bogomil's CD collection: 015

リゲティ:《アトモスフェール》
——聴覚を鋭敏に

Ligeti: "Atmosères"

 今年(1992年)の夏も、多くの人が国内旅行、海外旅行に出かけたようだ。そして、おそらくその大部分はいわゆる観光旅行だったのだろう。「観光」とは「景色を見る」ということ。英語ではsight seeingだ。食べたり、飲んだりも旅行の楽しみのうちだし、最近では買い物も旅行の楽しみのひとつになってきているようだが、それでも、ほとんどの人は何かを「見に行く」のである。

 では目の見えない人はどうするのだろう。「観光」とは無縁なのだろうか。そんなことはない。目の見えない人は確かに景色を見ることはできない。しかしその場所の空気感、音、におい、風などを、目の見える人よりもはるかに敏感に、細やかな感覚で感じるという。知人のT氏は目が見えないが、彼と話していると、視覚以外の感覚が非常に研ぎすまされていること、そして周囲の状況を目の見える人とは違った方法で認識していることに驚かされる。

 たとえば、学生食堂の話。彼の行っていた大学には2つ学生食堂があるが、彼にいわせると、ひとつは「音の響きが不快」なのだそうだ。特に音楽を流しているわけではなく、人々の話し声や、食器の音、椅子の音などが、不快に反響して聴こえるらしい。この話を聴いてからしばらくのあいだ、行く先々で、音に集中してみた。確かに違う。概して都会の食堂、レストランはやかましいが、部屋の大きさ、天井の高さ、床の材質によって響きが変わるし、足音も変わって聴こえる。そして、くつろげる店というのは、やはりあまり音が反響しないところであることもわかった。しかしこういったことは、以前はほとんど気にしていなかったことである。

 戸外の音についても、注意深く聴くといろいろなことがわかる。たとえば雪の降る日は町が静かになったような気がしないだろうか。人々が外に出なくなる、ということもあるだろうが、なんとなく周囲の音が違って聴こえる。このことについても、T氏がおもしろい話をしてくれた。彼は雪の積もった道を歩くのが苦手だという。目の見えない人は杖を使って歩くが、あの杖はただ単に障害物や道の段差を探っているだけではなく、杖でたたく音の響き具合から、周囲のおおよその広がりもわかるのだそうだ。それで雪が積もると、いつも歩いている道でも音の響きが変わってしまい、ありもしない場所に、塀や建物が立っているように聴こえることがあり、困惑するのだそうだ。

 こういった感覚は、おそらく本来人間なら誰でもが持っているのだろうが、どうも最近は視覚が優先されて、聴覚能力が退化しつつあるような気がする。そして視覚と聴覚のバランスが極端に視覚側に傾くと、弊害も起こってくる。たとえばテレビのコマーシャル。素敵な若い女性あるいは男性がでてきて、微笑みながら商品について語る。つい心が動いてしまうが、目の見えない人は、違った捉え方をする。話している声だけ聴くと、誠実さが感じられず、その人が本心から語っているのではないことがわかるのだそうだ。早い話が心にもない「嘘」を言っていることがわかるのである。なまじ目が見えると、外見にコロリとだまされてしまうものらしい。

 この法則を適用すると、電話で話したときに好感の持てる人は、人柄のいい人、といえるかもしれない。しかし、これを逆手にとって、より真実味のある作り声でだます、というテクニックもあるから、あまりあてにはならない。

 いずれにせよ、私たちは注意深く見ると同時に注意深く聴かなければならない。特に視覚優先のメディアの洪水の中では、聴覚を鋭敏にしなければならないだろう。そのためにはまず自分自身の周囲を聴覚的にクリーンにしておく必要がある。自分自身が無神経な音を出してはならないし、周囲の無神経な音を少しでも減らすように努力するべきだ。ついてながら付言しておくと、「周囲の無神経な音」には音楽も含まれることを忘れてはならない。ある人にとっては快適な「音楽」であっても、それを聴きたいと思わない人にとっては騒音、雑音以外の何物でもないのである。

 今回は聴覚を鋭敏にするために、一風変わった現代音楽、G.リゲティの《アトモスフェール》を紹介しよう*。この曲、最初から最後まで、微妙に音の塊=クラスターが変化していくオーケストラ作品で、タイトルは「雰囲気」、「大気」といった意味。いずれも目に見えるものではなく、つかみどころがなく、しかも微妙だ。よく考えてみれば、音楽も、似たようなもので、私たちを取り巻く雰囲気といってよいだろう。この曲、最初は漠としてわけがわからないが、聴覚を最大限、研ぎすまして聴いていくと、少しづつ茫漠とした響きの内部のデリケートな音の変化がわかるようになる。聴くごとにどこか違った響きに感じられる不思議な曲だ。


*Discography:

Wien Modern-Ligeti/ Nono/ Boulez/Rihm
Gramophon 429 260-2

89/9 last modified 02/6


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