返した。

写真7-2:『薬草図鑑』表紙
 

 ドドゥーンスは真実を追究する強い意思を貫いて、進取の精神に富んでいた。植物学で25冊、医学の分野で8冊、宇宙論で2冊の本を残し、衛生についての助言集の中では民間に根付いている迷信と先入観を否定した。当時の植物学の本の中には「悪魔によって賢者の足元に植えられる植物がある」などといった記述があるものもあって、それが真実としてまかり通っていた時代である。戦争、宗教対立の混乱の中で、中世から行われていた魔女狩りが計画的組織的に行われ最盛した16世紀17世紀に、彼の『薬草図鑑』は一部の者にとって不都合なものであっただろう。しかし彼は宗教上、思想上の批判に屈することなく、そのことがなんら研究の妨げになることもなかった。

 この本がオランダ語で書かれた、という点も評価されている。大学で特別な教育を受けた、ごくごく一部の者だけが読むことの出来る、特権階級的な知識層のラテン語ではない、民衆の言葉である。世に広く受け入れられた一因であると同時、後世彼に、社会的評価を与えた理由になっている。個人的には富裕な商人や、オランダ評議会議長ヴィグリウス、スペイン王フィリップ2世の下の評議員秘書ヨアヒム・ホッペルとの交友関係があったが、自身はあくまでも、誰からも何からも揺らぐことない研究熱心な科学者の他なかった。後の1575〜1578年はウィーンの皇帝侍医を務め、1582年ライデン大学に呼ばれて教壇に立ち、そこで病理学の教授となった。

 『薬草図鑑』のほうは1557年に友人、カロルス・クルシウスが訳したフランス語版、1583年にはラテン語版が出版された。医師で16ギルド、パン屋で12ギルド、靴の職人3.5ギルド、女中1.5ギルドという月給だった当時、この本1冊が2ギルドした。

 1652年、ヨーロッパのはるか東、鎖国体制が確立した日本へも、大目付井上筑後守のもとに『薬草図鑑』が届いている。ポルトガル語版を注文したのが送付されたのはオランダ語版で、読めるものはいなかった。1655年に再び井上あてに2冊目の『薬草図鑑』が送られ、小田原城主稲葉美濃守正則も日本における『薬草図鑑』の3冊目を手にしたが、挿絵が小さすぎて質も良くないと本を返品してしまった。17世紀になると蘭学が栄え、『薬草図鑑』は長崎出島のオランダ商館長から将軍へ献上されたり、18世紀には野呂元丈により日本語に訳された『阿蘭陀本草和解』の8巻になった。

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8.アントワープのゴシック建築

 市役所に向かって右手に一本入った裏通り、ルッカース広場と一区画おいたところに証券取引所の跡がある。当時は裏通りと呼ぶには忍びない、世界の経済の一大拠点だったアントワープの、そのまた経済の中心地だった。15世紀半ばには約2万人だった人口が、16世紀になると5倍の100万人に増えた。毛織物取引を筆頭にあらゆる商売に携わる人々が事務所や店を構え、アントワープは栄えに栄えた。市が土地を買い取って16世紀の初めに証券取引所を建て、近代的な証券取引が始まった。

 今はアントワープの財務局が入ったモダンなオフィスビルに様変わりしたが、通りの名はアウドブールス(Oudebeurs)といって意味は「旧証券取引所」そのままの名である。ホフ通り(Hofstraat)と交差する角にあり、ホフ通りから当時の中庭とそれを囲む壁の一部が残された場所に入ることができる。ホフは中庭を意味する。

写真8-1 旧証券取引所の中庭 (※画像をクリックすると拡大されます)
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 建物は伝統的な煉瓦と砂岩を組み合わせた造りで、三方を後期ゴシック様式のアーケードに囲まれ、アーケードの支柱には装飾的な模様が施されている。設計はドミニクス・デ・ワーゲマケレ(1460-1542)と考えられている。

 この証券取引所は1526年には早々に手狭になって、1533年に閉鎖した。そして翌年、代わりに建てられた証券取引所は市役所から歩いて5分ほどの場所に移った。建物内部でつながるようにして海運取引所と隣接している。こちらは明らかにドミニクス・デ・ワーゲマケレの設計による。「証券所の母」と異名を取るこの建物は、その名の通り、アムステルダム、ロンドン、リールの証券取引所のモデルになった。

 1581年焼失したが2年後の1583年には同じ設計図で再建され、19世紀になって再び焼失したときも、もともとの設計図のまま再建された。

写真8-2 証券取引所 入口 (※画像をクリックすると拡大されます)
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 ドミニクス・デ・ワーゲマケレは父ヘルマンのもと、肉屋のギルドハウスの建築にも携わっているほか、アントワープの名だたる建築物を手がけた。すべてゴシック様式をとっている。

 ドミニコ会の修道院だったシント・パウルス教会、ルーベンスがイザベラと結婚式を挙げ、その娘クララの洗礼を行ったシント・アンドリース教会、そして後にそのルーベンスが眠ることになるシント・ヤコブス教会。

写真8-3(左) シント・パウルス教会 (1968年火事により焼失、再建された)
写真8-4(右) シント・アンドリース教会
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 シント・ヤコブス教会はまず父、ヘルマンに始まり、続いてその二人の息子ドミニクスとへルマン(父と同名)が手がけ、ロンバウト・ケルデルマンに引き継がれた。予算の都合で塔は完成していない。

写真8-5 シント・ヤコブス教会 (※画像をクリックすると拡大されます)
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 大体ブラバントゴシック様式の完全な塔はベルギーに2本しかない。その1本がアントワープ大聖堂の塔で、これもドミニクスが、ロンバウト・ケルデルマンと組んで設計した。123メートルの高さで、21世紀のアントワープで今も一番高い建物だ。八角形の瀟洒な塔は本来2本建つところが、予算の都合上1本で終わってしまった。(ブラバントゴシック様式の完全な塔のもう1本は、ヤン・ヴァン・ルイスブルックとヤコブ・ヴァン・ティーネンが手がけたブラッセルの市役所の塔である。)

写真8-6(左) アントワープ大聖堂
写真8-7(右) 大聖堂の塔 部分
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 イタリアに開花したルネッサンスは建築にも新たな様式を生み、アルプスを越えたアントワープには1540年ごろ現れた。古代ローマ時代に通じる左右対称性を建築美とした、規則的で幾何学的な平面を特徴とする。代表的建築物はアントワープ市役所で、1561年から1564年にかけてコルネリス・フローリスによって建てられた。

写真8-8 アントワープ市役所 (※画像をクリックすると拡大されます)
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 一方ルネッサンス様式のひとつ前のゴシック様式は、教会建築における技術的進歩に基づいている。教会はキリストを象徴する十字型をしている。大きく取られた窓、その窓を並べるべく巨大な空間を囲うことになった壁を支える、バットレス(英語でButress)と呼ばれる支柱、天に導くように空高くそびえる尖塔を特徴とする。

 そんなゴシック様式最後の時代、ドミニクス・デ・ワーゲマケレはアントワープに今も残す、見事なゴシックの花を咲かせた。

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9.アントワープの町の名の由来と聖母マリア

 聖母マリアはアントワープの町の守護神である。今のアントワープ市役所は16世紀、アントワープ出身の建築家コルネリス・フロリス・デ・フリントによって建てられた。コルネリス・フロリスによるもともとの市庁舎上部中央には、伝説の勇士ブラボーの像があったが、ほどなくカトリックのイエズス会の進言によりブラボーの像は取り壊されマリアの像に換えられた。

 宗教改革は嵐のごとく、聖書に立ち返る教えゆえ、偶像崇拝の根絶を唱えたプロテスタントたちが教会内部の像や聖遺物を破壊した。その後この地が再びカトリックの地として収まると、今度はカトリック側の反宗教改革の嵐が町に渦巻いたのだった。そしてかつてないほど豪華な内装の教会がいくつも建てられ、アントワープの町はより、カトリック色の強い町に作り変えられていった。

 ブラボーの伝説はアントワープの町の名の由来といわれている。

 アントワープのスヘルデ川に、巨人アンティゴーンが住んでいた。この巨人は川を渡るものから通行税をとり、払えないものがいるとその手首を切り落とし川に投げ捨てた。ある日ローマの軍人、ブラボーがやってきて巨人を倒し、巨人が人々にしていたようにその手首を切って川に捨て、町の人々を重税と手首を切り落とされる恐怖から救った英雄となった。

 アントワープは地元の言語、オランダ語でAntwerpenと書く。このブラボーの英雄談、Hand(ハント=手)とWerpen(ウェルペン=投げる)から、「手を投げる」という意味でアントワープといわれるのだ、という説である。

 しかしもう一つの説のほうが信憑性が高いとして、歴史家たちの支持を得ている。

 かつて市役所から最寄のスヘルデ川には、土地が突出して川に入り組んだ部分があって、スヘルデ川を行き来する船が寄せられた。アントワープの歴史が始まった場所である。そしてその土地は、地元でaanwerfまたはaanwerpと呼ばれていた。これが今のAntwerpenの名の由来、という説である。

 それでも町の人々は一般的にブラボーに愛着があり、こちらの話を好んでするようだ。絵葉書にもそう書いてあるし、アントワープのみやげもの屋、チョコレート屋、パン屋には、手の形をしたチョコレート、クッキーが売られている。アントワープの地ビール、デ・コーニンクの醸造所のマークも手の柄だ。アントワープの市のワッペンの柄は城と手の形がついたもので、これもブラボーには関係なく、友好と親善を表す手なのだという説明もあるが、「これはスヘルド川沿いにあるステーン城と、ブラボーの切り落とした手」と教わることのほうが多い。

 アントワープの市役所前には今、取り壊されたブラボーに代わって堂々、噴水に姿を変えた、勇ましくも美しいブラボーの像がある。19世紀末の彫刻家ジェフ・ランボーの作品だ。

写真9-1:ブラボーの像と市役所のマリア像 (※画像をクリックすると拡大されます)
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 ブラボーに代わって置かれたマリアのほうは、設計に含まれていなかったゆえサイズが不釣合いで、よくよくみると市庁舎の上で、頭がつかえた感じがしなくもない。とはいえ町の人々のマリア信仰はまた、この地に深く根付いて今の時代に続いている。

 1913年、アントワープは聖母マリアの町にちなんで、ヨーロッパの多くが祝う5月の母の日とは別に、カトリックで聖母マリア被昇天の祝日である8月15日を母の日と設定した。8月15日、市役所前にはルーベンスの時代の格好をした人々が市場を出す。町には5月の第2日曜同様、カーネーションの花が並んでこの母の日がすっかり定着していることがうかがえる。

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10.ベルギー巡礼の地

 聖母マリア信仰はアントワープに限らない。アントワープから東南に向かって60Kmほどのスヘルペンフーヴェルという町に、ベルギーで最も巡礼者が訪れるマリア信仰のバシリカ風の教会堂がある。マリアが現れ、お告げ通りに湧き出た泉の水に治癒力があるとされるフランスのルルドと比べたら規模は随分小さいが、周辺は日本の神社仏閣の周辺同様、マリア像やペンダントなどを売る店が並んでいる。

写真10:スヘルペンフーヴェルの教会堂 (※スヘルペンフーヴェルの公式サイトより。画像をクリックすると拡大されます)
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 中世、ジーケムとディーストという二つの町の間にある丘の上に、十字の形をした樫の木があった。その姿ゆえ人々は、木にマリア像を掛け祈りの対象とした。ある日羊飼いがマリア像が地面に落ちているのを見つけ、持ち帰ろうと思って手にした途端動けなくなった。戻らぬ羊飼いを心配して探しにきた親方が、樫の木の下で固まっている彼をみつけ、マリア像を元通り木に掛け戻すと、呪縛が解かれたように羊飼いはまた、動けるようになった。

 スヘルペンフーヴェルは「尖った(Scherpen)丘(heuvel)」という意味である。この話はたちまち広がり、やがて「尖った丘の上のマリアと羊飼い」は絵に描かれるようになり、人々はマリアの不思議な力、とりわけ病を治す力があると信じるようになった。また、1603年、リールの町のカテリーヌに起こったエクソシスト現象のようなもの「彼女の口から悪魔の声で悪魔の言葉が出る」にも、この木の下でマリアに拝めば悪魔は祓われる、と信じられて悪魔払いの場にもなった。

 1602年、樫の木の横に木造の礼拝堂が建てられ1604年、メヘレンの大司教書記フィリップス・ニューマンの『奇跡の歴史』という本に取り上げられ、オランダ語フランス語英語スペイン語に訳され出版されたことで、西ヨーロッパ全域にこの地が知られることとなった。

 そのマリア像は、スペインと北オランダの80年戦争(1568-1648)の被害を受け1580年に消失、現在のものはその7年後に置かれた2代目である。この戦争はプロテスタント対カトリックの宗教戦争、あるいはオランダの独立戦争といった側面が強調されるが、その戦場となったベルギーの歴史からみれば結局は、両者の境界線を引くまでの勢力争い領地争い、なんら他の戦争とかわりないものに見える。

 1603年建てられたばかりの礼拝堂がオランダ北軍、つまりプロテスタント・カルヴァン派の略奪にあった。マリア像はイエズス会信者たちの手で安全な場所に移された。その2ヵ月後、オーストリアからのスペイン軍がカルヴァン派の追放に成功すると、マリア像も無事元の礼拝堂に戻された。

 同年11月、というから時期的にはこのマリア像が戻された頃と重なるだろう。スペイン軍がオランダのセルトヘンボスで勝利を収めると、すでに巡礼の地として名高かったこのジーケムの丘の礼拝堂に、この地を治めていたオーストリア皇太子アルブレヒト大公とイサベル妃がやってきて、マリアへ感謝を告げ、すでにたくさんの巡礼者を収容しきれなかった小さな礼拝堂の代わりに石の礼拝堂を建てることにした。1609年の完成である。

 もともとマリア像がかけられていた樫の木はもうない。年号は定かではないが1610年前後の頃と思われる、樫の木は老いて丸坊主になり、自ら倒れる恐れがでたので、アントワープの司教により切り倒されることになった。

 昔の人の言い伝えで、樫の樹皮は薬になるとされており、この木の皮を削り崇めて口にするものもいた。そうした土地ごとの民間伝承や古代からの伝統的信仰を教会はキリスト教に関連付け、伝道に利用してきたのは周知の事実だが、この樫の木とマリア像の関係も、そうしたひとつと考えられている。

 いずれにしても教会側はすでに樫の木を必要とはしなかった。むしろ、マリアの口が血で濡れているのを見た、という者がでて、それはプロテスタントに改宗した罪をマリア様があがなっているのだろう、という噂が出て広まった。

 それから切り倒された樫の木から、新たに数体のマリア像が作られ、しかるべき場所に寄贈された。そのひとつ、リュクセンブルグにあるイエズス会の学校へ奉納されたマリア像の複製が作られ、街を取り巻く壁の外にある礼拝堂にかけられると、悲しみを癒すマリアと信じられ、新たな巡礼の地となった。

 やがてこのリュクセンブルグのマリアの献身の図が、1642年以降オランダ国境近いドイツのケーヴェラールに登場すると、これもまた、新たな巡礼の対象となった。

 1604年発行の、フィリップス・ニューマン『奇跡の歴史』が数ヶ国語に訳されたからといって、一般の人々の間でその時代に文字を読めた人がどれだけいたというのだろう? リュクセンブルグを経由してケーヴェラールに影響を及ぼしたスヘルペンフーヴェルのマリア伝説の伝播の速さとその影響力の強さは、宗教改革のあとのベルギーにおけるカトリック勢力の強さを示すであろう。

 この教会堂を奉納した後アルブレヒト大公がこの地を再び訪れることはなかったが、イサベラ妃は礼拝堂の聖別式(1627年)の後再びこの地を訪れている。そのとき妃は手にいっぱいの金や宝石を主祭壇のステップに撒きマリアに捧げた。これに倣って主祭壇のステップには、今も投げられたコインが散らばっている。

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山内佐和子:ベルギーの歴史と文化 vol. 1

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