bogomil's CD collection: 013

映画《人間ベートーヴェン − その生涯のある日々》
——作曲家は偉大?

"Beethoven - Tage aus einem Leben"

 どうも私たちは個人の特定の才能や能力を拡大解釈して全人的な評価を下しがちだ。たとえばプロ・スポーツの有名選手が賭博行為で摘発されたとする。すると、しばしば新聞などに「青少年に夢を与えるスポーツ選手がこういうことではけしからぬ云々」というコメントが掲載される。しかしよく考えてもみてほしい。スポーツの才能や能力があるからといって道徳的・倫理的に高潔な人物である、という保証はどこにもない。

 むしろ専門的な技術の鍛錬にのみ努力してきたような選手は、えてして社会性が欠如し、また若くして多額の報酬を得るようになれば金銭感覚がマヒし、不法行為に走らないまでも庶民ではとても手の出ないような高級外車を乗り回したり、というような贅沢な生活に溺れるケースも見受けられるのである。

 音楽の分野では、ときおりロック・ミュージシャンなどの薬物使用の問題が物議をかもす。これは現在の世間の常識では不道徳とされることだが、もともと音楽の官能性や快感というのは、ある種の薬物がもたらす幻覚などと紙一重のところにあるのかもしれないし、古くから呪術や宗教儀式において、薬物のもたらす高揚感から音楽が生まれることもあったのだろう。

 音楽の在り方というのは、必ずしもすべてが権力や体制の側から見て「健全」で「道徳的」なものではない。ここだけの話だが、某国の著名なクラシックのオケが帰った後の楽屋に、マリファナを吸ったとおぼしき痕跡が残されていた、という話を聞いたこともある。

 さて、かつて「偉大な作曲家」というタイトルのCDブック全集が書店に並んだことがあった。しかし、ほんとうに作曲家は「偉大」なのだろうか。確かに、いわゆる大作曲家の残した音楽は「偉大」だ。しかし、もしそうならば「偉大な曲の作曲家」というべきであって、「偉大な作曲家」という表現は適切ではない。「偉大な作曲家」といってしまうと、全人的に「偉大」という意味に解釈されてしまうからだ。

 たとえばベートーヴェンの場合。彼の残した交響曲、室内楽、ピアノソナタは「偉大な芸術作品」と呼んでよいだろう。しかし、だからといって一個の人間としてのベートーヴェンも偉大だった、といってよいものだろうか。

 彼が不潔でだらしなく、どこでもかまわずつばを吐き散らし、偏屈でわがまま、演奏会の収入が少ないと、友人が横領したのではないかと疑う猜疑心の強い人物だったということは、もうかなり以前から知られていることだ。また耳が聴こえなくなっても作曲したということがよくベートーヴェンの「不屈の精神」を示す例として取り沙汰されるが、いくら現代ほど医療が発達していなかったとはいえ、そうそう簡単に耳が聴こえなくなるものだろうか。

 D.ケルナーによると、ベートーヴェンはしばしば下痢に悩まされ、膵臓が肥大し、直接の死因は肝硬変だった。聴覚の異常は26歳ころから始まっており、デスマスクを見ると、頭蓋骨に隆起が見られるという(『大音楽家の病歴』音楽之友社、1974、原著は1969刊)。そしてケルナーは、これらの症状はベートーヴェンが梅毒だったことを示している、と結論づけている。ケルナーは、この梅毒が先天性か、あるいは後天性か、という判断は保留しているが、いずれにせよベートーヴェンの難聴が梅毒によるものだったとしたら現代の一般常識からするとあまり名誉なことではない、ということになってしまう。

 誤解のないように言っておくが、ここで筆者は決してベートーヴェン個人や彼の音楽を貶めるつもりはない。ただ「偉大な曲を残したからベートーヴェンは人間的にも偉大だ」というような拡大解釈はすべきではないし、現代の倫理基準や価値基準で彼の人間性をどうこういうべきでもない、ということをいいたいだけだ。本来、作曲家の人間性や個人的な履歴と作品はそれほど強くは結びついていない。

 ところが、作品の自立した価値を説明できないとき、えてして人は作品の価値の起源を安易に作曲家の人間性に求める。「こんなに偉い人だから、こうしたすぐれた曲が書けたんですよ」というわけだが、これは話が逆なのであって、勝手に「こんな素晴らしい音楽を書ける人は、人間的にも素晴らしい人だったのだろう」と憶測しているに過ぎない。

 しかし、この憶測がやがて「彼は人間的にもすぐれていたに違いない」という確信になり、彼に関するすべてがその確信にそって再構成され、彼の伝記はきれいごとだけになってしまう。そして偶像化・神格化が進行し、その結果が再び彼の作品の評価にフィードバックされるという、自己撞着的な現象が起きてしまう。

 この点、旧東ドイツで作られた映画《人間ベートーヴェン》*は、地味ながら一見の価値のある作品だ。前述したようなベートーヴェンの性格をかなり細かく描いているから、「偉人伝」を読んでベートーヴェンは偉い、と思い込んでいる人にはショックかもしれないが、ナスターシャ・キンスキーがクララを演じた映画《哀愁のトロイメライ》でのロベルト・シューマンの描き方に比べれば、かなり史実に近いベートーヴェンを描いている。

 つまりは「いいところも、悪いところも含めて、ベートーヴェンを愛しましょう」という姿勢といってよいだろう。これは自説に都合の悪い面は故意に無視するような評伝よりは、まともなアプローチといえる。ただしこの映画も当然のことながら細部にはフィクションがあり、結果としてベートーヴェンを理想化しているので、これがベートーヴェンの「実像」と思ってはいけない。そもそもベートーヴェンは身長160cmそこそこだったが、この映画に出てくるベートーヴェンはずっと背が高いのである。


*Discography:

音楽劇映画《人間ベートーヴェン−その生涯のある日々》
"Beethoven - Tage aus einem Leben"
DMLB-28、発売元ニホンモニター、販売元クラウン、LD


【追記】

(1)この映画は、いくつかのエピソードが連なったもので、筆者が最初に見たのは抜粋され、編集された日本語字幕付きの市販ビデオだった。やがてオリジナル全長版のLDが発売されたので見たところ、おもしろいことに気付いた。オリジナルには、ベートーヴェンとジョセフィーネが宿屋のベッドの上で語り合うエピソードがあり、シーツでおおわれているものの、ふたりが抱擁し合うシーンもある。また他のエピソードには、ベートーヴェンが夢の中で半裸の女性にうなされる、という部分もある。しかし抜粋版ではこういった部分がすべてカットされていた。販売会社が、中学校の音楽の授業ででも使ってもらおうということでこの種のシーンをカットしたのだとすれば、大したお笑いグサである。

(2)そうこうしているうちに、1995年秋には、またまたベートーヴェンを扱った映画が公開された(今度は犬の話ではない)。まあフィクションと割り切ればいいのかもしれないが、特定の作家なり、映画監督なりの頭の中で作り上げられたベートーヴェン像がまた流布しそうな気配だ。

95/01 last modified 03/07


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