bogomil's CD collection: 020

クラヴィコードで聴く、バッハ:《フランス組曲》

Bach: The French Suites

 J.S.バッハ自身は主に3種類の鍵盤楽器を演奏した。パイプオルガン、チェンバロ、クラヴィコードである。特殊なものとしてはガット弦を張ったチェンバロを持っていたというし、晩年には初期のピアノも数回、演奏したと伝えられているが、バッハが主に演奏したのは上述の3種だったと考えられている。したがってバッハの鍵盤作品は、この3つの楽器のいずれかで演奏するために書かれたということになる。

 しかし個々の作品が厳密にどの楽器で演奏されたのか特定するのはむづかしい。そもそも、バッハ自身が自分の曲すべてについて排他的に特定の楽器を想定していたかどうかもよくわからない。バッハの鍵盤作品のうちオルガン用と他の2種の楽器用の作品の区別は比較的容易だ。バスの声部が足鍵盤を用いなければ演奏できないような書き方がなされていれば、それはまずオルガン用と考えて差し支えない(ただし、バッハはオルガン曲も3段譜ではなく、2段譜で書くこともあったので、この区別も絶対的なものではない)。

 残る作品はチェンバロかクラヴィコードで演奏された。「2段鍵盤で」と指定されていたり、曲中にf、pの表記があれば2段鍵盤チェンバロ用である(この場合のf、pは、2つの鍵盤の対比を意味する)。またヴィヴァルディの協奏曲のように、ソロとトゥッティで演奏されるスタイルで作曲されているもの、手が交差するものも2段鍵盤チェンバロ用だ。《イタリア協奏曲》、《ゴルトベルク変奏曲》、《イギリス組曲》などが、このタイプに属する。

 チェンバロは非常に華やかな、銀の鈴を鳴らすような響きに特徴があるが、音量は均質であり個々の音に強弱を付けることができない。鍵盤交替によって可能となる強弱変化はもさほど大きなものではなく、中間の強さを出したり、クレシェンドやディミニュエンドすることはできない。したがって華麗で技巧的な作品には向いているが、微妙な陰影の表現はむずかしい。

 これに対しクラヴィコードでは、ごくわずかだが個々の音に強弱を与えることができ、クレシェンドのような無段階の音量変化が可能だ。クラヴィコードでは小さな鉄片(タンジェント)が弦をたたくことによって音が出る。打弦という点ではピアノと同じ。しかし大きな違いがある。ピアノでは振動する弦の張力と長さがあらかじめ決定されているが、クラヴィコードでは打鍵して初めて、タンジェントと片側のピンまでの弦長が決り、振動する。そして、このときの弦の張力はキーの押え方で微妙に変化する。

 このためにクラヴィコードでは強くキーをたたくとややピッチが上がり、弱くたたくとピッチが下がる。このためにクラヴィコードの演奏はピアノやチェンバロよりもはるかにむづかしい。打鍵には極度に神経を使う。また音を保持するためには、打鍵後も一定の力でキーを押し続けなければならない。タンジェントが弦を確実に押えていないと、ピッチが変化したり、音がビリついてしまうからである。

 しかしこの発音機構の性質から、クラヴィコードでは他の鍵盤楽器では不可能な効果を出すことができる。打鍵後、キーを押す指の力を変えれば、なんとビブラートをかけることができるのである(ベーブング奏法)。また三味線や箏のように、発音後にピッチをわずかに下げたり上げたりすることもできる。バッハが実際にどの程度、音を変化させたかは現在では不明だが、息子のエマヌエルの残した記述から推測して、なんらかの方法でこの効果を用いたことは充分考えられる。

 さてこのような特殊な性格を持つクラヴィコードではあまり複雑な音楽は演奏できない。したがってバッハの鍵盤作品のうち、比較的簡単そうに見える曲はクラヴィコード用の可能性がある。《インヴェンションとシンフォニア》、《フランス組曲》、そして《平均律クラヴィーア曲集》の一部は、クラヴィコードを意図した可能性がある。中でも《フランス組曲》はクラヴィコードで演奏したとき、独特の効果を上げる。これまでLPでしか聴けなかったサーストン・ダートの歴史的名演(1961年録音)が1992年にCD化されたので聴いてみよう。

 第1番ニ短調のアルマンド。高音にわずかにヴィブラートがかかる。特に第9小節右手のhやaはゾクッとする。サラバンドになると和音の連続が独特のピッチの「ゆれ」によって表情豊かになり、平板にならない。特に第9、13小節の和音は、なんともいえない味わいだ。ピアノやチェンバロではピッチが正確に維持されるので音に透明感があるが、それは冷たい響きにも感じられる。一方クラヴィコードではピッチが不安定になるものの、その分人間的な感じがするから不思議だ。もちろん《フランス組曲》をチェンバロで弾いてはいけない、ということはない。たとえばクーラントやジーグ、中でも第5番のジーグなどは、チェンバロで華やかに一気に突っ走るのも爽快だ。

 ところでクラヴィコードのCDを再生するときは、できるだけ音量を小さくしなければならない。低音が、「ベンベン」といった感じで気になるようだと音量過大だ。クラヴィコードの音は、演奏者自身にさえかすかにしか聴こえないほど繊細な音だからである。さらにCDを聴く時間帯にも制限がある。一般的な日本の環境では騒音の多い昼間はとても聴けない。おそらく深夜に聴かなければならないだろう。

 クラヴィコードが極めて個人的な楽器で、人に聴かせるにしても10〜20人が限度だろう。しかも極度の静寂が要求される。とてもコンサートホール向きではない。チェンバロよりもさらに静粛な音環境を必要とする楽器だが、逆に騒々しい現代社会は「クラヴィコードが演奏できる音環境」をめざさなければならない、ともいえる。


Discography:

フランス組曲/イタリア協奏曲
ダート/マルコム
LONDON POCL-2883 436 777-2

92/11 last modified 03/07


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