bogomil's CD collection: 041-050

※このページは以下の10編のエッセイを収録しています。

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bcc: 041
オルガン音楽の巨匠たち(1)
--- メンデルスゾーン

1990.04

 日本ではパイプ・オルガンは非常にマイナーな楽器だ。オルガン音楽というと宗教的で地味なイメージが強いことも一因だろう。

 さて、オルガンといえばバッハ。この人を抜きにしてオルガン音楽は語れない。しかし、バッハがあまりにも偉大なために、他の作曲家は少し影が薄くなっているきらいがある。オルガン音楽におけるバッハの市場占有率は第1位で、ダントツ、という感じ。確かに、バッハは偉大だ。しかし、オルガンといえばバッハ、もうこれしかない、となると「なんとかのひとつ覚え」で、視野が狭い。何事によらず独占状態、寡占状態はよくない。

 そこで今週から3回にわたって、オルガン音楽の分野でバッハ以後の重要な作曲家を取り上げてみよう*1

 そもそも、バッハの死とともにバロック音楽の時代は終わり、どちらかというとわかりやすくて単純な古典派の音楽がもてはやされるようになった。この時期に、オルガン音楽の衰退は著しく、バッハの時代までドイツで高度に発達していた足鍵盤の技法も急激に衰退してしまった。

 また、たとえばモーツァルトは自らオルガンを弾き、オーケストラとオルガンのためのソナタがいくつか現存しているが、これらの知名度は、彼の他のジャンルの作品に比べるとはるかに低い。ときおり、演奏会でモーツァルトのかわいらしいオルガン作品が演奏されることがあるが、その大部分は自動オル ガン、つまり一種のオルゴールのための音楽で、本来のオルガン曲とはちょっと違う。

 さて、なかば忘れられかけていたバッハの作品を19世紀に復活させたのがメンデルスゾーンであることはよく知られているが、彼はオルガン演奏も巧みで、バッハのオルガン曲をずいぶん演奏したらしい。さらには自分自身で演奏するためのオルガン曲も書いている。

 オルガン・ソナタ3曲、前奏曲とフーガ3曲をP.ハーフォードが演奏しているCDを聴いてみよう(Mendelssohn: Organ works /Peter Hurford, ARGO 414 420-2)。  

 ハ短調の前奏曲とフーガ op.37-1。 前奏曲には、ちょっと聴いただけではバッハかと思わせるような雰囲気と、がっしりした構築性が感じられる。ジーグ風リズムのフーガもなかなかおもしろい。 全体に足鍵盤も活用されていて、オルガンの表現力が充分に発揮されている。

 しかし、この作品は「バッハ風」ではあるが、やはりバッハの音楽とは違う。 多少、先入観も影響しているかもしれないが、やはり和声が違う。メンデルスゾーンの和声は、よくいえばバッハよりも洗練されているが、悪くいえば、響きが調和し過ぎていて物足りないところがある。つまり、ちょっと角(かど)が取れすぎているようにも感じられる。バッハよりは概して不協和音が少ないのだ。

 基本的にメンデルスゾーンの作品が示している音楽の理念は彼の生きていた時代を反映したものであり、時代精神の上では「擬古典主義的なロマン主義」としてくくれるものだろう。メンデルスゾーンのオルガン作品はどちらかといえば保守的だ。しかしこれはオルガンという楽器の特質からくるもので、妥当な行きかたかもしれない。

 19世紀には、オルガンにオーケストラの真似をさせようとする新らしい傾向も出てくるが、所詮、オーケストラの柔軟な響きがオルガンで出せるわけがない。メンデルスゾーンの保守性は、ことオルガンに限っていえば、プラスに作用したといえるだろう。

 さて、ハーフォードの演奏は適度にサラッとしていて現代的、録音も暖かい響きで刺激的でなく聴きやすい。ロマン派のオルガン曲というと、残響の多いボヤけた録音も多いが、このCDでは残響は適度におさえられ、各声部の輪郭が明確で細部もよくわかる。レジストレーション(ストップの組み合せ)の微妙な違いもよくわかる。

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*1:もちろん、バッハ以前あるいはバッハの同時代にも、取り上げたい作曲家はいる。特にブクステフーデ、G.ベーム、ブルーンス、リューベックのオルガン作品はもっと聴かれてよいだろう。いずれ、機会があれば、このシリーズでも取り上げたい。

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bcc: 042  
オルガン音楽の巨匠たち(2)
--- フランク

1990.05

 ここ10年ほどの間に、日本でもオルガンを備えたコンサートホールがだいぶ増えてきた。結果として、オルガンの演奏会も増えている。しかし…

 そもそも、なぜ欧米では千人規模のコンサート・ホールが作られるようになったのか。産業革命がそもそもの発端であるという説がある。産業革命によって大量の労働者が必要となり、都市人口が急激に増加した。他方、18世紀から19世紀末までは、まだエレクトロニクスが発達していなかったからラジオもレコードもない。だから1回の演奏で利益をあげるためには、大きなホールに大量の聴衆を詰め込む、という方法が必要となり、大ホールが作られるようになった、というのだ。

 そのためにオーケストラは巨大化し、ピアノは大音量を出すために弦を強く張るようになり、オペラ歌手はとんでもない大きな声を張り上げるようになった。それもこれも、ひとりあたりの入場料が安くても、客が多く入れば儲かる、という簡単な原理が通用するから。そう、これはいわば「大量生産」によるコストダウンの原理の、音楽への応用だったのだ。

 もちろんサロンでの、ごく内輪の音楽会もあった。シューベルトのリートやショパンのピアノ曲は、こういった場で演奏されたもので、決して大ホールで演奏するためのものではなかった。

 だから19世紀ならいざしらず、CDやカセット、ラジオ、テレビといったメディアが発達した現代に、数千人規模のホールを作るというのは、あ る意味ではナンセンスだ。特にヨーロッパとは文化的、歴史的背景が異なる日本において、わざわざクラシック音楽用の、それも大ホールを作るというのは時代錯誤。

 さらに、こうしたホールに大型のパイプ・オルガンを設置するのは時代錯誤に加えて、音楽文化の錯誤だ。筆者はオルガン音楽に関心があるが、やはりオルガンは「教会の楽器」、厳密にいえば、「ヨーロッパの教会の楽器」だと思う。音響条件の面で、ホールよりも教会の方がオルガンに適しているからだ。

 というよりも、歴史的に見ればオルガンの方が、建築物としての教会の音響条件に適合するように発達してきた、というのが正しいかもしれない。 いずれにせよ、中規模以上のオルガンにとっては、建築物も共鳴体として楽器の一部といってよい。

 ところが、一般にコンサートホールでは残響が教会よりも短くなるので、オルガンの音がどうしても固く、きつくなりがち。日本のホール、特に地方自治体の作るホールは、しばしば政治家の演説会や講演会で使うことも目的のひとつとなるため、言葉が明瞭に聴き取れることが要求される。このために残響は抑えられ、オルガンにとっては不利な条件となってしまう。

 ベルギーの、あるオルガン製作家に聞いたところでは、欧米でさえ、コンサートホールはデッドになりがちで、オルガン本来の性能を発揮させにくく、コンサートホールで成功したオルガンはあまりない、という。

 加えて日本では、そもそもオルガン音楽はクラシックの中でもかなりマイナーなジャンルだから、演奏会を開いても聴衆が集らない、採算がとれない、だからやらない、ということで、せっかくのオルガン、ホコリをかぶって「宝の持ちぐされ」になるケースが多くなるだろうと筆者は予測している。

 さて、今回紹介するのはフランクのオルガン作品。前回のメンデルスゾーンと同じくP.ハーフォードの演奏するCDで聴いてみよう(CESAR FRANCK: 3 CHORALS etc. ARGO 411 710-2)。

 まず、「前奏曲、フーガと変奏曲」Op.18。ピアノ編曲でも有名なこの曲は、オルガンという楽器の「静かな響き」あるいは「やわらかい響き」を生かし、叙情性を感じさせるところが巧みだ。

 オルガンというと「重低音」とか「大音響」をイメージしがちだが、本来のオルガンのよさというのは、個々のストップの個性、音色の多様性に求められるべきだ。ただ単にストップの個数や鍵盤の段数を競ったりするのは全く無意味といってよい。質のよい30ストップのオルガンは、個性のない100ストップのオルガンに勝るのである。そしてこの曲は、こういったオルガンの質を露呈してしまうところがある。

 さて、このCDの圧巻は「3つのコラール」。特に「コラール第1番」は重厚だ。これは一種の変奏曲で、このCDでは約14分かかる大曲。どちらかというと地味な作品で、派手な技巧をひけらかすようなところはなく、充実した和声の微妙な陰影の変化が聴けば聴くほど味わい深い。何か、人を厳粛な気分にさせる力というか、人生を真面目に考えさせるような、不思議な力がある。

 ショパンが、おそらくピアノという楽器の長所も短所も熟知していたのと同様、フランクもまたオルガンという楽器を熟知していたことがうかがわれる。ともすれば一本調子になりがちなオルガンで、これだけ柔軟に「歌える」というのは驚異的。フランクの和声書法は極めて複雑だが、これが彼のオルガン曲に陰影と深みを与えているように思えてならない。

 さて、このCDはトゥールーズのサンセルナン教会での録音で、カヴァイエ=コルが1889年に製作した楽器を使っている。フランクのオルガン曲は、カヴァイエ=コルの楽器で演奏することを前提として作られているから、この楽器の選択も妥当なものといえるだろう。

 このCDを聴いて改めて感じることは、オルガン音楽は、オルガンをよく理解した作曲家が書いた作品を、すぐれたオルガニストが、それに相応しい楽器で、相応しい場(基本的には教会)で、オルガン音楽を理解する聴衆の前で演奏して初めて成り立つものだ、ということ。

 金満日本、金にあかせてホールやオルガン、そしてオルガニストは買えても、その背景にある音楽文化と歴史、そして何よりもオルガン音楽を愛する聴衆は買えないのである。

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【追記】 96年6月現在では、以下の3種の録音をお勧めする。(1),(2)は1989、(3)は1995録音で、いずれもカヴァイエ=コルの楽器を用 いている。(3)のアランは、例によって、曲の途中からテンポが変わることがあるので、評価が分かれるかもしれない。

(1) Franck: Complete Masterworks for Organ. Michael Murray (Telarc CD-80234)
(2) The Organ Works of Cesar Franck. Jean Guillou (DORIAN DOR-90135 II)
(3) Franck / Great Organ Works. Marie-Claire Alain (ERATO 0630-12706-2)

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bcc: 043
オルガン音楽の巨匠たち(3)
--- マルセル・デュプレ

1990.05

 今回の短期シリーズ「オルガン音楽の巨匠たち」は、バッハの後継者と呼べるような作曲家を3回にわたって取り上げる、という趣旨だ。メンデル スゾーン、フランク、ときて、3人めを誰にするか。ここで「選考委員会」を開いてみよう。   

*****

ボゴミル:ただいまより、3人めの作曲家の選定に入りたいと思います。なお3人めはフランクよりも若い世代、ということでお考え いただきたいと思います。ではA先生から、候補を御推薦ください。

評論家A:やはり、メシアンですね。20世紀最大の作曲家、といってよいでしょうが、オルガンの分野でもかなりの傑作を残しています。あの独特の感性はすばらしい。

作曲家B:僕は該当者なし。ほんとのこというと、オルガン曲あまり知らないんだ。まあ今後、僕がオルガン曲をいくつか書けば、話は変ると思うけど。

オルガニストC:デュプレ、メシアン、ジャン・アラン、この3人で迷いましたけど、デュプレを推薦します。

評論家A:デュプレはちょっと古いねえ。調性の枠を越えていないし。

ボゴミル:確かに、調性の枠は越えていないかもしれませんが、旋法性あり、多調性ありで必ずしも古い、という感じはしませんね。

オルガニストC:調性の枠内にある、というのは決して悪いことじゃないと思うわ。特にオルガンの場合は変に無調的だとイヤな音になるし。それに、デュプレはオルガンの表現の点でおもしろいんですよね、和音の連打とか、スタカートとかを残響の多いオルガンでやると、ちょっと変った効果がでます。ブルドン系の弱い音だと、どこか印象派風っていうか、ホイップ・クリームのようなやわらかい響きがしたりします。

作曲家B:僕は知らないなあ。大した作曲家じゃないでしょう。太ってたのかな、「デップレ」なんてね。ハハハ。

評論家A:いやあ、Bさんのダジャレにはかないませんなあ。まあそれはともかく、やはり作曲家としてはメシアンが上だ。新グローヴ音楽事典でも、メシアン6ページに対してデュプレは半ページもない。メシアンは確か、京都のなんとか財団の設立した賞も取っているしね。

ボゴミル:確かにメシアンの方が知名度は高いかもしれませんが、それはひとつには、メシアンがピアノ曲、管弦楽曲も多数書いているからでしょう。デュプレはオルガン曲のみですから、記述が少ないのも仕方ない。

オルガニストC:それにメシアンのオルガン曲はちょっとくどいわ。

評論家A:それは、あなたが新しい音楽を理解できないからだ。

ボゴミル:そうでしょうか?。誰かが、こんなことをいってましたね。「評論家というのは、後の時代になって『あいつは感覚が古くて、新しい芸術を理解できなかった』といわれるのがこわいので、わかりもしない前衛作品を好意的に批評しがちだ」と。

作曲家B:僕の作品は、批評ではいつもよい評価を得ているんだけど‥‥

評論家A:そうですかねえ。皮肉に気が付かないだけじゃないんですかねえ。

オルガニストC:みなさん本音が出てきたようなので私もいいますけど、このごろ、演奏のことではなくて「美人オルガニスト」とか、ハデな写真のチラシ作ったりして、ちょっとおかしいと思いません?私なんか損しちゃう。あれって、一種のセクハラだわ。

作曲家B:そりゃ、美人の方がいいに決まってるよ!

オルガニストC:まあ、先生ひどいわ。

ボゴミル:どうも収拾がつかなくなってきましたので、ここで投票していただきましょう。‥‥デュプレ1票、メシアン1票、棄権1 票ですが、私の独断でデュプレに決定します!

(一同騒然として)
「けしからん、私はメシとアンコがすきなんだからメシアンだ!」
「どうせあたしはブスよ!」
「僕って、天才作曲家!」

*****

 というわけで、3人めはフランスのマルセル・デュプレ(1886〜1971)となった。ジョン・スコットの演奏するCDを聴いてみよう*

 急速で華やかな前奏曲に、ちょっと諧謔的なリズムのフーガが続く《前奏曲とフーガ ロ長調 》op.7-1、ドビュッシー風の前奏曲に、ジーグのリズムのフーガが続く 《前奏曲とフーガ ト短調》 op.7-3。いずれも極めて複雑な構造を持つ作品だが、スコットのスピード感あふれる演奏は破綻なく安心して聴ける。

 そして圧巻は《古いクリスマスの歌による変奏曲》op.20。いわばオルガン奏法のカタログ。音色の変化をストップにのみ依存するのではなく、書法(奏法)によって多彩な「音色」を生み出しているところが素晴らしい。

 このCDはロンドンのセント・ポール大聖堂で録音しているため残響が過剰にも感じられるが、それがかえってこれらの作品を聴きやすくしているともいえる。ちなみに「従来のホールに比べて残響が豊か」という評判の東京の某ホールでこの曲を聴いたことがあるが、ドイツ系のオルガンの音がきつくて、ちょっと耐え難かった経験がある。

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* Organ Music by Marcel Dupré - John Scott(Hyperion CDA66205)

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どのモーツァルトがお好き?
--- ソナタ ハ長調 K. 545 の演奏さまざま

1990.07

 モーツァルトのピアノ・ソナタ(第15番)ハ長調 K.545は、わが国では『ソナチネ・アルバム』で練習するソナタとしてのイメージが強い。モーツァルト自身も「初心者のための小さなソナタ」と作品目録に記していたというから、そもそもコンサートで弾くような(聴くような)ソナタではなく、「名曲」というよりは「名練習曲」と呼んだ方がいいのかもしれな い。

 今回は、個性的な4人の演奏家によるこの曲の演奏を聴いてみよう。

◎グールド:モーツァルト:ピアノ・ソナタ集
(SONY CLASSICAL SRCR9280)

◎プレトニョフ:モーツァルト:ピアノ・ソナタ第15/16番
(VICTOR VDC-1181)

◎ピリス:モーツァルト=ピアノ・ソナタ集
(デンオン COCO-78070)

◎インマゼール:Mozart・Haydn・Jos Van Immerseel
(GLOBE GLO 5019)

 まず、音色。例によってグールドはペダルをほとんど使わず、ノン・レガートで演奏しているため、音色は乾いた感じ。シンプルでよいともいえるが、潤いがないともいえる。これに対して、プレトニョフはタッチとペダリングによって音色に細かく陰影をつけている。強弱の幅は、この4人の中ではプレトニョフが一番大きく、間のとりかたも微妙。ピリスはグールドとプレトニョフの中間。

 グールド、プレトニョフ、ピリスの3人が現代のピアノを使用しているのに対し、インマゼールは18世紀末のウィーンの楽器を復元した、いわゆるフォルテ・ピアノを使っているので音色はまったく異なる。

 現代のピアノが高音から低音まで均質であるのに対し、このフォルテ・ピアノは音域ごとに音色がはっきり違う。大音量は出ないが、音色の変化も あいまって、強弱の幅が狭い、という感じはしない。そのかわり、現代のピアノのシャープな響きや透明感といったものはない。

 第1楽章のテンポはどうだろう。反復なしのグールドが1:46、提示部のみ反復のピリスが3:04、提示部も展開部以降も反復しているプレトニョフとインマゼールがそれぞれ4:52と3:35で、インマゼールが一番速い。16分音符の音階進行など、インマゼールはコロコロ走ってしまう感じ。これは、フォルテ・ピアノのタッチが、現代のピアノに比べて遥かに軽いことにもよる。

 筆者も18世紀のウイーン・アクションのフォルテ・ピアノを弾いたことがあるが、まるでオモチャのピアノ。とにかく軽く、モーツァルトの曲が楽しく弾ける。

 さて、幸か不幸かこの曲に関しては、モーツァルトは一切、強弱記号やアーティキュレーションの指示を残していないので、演奏家の解釈の差がはっきり出てくる。

 ます、グールド。ノン・レガートの奏法は第1楽章ではまあいいとして、第2楽章ではかなりエキセントリックに感じられるし、テンポも異常に速い。最近、古典派の緩徐楽章は速めに演奏された、という説もでてきているが、それにしてもグールドの演奏は極端。ゆっくりめの演奏に慣れた耳には、異質に響くことだろう。また、単に速いだけでなく、どこか、せきたてられるようにも感じられる。そのかわり、アッというまに終わるので、退屈することはない。  

 プレトニョフは、3つの楽章すべてを遅めのテンポで、めいっぱい表情をつけて演奏している。平板につまらなく弾くよりはいいが、これはこれで極端。「プロが弾くと、この曲もここまで芸術的になるんですよ」と、ちょっと気取りすぎの感じ。特に、レーズの終わりの間(ま)の取り方が独特で、聴いていて、ちょっと気持ちがつんのめりそうになってしまう。

 ピリスは、あっさり弾いているようだが、注意して聴くと左手の分散和音から対旋律を浮び上がらせたり、控え目にペダルを用いたり、と細部に工夫が見られる。

 インマゼールはフォルテピアノの音色がおもしろいので、聴いていてどうしてもその点に意識が集中してしまうが、演奏解釈としては中庸をいっている。ただ、この解釈でインマゼールが現代のピアノで演奏したら、あまりおもしろくないかもしれない。

 この4人、それぞれカナダ、ロシア、ポルトガル、オランダと国も違うし、ピアニストとしてのキャリアも違うが、このソナタの演奏もまたそれぞれ大きく異なっている。

 モーツァルトの時代の響きを再現した、という点で評価できるのはインマゼールの演奏。単に昔の響きを復元したというだけでなく、当時の楽器がこの曲をもっとも活かす、と思わせるところがある。

 グールドとプレトニョフはおもしろいが、どちらも演奏者の個性が強く出すぎて極端な感じがしないでもない。

 筆者が落ち着いて聴けるのはピリス。この曲にふさわしい明快さを持ち、かといって単調ではなく、適度に表情がついているように思える。

 しかし、いろいろな演奏があっていいし、またどれを好むかは人それぞれ。「これが正統的な演奏だ」などと決めつけるべきではない。同じ曲の新しい演奏が出てきて、常に新しい音楽を楽しめるのが、クラシックのいいところなのだ。

【追記】

 本稿は初出1990年。グールドとピリスは現在でもカタログに載っているが、インマゼールとプレトニョフは、もう国内では入手不可能のようだ。なお、その後も、この曲のCDはいくつも発売されている。たとえば、モーツァルトの家で録音されたシフの演奏(1991年)などがあるが、これらについては、また機会を改めて書くことにしたい。

1996.07

関連ページ:
bcc: 078 モーツァルト:ソナタ ハ長調 KV545/フォルテピアノによる演奏もさまざま

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bcc: 045
音楽学部比阿野教授集中講義
--- ガーシュイン:《サマー・タイム》

1990.08

 この大学では、集中講義は1時間遅れて始まり1時間早く終わるのが常識とされている。だから比阿野も正確に1時間たってから教室に入った。

 「ええと、あのう、演奏解釈論やるわけですけどね、まず演奏解釈って、みなさんわかるよね。演奏者が作品をどのように解釈するか。カイシャクっていったって、切腹じゃないよ。英語では、『いんたーぷりていしょん』、フランス語では、『あんてるぷれたしおん』。ひらたく言えば、『どのように演奏するか』ってこと。」

 「で、そもそも音楽の解釈論なんてきちんとしたものはなかったの。なぜなかったかっていうと、昔は作曲家と演奏家が分離してなかったから、問題にならなかったわけね。それが19世紀になって、作曲家と演奏家が分離するようになると、目の前にある楽譜の形をした《作品》をどう演奏したらいいかってことが問題になるようになった。それでも演奏解釈ってのは、実践することであって、ことさら論じることじゃなかった。今だって、体系的には説明できません。でも、わりとこの言葉、よく耳にするよね。」

 「で、まず最初に、同じ曲のふたつの演奏を聴いてもらいます。曲は、ガーシュインの《サマータイム》。演奏者は聴いたあとで教えます。どこが違うか、考えながら聴いてみてください。」

(CD再生)

 「はい、誰が歌ってるか、わかった人。ウタ科の人、いるかな。え?キリ・テ・カナワ?ピンポーン、正解です。まあ、いかにもオペラ歌手って感じで、確かにうまく歌ってるね。ただこの人、ちょっと音程が下がり気味じゃない?じゃ、もうひとつの演奏、これ聴いてみて。特に、女性ヴォーカルのところね。」

(CD再生)

 「男性ヴォーカル誰か、わかるかな。森進一?ブー。ラッパの人いる?え?サッチモ?正解でーす。ルイ・アームストロングがペットとヴォーカルやってたの。え?アポロ11号?あれはニール・アームストロングで白人…おっと、白人じゃなくて、ヨーロッパ系アメリカ人ね。サッチモはアフリカ系アメリカ人です。オレはアジア系日本人ね。で、聴いてもらいたかったのは、女性の方。誰だかわかった人いる?クラシックばっかりの頓狂芸大生には、むづかしいかな・・・。」

 「で、いまのはエラ・フィッツジェラルド。ジャズの女性ヴォーカルでは大御所のひり。1957年の録音で、手に入れやすいものとしては主婦の友社のCD BOOK 5『JAZZ GIANTS』に入ってます。こういう本ね。ピアノのオスカー・ピーターソン、サックスのチャーリー・パーカーといった名人のいい演奏が入ってるし、解説もしっかりしてるから、これからジャズでも聴いてみようかと思っている人にはオススメ。」

 「さて。今聴いた2つの演奏、キリとエラ、どう思う?キリがいいと思う人、手挙げて。うんうん、なるほどね、エラがよかった、って人はいるかな?・・・ほおー。ま、どっちにしろ、みなさん違いはわかるよね。」

 「ここで、ちょっと独断だけどね。キリのは確かにヘタじゃない、うまいよ。だけどエラと比較しちゃうと、なんかシロウト芸っぽい感じがしちゃう。ガーシュインの《ポーギーとベス》は一応、クラシックのオペラってことになってるけど、ベースにあるのはブルースやジャズ。だから《サマータイム》もジャズのスタンダードになってる。で、クラシックの演奏家には、ときどきアンコールなんかで、この手のジャズとかポピュラー・ナンバーを歌った弾いたりする人がいるの。」

 「それで、お客の方もウケルわけ。特に熱烈なファンは、お気に入りの歌手が歌ってくれれば、なんでもいいって人もいるしね。でも、これってちょっといやらしい。特に『クラシック歌手が歌うと、こんなにゲイジュツ的になります』ってな意識で歌われると、オレなんか、文句つけたくなる。ジャズやポップスをクラシック風の発声で歌うっていうのは、お笑いだね。」

 「人間っていうのは、一種類の歌しか歌えないと思う。母国語と同じで、ひとつの様式=スタイルの歌しか歌えないんじゃないか。だから、オペラ歌手でやってきた人は、オペラだけのプロ、民謡歌手は民謡だけのプロ。ほかのスタイルに関しては、シロウトじゃないかって思う。」

 「それで、オレがオペラ歌手に要求するのは、プロとしてオペラをきちんと歌ってほしい、ということで、シロウト芸や旦那芸じゃないんだね。近ごろ流行のバイリンガルならぬバイミュージカルもあるかもしれないけど、どっちつかずの中途半端になる可能性大だね。」

 「で話を《サマー・タイム》にもどすとね、エラの聴くと、ほんと、ジーンときちゃう。これだって、アフリカ系アメリカ人の音楽としては洗練されてる方だけど、でも、基本的にジャズのスタイルで歌ってる。この曲のスタイルにいちばん合った歌い方のスタイルってことね。これに対してオペラ歌手のキリは、ジャズのスタイルの曲を、クラシックのスタイルで歌ってるから、どこか違和感がある。ある意味でシロウトっぽさが出ちゃうんじゃないかな。」

 「もちろん、オペラ歌手の基準で見たら、キリの方がうまいってことになるだろうね。エラにオペラ歌えってのは無理かもしれない。だから、どっちがいいかは人それぞれだけどね、ここでみなさんに考えてほしいのは、曲のスタイルと、演奏スタイルの適不適があるってこと。今のはすごく極端な例だけど、たとえばバッハを19世紀のスタイルで弾くとか、イタリア・オペラが得意な指揮者にドイツものを振らせるとかね、いろんなケースが考えられます。」

 「だからみなさん、たとえばピアノがちょっとうまいからって、アソビでジャズやポップスなんかやらないでください。やるなら、クラシック捨てて、頓狂芸大卒の肩書き捨てて、イチからやり直すつもりじゃなきゃ、モノにならないよ。根本的に演奏のスタイルが違うんだからね。どっちが上とか下とか、芸術か否か、なんて問題じゃなくてね。」

 「では午前中はここまで。午後はグールドの話をします。といってもオレはグールド崇拝者じゃないから、どちらかっていうと批判的。というよりもグールドをもてはやすような風潮が嫌いなんだけどね。ま、グールドファンにはイヤな話かもよ。それから出席カードは最後に配りまーす。」

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モノクロの世界
--- レスピーギ:《教会のステンドグラス》

1990.09

 カラーとモノクロ。写真や映画で使われる言葉だ。ビデオやDVDのカタログでも見かける。いうまでもなく、カラーというのは色がついたもの。 その昔、映画では「総天然色」という言葉が使われたことがあったが、最近は使われなくなってしまった。

 モノクロというのはモノクロームの略。色彩がなく、白と黒と、その中間の灰色からなるもの。「白黒」ともいう。Black & White、略してB/Wと表記することもある。厳密にいうと、モノクロというのは「単色」ということだから、なにも黒ではなくて、赤だけのモノクロ、と いうのもあるが、ふつうモノクロというと白黒の意味で使われる。

 昔はテレビも写真も映画もモノクロだった。今、モノクロのテレビを見たり、モノクロの写真を撮る人はごく少ないだろうが、テレビはさておき、モノクロの写真と映画はなかなか味がある。カルティエ・ブレッソン、リチャード・アベドン、ユージン・スミス、アンセル・アダムスといった写真家の作品を見ると、モノクロ写真を再認識させられる。

 映画では、モノクロの「名画」が結構ある。これらのほとんどはカラーフィルム(あるいはテクニカラー)が発明される前の古い映画だが、カラーフィルムが普及した後も、『ペーパームーン』('73)や『エレファントマン』('80)など、表現意図からわざわざモノクロで作られた映画もある。

 カラー作品でも回想シーンにモノクロを使ったり、戦前の場面にモノクロを使った作品はしばしば作られている。また積極的にモノクロとカラーを対比させた作品としては、ジュディー・ガーランドが主演した『オズの魔法使い』(1939)がある。この映画では、現実の世界はモノクロ、夢の世界はカラー、というふうに使い分けられている。

 一般的にいえば昔はカラーにしたくてもできなくて、モノクロで我慢していた、ということだろうが、筆者は、たとえば人物写真はモノクロの方がいいと思うし、今後もモノクロの写真や映画は映像表現手段として生き残っていくと思う。品のないカラー作品よりも、繊細な感覚のモノクロ作品の方がずっと美しい、ということもあるのだ。

 さて、音楽でカラーに相当するのは管弦楽、モノクロといえばピアノや弦楽四重奏だろう。特にピアノの音色というのは、モノクロの階調表現に近い。ピアノは楽器そのものも黒だし、鍵盤も白黒。そう、燕尾服の男性ピアニストが弾くピアノは、視覚的にも完全にモノクロの世界だ。そしてピアノ音楽は、モノクロの写真や映画と同様に抽象的なだけに、作品の構造がモロに露呈し、曲の欠陥も顕在化しやすい、という側面を持っている。

 そこで今回紹介するのは、レスピーギのピアノ曲。レスピーギといえば、豪快、華麗、絢爛豪華な管弦楽曲「ローマ3部作」が有名だが、そのレスピーギがモノクロで撮った写真とでもいえるのが《教会のステンドグラス---グレゴリオ旋律による3つの前奏曲 Vetrate di chiesa - Tre preludi sopra melodie gregoriane》だ。ピエトロ・スパーダの演奏を聴くと、レスピーギのまた違った一面がわかる*

 この曲は、旋律的にも和声的にも密度が高い。画家のデッサンの技量と同じで、ピアノ=モノクロでこれだけの曲が描けるからこそ、レスピーギは 色彩豊かな管弦楽曲も描けたのでは、と思わせるところがある。

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*:Respighi - Piano Music / Pietro Spada (Frequenz 011-034)

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クリスチャン・バッハのすすめ
--- または「くたばれアマデウス」*1 

1991.02

 1991年はモーツァルト没後200年ということで、あちこちでモーツァルトが話題になった。作曲家も人間だから、生れた年と死んだ年があるのはあたりまえで、「生誕何年」と「没後何年」というのが100年ごとや250年(四半世紀)ごとにやってくる計算になる。

 「創業何周年」とか「創立何周年」といった、現在継続していることを記念するのならまだわかるが(わからないものもあるが)、死んだ作曲家の「生誕何年」や「没後何年」の年に、いったいどんな意味があるのだろう。

 ところで、筆者はモーツァルトの音楽のいくつかは好きだし、すぐれた作曲家であることは認める。しかし、「神童」とか「天才」とか、ことさら大げさに騒がれすぎることには疑問を感じる。ちょっと過大評価ではないか。

 それでも、モーツァルトは人気がある。その理由は簡単。彼の音楽は、どちらかといえば単純でわかりやすく、万人向け、素人受けする側面を持っており、彼の生涯もまた、どこまで真実かわからないが、一般受けするエピソードに満ちているからだ。

 モーツァルトの音楽は、旋律構造も、和声構造も概して単純だ。彼の生きていた時代は、中産市民階級(ブルジョワジー)が力を得はじめた時期で、誰でもわかる自然な音楽が好まれた。すでに、J.S.バッハは晩年に、「あまりに技巧的すぎて、複雑でわかりにくい」と批判されているくらいだ。

 18世紀末頃からは、ホモフォニックで単純な音楽が人気を呼ぶようになるが、この変化は移り気な聴き手の趣味の問題だけではなく、芸術音楽を享受する階層が、それまでのごく一部の特権階級から市民階級へ拡大し始めたことを反映している。

 そして、貴族であれ市民であれ、音楽の素人というのは、派手な演出にだまされやすいものだ。それをよく知っていたモーツァルトの父(レオポルト)は、息子を「神童」に仕立て上げるべく、周到な教育を施した上で、売り出した。その結果、ローマのシスティナ礼拝堂の「門外不出」の曲*2を1回聴いて覚えてしまったとか、目隠ししてピアノを演奏したとか、いかにも、素人をビックリさせるような、俗受けするエピソードが続々と生み出された。

 しかし、この種のことは子供に集中的な訓練を施して、ソルフェージュ能力を高めれば、それほどむずかしいことではない。どちらかといえばサーカスの曲芸的なコケおどかしであって、必ずしも音楽家としての才能を意味しない。

 モーツァルトの音楽の独自性やら独創性も、あくまで当時の時代様式の範囲内でのこと。彼の音楽のほとんどは、当時のイタリアやフランス、ドイツ・オーストリアの音楽語法に立脚しており、部分的には、バロックに回帰している面もある。実際、生前のモーツァルトはあくまで「天才的ピアニスト」として有名だったのであり、必ずしも「天才的作曲家」と評価されていたわけではない。

 もしモーツァルトを天才作曲家と呼ぶなら、著名な作曲家のほとんどすべてもまた、天才と呼ばねばならないだろう。ある意味では、バッハも、ハイドンも、ベートーヴェンも天才、ということになってしまう。

 さて映画で有名になったシェイファーの戯曲『アマデウス』では、サリエリがモーツァルトの才能に極度に嫉妬しているが、サリエリの交響曲やオペラの一部を聴けば、サリエリがそれほど無能ではなかったことがわかる。

 サリエリが無能でなかったとすれば、モーツァルトを嫉妬する必然性はかなり弱められる。仮に嫉妬したとしても、『アマデウス』で描かれたような嫉妬をしたとは思えない。あの物語は、シェイファーの妄想といってよく、「無能な作曲家」として引き合いに出されたサリエリこそ、いい迷惑というものだろう。

 筆者がモーツァルトの「過大評価」を問題とするのは、たとえばこのサリエリの描き方のように、この種の特定の「大作曲家」の過大評価が他の同時代の作曲家への理解を妨げ、当時の音楽状況の判断を偏らせる要因になり、かつ豊かな音楽的遺産に対する誤解や、「喰わず嫌い」を引き起こす、という副作 用を持つからだ。

 モーツァルトが賛美されればされるほど、同時代の他の作曲家、たとえばG.B.サンマルティーニ、J. シュターミッツ、C.ヴァーゲンザイル、M. クレメンティなどの音楽が相対的に矮小化され、陰に追いやられてしまうことも問題だ。

 そこで今回取り上げるのは、J.S.バッハの末子、ヨハン・クリスチャン・バッハJohann Christian Bach(1735-1782、以下J.C.バッハ)。

 モーツァルトの様式は、いわゆる前古典派の作曲家たちの基盤の上に立っているが、その前古典派の作曲家の中で、J.C.バッハは重要な位置を占めている。

 J.C.バッハの影響は、モーツァルトのピアノ音楽、管弦楽など広範囲に及んでおり、現在、前古典派になじみのないファンが「モーツァルト的」と感じる特質のいくつかは、J.C.バッハに由来するといっても過言ではない。実際、モーツァルトは子供の頃、ロンドンにいたJ.C.バッハを訪れ、 後にJ.C.バッハのピアノソナタをピアノ協奏曲に編曲している。これはおそらく父レオポルトが、息子に当時人気のあったJ.C.バッハの音楽を学ばせたかったからだろう。

 このJ.C.バッハの音楽の例として、ここでは《6つのチェンバロ協奏曲 作品1》と交響曲集《6つのシンフォニア 作品18》を紹介しよう。これらの作品がより広く(先入観なく)聴かれるようになれば、J.C.バッハは「バロックと古典派の橋渡しをした」とか「前古典派」といったような過渡的な存在としてではなく、独自の、ユニークな作曲家として位置づけられることになるだろう。

Johann Christian Bach - 6 Concertos op.1 Hanover Band / A. Halstead (cpo 999 299-2)
J.C. Bach: SInfonias Op.18, Nos.1-6 Failoni Orchestra / H. Gmur (NAXOS 8.553367)

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*1:近所のレンタルビデオ店で見つけた、モーツァルトを題材とした映画の日本語版タイトル。ここでは女性関係のもつれからモーツァルトが殺されたことに なっている。全体としては、あまりデキのいい作品ではなかった。

*2:カストラート作曲家アレグリの《ミゼレーレ》といわれている。この曲は、和声的様式の合唱曲で、同一パターンの繰り返しが多い。実際に聴いてみる と、暗記するのはそれほど驚異的なことではないことがわかる。

関連ページ:
bcc: 151 カストラートによるカストラートのための/アレグリ:《ミゼレーレ》

【追記】
 そうこうするうちに今年は2006年、モーツァルト生誕250年ということで、イベントが行われたり、テレビのニュースで特集が組まれたりしている。他愛のないお祭り騒ぎで、まあ音楽業界が潤うのであればとやかくいうことではない。

 しかし、一部にはモーツァルト人気・モーツァルト神話と、昨今の健康ブーム・音楽療法ブームに便乗した安易な書籍やCDあるいはイベントも見られる。

 まず、以前からよく目にするのが「モーツァルトの音楽は胎教によい」のたぐい。これは「モーツァルト=神童」にあやかりたいという素朴な民間信仰に近いもので、実証的根拠がどこまであるのか大いに疑問。

 まあモーツァルトの緩徐楽章を聴いて母親がリラックスすれば胎児もリラックスするだろう。しかし、排他的にモーツァルトである必然性はない。ハイドンでもベートーヴェンでも、穏やかな緩徐楽章なら同等の効果があるだろう。

 次いで「癒しの音楽=ヒーリング・ミュージック」としてモーツァルトが取り沙汰されることも多い。確かにモーツァルトの緩徐楽章には癒し効果があるように感じられる曲もある。しかしこれもそれほど科学的・実証的に検証されているとはいいがたい。時折、テレビ番組などでもっともらしく「科学的な」検証が紹介されることがあるが、手続き的にはおおざっぱなものが多い。

 最近は「モーツァルトを聴くと免疫力が高まる」という研究もあるが、これも結局のところ、排他的にモーツァルトに限定されるのかどうか、どこまで細かい比較実験がなされたのか疑問。

 胎教にせよ、癒しにせよ、免疫力にせよ、音楽を聴く場合には本人の趣味嗜好も影響するだろう。この点で、モーツァルトに限らず、前古典派から古典派の音楽は和声も旋律もシンプルなので、クラシック音楽の中では広い層に受け入れられやすい、ということ。だから本文でも挙げたG.-B.サンマルティーニやJ. シュターミッツ、あるいはJ.C.バッハやC.ヴァーゲンザイルの音楽でもほぼ同じ効果が得られるはずだ。和合治久先生には、機会があればこれらの作曲家の音楽を用いて免疫力が高まるかどうか、実験していただきたいと思う。

 もし仮にモーツァルトが特に顕著な効果があるとすれば、それはこの時代の音楽の中でたまたまモーツァルトがデファクト・スタンダードとして広く聴かれてきたことに起因する古典的条件付けの影響とも考えられる。

 たとえばレストランやスーパーのBGMでモーツァルトが流れていれば、無意識的にそういう場所の記憶とモーツァルトの音楽が結びつく。そして、そういう場所は多くの場合、家族との食事や買い物など楽しい記憶と結びつくだろうから、モーツァルトの音楽を聴くと、その楽しい気分がよみがえるのだ(これはパブロフの条件反射に近い)。

 「18世紀後半の音楽」の典型例としてモーツァルトが論じられるのならまだしも、モーツァルト個人が神格化されたり、その音楽が絶対視されるのは音楽史的に見て錯誤あるいは偏った理解といわざるをえない。

 モーツァルトの音楽はそれ以上のものでもなければそれ以下のものでもない。愛好家が好んで彼の音楽を聴くのは自由だ。しかし彼の音楽にのみ、なんらかの特殊な効用があると主張したり、神秘化するのは、むしろモーツァルトと彼の音楽に対して礼を失する行為というものだろう。

2006.5.16

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bcc: 048
グレゴリオ聖歌はコンソメの味

1991.05

 食べ物と音楽には似ている点がある。どんなに好きな料理でも、続けて食べれば飽きる。筆者の場合、好物のスシ、ウナギでも、3日続けては食べられない(2日なら食べられる)。同様に、どんな名曲でも同じ演奏を続けて聴いたらイヤになる。まあ演奏が違えば、少しづつ味付けの違う料理を食べ比べる ようなもので、続けて2〜3回は聴ける。それでも、最後には飽きてしまう。  

 オフクロの味というのもある。子供の頃食べた料理が、その人の味覚を決定するという。音楽でも、子供の頃聴いた音楽が、その人の音楽に対する感覚の基礎を形成するようだ。

 食事の場合、いろいろな食品を組みあわせて食べるのがよい、といわれる。音楽も、かたよらずに、いろいろな音楽をまんべんなく聴くのがいい、とはいわれていないが、特定のジャンルや特定の作曲家の曲だけを聴いていると、音楽的な栄養バランスが偏ることになるかも。

 さて、スーパーやデパートの食料品売り場に行くと、おどろくほど多彩な食材や調理済み食品が並んでいて圧倒されてしまう。食堂街に行けば、和洋中華、さまざまな料理が食べられる。同様に現在、日本で聴くことのできる音楽もまた、多様だ。ニューミュージック、演歌から日本の古典芸能、世界の民族音楽、ジャズにロック、クラシック、分類不可能な新しい音楽。こう考えてくると、現代は食べ物も音楽も、実に豊富、多種多彩だ。

 しかし、これは必ずしも手放しで喜べることではないのかもしれない。あまりに多くの音楽が氾濫しているために、自分にとってほんとうに必要な音楽を捜すのが、かえって難しくなっている。クラシックに限ってみても、多くのコンサートが開かれ、多くのCDが発売される。

 そこで、手っ取り早く「いいもの」を得ようというニーズに応えて、各種情報誌が作られる。しかしガイドブックに紹介された店に行ったら、あまりおいしくなかった、ということもある。知る人ぞ知るほんとうにいい店は、口コミで客が集まるから、集客のためにガイドブックに載せる必要はないのだ。かえって、グルメガイドに載ったりすれば妙に知名度が上がって、ミーハーの客に煩わされてはかなわない、ということさえあるのだ。

 モノの氾濫と、モノに関する情報の氾濫。一見、恵まれた状況のようだが、ほんとうにそうなのだろうか。

 つまるところ、食べ物にせよ、何にせよ、少なすぎるのはいけないが、だからといって、ただ多いだけでもダメ。音楽も同じで、音楽の氾濫の中で、私たちの音楽感覚は次第に鈍感になり、人々は音に飽き、音楽の肥満に陥っているのではないか。素朴な感動の欠如、つまらなさ。無気力。

 ところで、食べすぎたりカゼを引いたりして胃腸をやられると、筆者は油っこい料理など見るのもイヤ、においをかいだだけで、気持ちが悪くなる。そんなときは、もちろん、しばらくは何も食べない。たいていは1日絶食したあと、C社あるいはH社の缶入りビーフ・コンソメを飲む(こういうときのた めにストックしてある)。

 絶食した後のスープは、文字どおり胃の腑にしみる。しみじみ、味わう。そして殊勝な気持ちになって、今まで酷使してきた胃腸にゴメンナサイ、と心の中であやまる。これからは、ゆっくり、よく噛んで食べよう、回転寿司は10皿以内にしよう…

 西洋音楽の原点といわれるグレゴリオ聖歌。クリスマスの深夜ミサで歌われる一連の聖歌を聴いてみよう*。無伴奏、ユニゾンで歌われる聖歌は、単純、素朴なだけに、こちらも構えずに聴くことができる。いわば、クラシック音楽のコンソメだ。

 中山晋平の童謡で育った筆者には、グレゴリオ聖歌が日本の民謡やわらべ歌の節まわしに聴こえる部分があり、ちょっとなつかしい感じがしてしまう。自由リズム(拍節リズムではない)による歌唱も、違和感があるような、ないような、退屈なような、そうでもないような、なんとも不思議な感じだ。「癒しの音楽」とまではいわないが、たまには、こういう音楽を聴くのもいいものだ、と思ってしまう。

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* グレゴリオ聖歌/イターナル・ピース( ポリグラム/グラモフォン POCG-3376 . 旧F35A 50047)

【追記】

 グレゴリオ聖歌といえば、ソレム修道院の演奏が定番となっている。しかし旧録音も新録音も、ソレムの歌い方や発声は、好みがわかれるところだろう(そう、筆者は嫌いである)。今回紹介したのは、ソレムとは歌い方が微妙に異なるもの。単独ネウマ(プンクトゥム)の同音反復(ディストロファ、トリストロファ)をタイせず、打ち直すなど、一部、ソレムとは音価の解釈も異なっている。

 音楽史の本には、だいたい7〜8世紀からグレゴリオ聖歌が登場したと書かれているが、歌唱法やネウマ譜の解読法は一度伝統が途絶し、現在、ローマ・カトリック教会が採用している解釈は19世紀に復元されたもので、音楽史的には異論がある。特に音価やリズムの解釈には諸説があり、音高の細部も写本によって異同があるばかりではなく、四分音を用いたという説(とそれにもとづく録音)さえある(ブラックリー)。 1996.08

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bcc: 049
ツェルニー40番を「聴く」

1991.05

 エッシェンバッハの演奏する《ツェルニー40番》(ポリドール F26G 20325)。これはピアノを学ぶ人が参考にすることを目的として作られたCDだろうが、聴き方によっては、音楽に関するさまざまな問題について考えさせられるCDだ。

 このエッシェンバッハの演奏を聴いて、まず驚かされるのは、その軽快なテンポと細かい音符のコントロールの正確さだ。ツェルニー40番(以下、「40番」)は、簡単に指定のテンポで弾ける曲ではない。しかしツェルニーは決して意地悪く実現不可能に近いテンポを要求したわけではない。

 18世紀から19世紀初頭にかけての、いわゆるウィーン式アクションのピアノは現在のピアノに比べれば大音量は出ないが、そのぶんキーが軽かった。こういったピアノを用いれば、40番は現在のピアノで弾くよりもはるかに楽に、速く弾けたはずだ。

 これに対して、現代の鋳鉄フレーム、高張力の弦、複雑なアクションのピアノで40番を指定のテンポで、粒をそろえて演奏するのは至難の技。エッシェンバッハほどのピアニストだから、かろやかに演奏できるのであって、これはこれで修練の賜物だろうが、ふつうには、なかなかこうは弾けない。

 現在のピアノで弾くことを前提とすると、40番はかなりの程度まで指や腕のコントロールをマスターした上で、さらにタッチの正確さや敏捷性を高めるために、プロが用いるべき練習曲というべきで、「初歩的練習曲」とするのはちょっと無理があるといえるだろう。

 ところで、40番は、演奏される(練習される)ことは多くても、「聴かれる」ことは少ない曲だ。つまり、あくまで練習曲であって、「鑑賞用の音楽」とは認められていない。40番を弾く人は、まず第一に指の訓練のために弾く。40番が、ピアノのリサイタルで演奏されることなど、まずない。子供のおさらい会でさえ、演奏されることはないだろう。

 しかし筆者はこのエッシェンバッハの演奏を聴いて、ちょっとしたショックを受けた。40番も、ここまで磨き上げられれば、「聴ける音楽」に なってしまう。指を訓練する、という目的からメカニックな動きが中心となっているが、これがまた、ミニマル・ミュージック風にも聴こえ、ピアノのクールな響きとあいまって、幾何学模様のようなおもしろさも感じられてくる。

 イギリスのピアニスト、カヴァイエは『日本人の音楽教育』(新潮選書)の中で、シューマンを引用しながら「たとえハノンでも、非音楽的に弾いてはならない」という趣旨のことを述べている。これは、演奏する側の心構えの問題だが、聴く側の心構えについてもいえそうだ。

 どんな名曲、名演奏でも、聴く側がそれに触発されなければ音楽として聴いた、といえるのかどうか。逆に風の音や工場の騒音であっても、もし聴く側がそれに触発されたとしたら、広義の音楽として聴いたことになるのではないか。

 音そのものは単なる空気の振動で、聴覚の刺激に過ぎず、それ自体は何の意味も持たない。音に音楽としての意味を与えるのは、その音楽を聴いている人間なのだ。

 筆者はこれまで音楽関連の授業や講義の中で、折にふれて高校生、専門学校生、大学生、社会人に、曲や演奏についての感想を書いてもらってきたが、いわゆるクラシックの名曲を紹介しても、意外に冷たい反応が返ってくることがしばしば。最初、筆者は「この曲のよさがわからないのは、クラシックの経験が足りないからだろう」などと考えていたが、やがてそれが独善的な思い上がりであることに気付いた。

 現在では筆者は、ある音楽に感動するかしないかはまったく個人的な問題であって、優劣や是非を論じることは不可能(あるいは無意味)と考えている。自分の中で「この曲はいい、この曲はつまらない」という区分をつけるのは自由だが、必ずしもそれが他人の同意を得られるとは限らない。むしろ得られない、と考えるべきだ。

 「音楽を聴く」ということは、受動的な行為ではない。聴き手の意識あるいは無意識が、なんらかの能動的な解釈を行うことによって、はじめて音や音楽は意味を持つ。したがって、音楽の価値判断はあくまで個人的なもの。「人は人、自分は自分」と素直に認めるしかない。

 しかし人間は自分の解釈、特に無意識的な解釈に対しては、しばしば「合理的な説明」を求めたがる。あるがままに自分の感覚を受け入れるだけでは不安で、どうしても自分の感覚を正当化する裏づけがほしくなる。

 少なからぬ音楽愛好家が、音楽を聴くだけではなく、音楽評論や、作曲家の評伝を読んで自分の音楽観を形成していく。これは、さまざまな考え方を知り、視野を広げるという側面を持つが、度が過ぎれば自分の感覚に対する「不安」あるいは「自信のなさ」を反映しているともいえるだろう。

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bcc: 050
映像の功罪
---《魔笛》《アイーダ》《春の祭典》

1991.09

 昨今のビデオ機器の発達と普及はめざましい。音楽の分野では、ビデオテープやDVDによって、オペラやバレエが身近かなものになったし、管弦楽やピアノの演奏も映像化されている。しかし手放しで喜んでばかりはいられない。音楽と映像の組み合わせ、必ずしもいいことばかりではないからだ。

 オペラの場合を考えてみよう。ビデオではアップの手法が使われる。すると、どうしても歌手の容姿が気になってくる。具体的にいえば、たとえば《マダム・バタフライ》の蝶々夫人が大柄で太めだったりすると、どうも滑稽に見えてしまうし、《椿姫》のヴィオレッタや《ボエーム》のミミが体格よく健康的だと、とても病死するとは思えなくなってしまう。

 女性ばかりでなく、男性もそうだ。《魔笛》のタミーノや、《アイーダ》のラダメスが、中年太りで三段腹だったりすると、これも、どこかイメージがずれる。これらはオペラ劇場の客席から舞台を見る限りではそれほど目立たないのだが、ビデオ化されるとどうしても気になってしまう。

 かつて映画が登場したとき、ある演劇関係者が「これからは、大げさな演技は通用しなくなる…」とつぶやいたという。この人は「映画が舞台上の演劇とは違って見える」ということをいち早く見抜いていたのだが、同じことがオペラのビデオやDVDにもいえる。

 視覚と聴覚を比べた場合、視覚の方が大きな影響を持つといわれるから、「歌はうまいが、見栄えのしない歌手」よりも、「歌はヘタだが見てくれのいい歌手」の方が、好印象をあたえてしまう、ということも起こってくる。しかし、歌手はあくまで、声と音楽的表現力で評価されるべきだ。

 オペラ歌手に限らず、演奏家全般にいえることだが、映像によって外見、容姿の視覚情報を提供することは、本来の演奏家としての評価を妨害し混乱させるもの、といっても過言ではない。

 筆者は、コンサートのチラシからして、演奏者の写真など不必要と思っている。自分がついつい、見てくれに左右されてしまう、というのも情けない話なのだが。

 さてオペラの場合、演出が突出するのも問題だ。たとえばシェロー演出のヴァーグナーの《指輪》。舞台の設定が産業革命前後のヨーロッパになっており、ヴォータンは背広姿で出てくるし、ラインの乙女たちは下水道を泳ぐ。これはこれで斬新な解釈なのかもしれないが、ブレーズ指揮の音楽の緊張感が高いだけに、もうちょっと何とかならないのか、と思ってしまう(もっとも、この演出の大蛇は気に入っているが)。

 「音楽映画」の場合、概して演出家や監督が個性的であればあるほど、音楽は後退する。ベルイマンの《魔笛》。一見すると、劇場での舞台を映像化しているように見えるが、実は、これは客席や舞台裏の映像までもが入念に作られたものだ。パパゲーノがあわてて登場するところや、夜の女王が楽屋でタバコをふかすシーンなど、すべてが演出されている作りもの。序曲での、観客の顔のアップの連続も、映像としてのインパクトが強く、モーツァルトの音楽は完全に背景に隠れてしまう。この映画は「モーツァルトのオペラを上演している」のではない。「モーツァルトのオペラを上演しているところを演じている映画」なのである。

 《魔笛》をCDで聴いてみると、音楽様式の移り変りが非常によくわかる。モーツァルトは、それぞれの登場人物ごとに、それぞれ異なる様式を用いているが、これは音だけを聴いた方がよくわかる。だから映像なしでも登場人物はちゃんと音楽的に区別できるのだ。

 このように音楽の細部に集中できるようになると、このオペラのストーリーの複雑さ、結末の混乱も、あまり気にならなくなってくる。

 クラース・フェルボム監督のスエーデン映画《アイーダ》(ISIS FILM、1989)は、さらに強烈だ。音楽はヴェルディの《アイーダ》そのまま、映像は、エジプトでロケをしたと思われる。古代エジプトの習慣に忠実、ということなのかもしれないが、登場する女性はほとんどトップレス。ア イーダもアムネリスも、侍女も、みんなである。これはちょっとショックだ。

 考えてみれば最近のヨーロッパの海水浴場では、女性のトップレスが普通だというし、ファッション・ショーでもトップレスが珍しくない御時世だから、驚くにはあたらないのかもしれないが、筆者には刺激が強すぎる。この映像、どうしてもヴェルディの音楽とはしっくりこない。

 DVDやデジタル放送の展開にともなって、今後オペラの映像もより身近かになってくるだろう。しかし新しい演出に、こちらがどれだけついていけるか、今から心配だ。

 バレエは本来、視覚によって身体表現を鑑賞するためのものだが、それでもたとえばストラヴィンスキーの《春の祭典》は映像なしで、音楽だけを(いわば絶対音楽として)鑑賞した方がよいように思える。

 この曲、音楽にだけ集中すると、広大な空間を想像できる。バレエの映像を見ながら聴くとどうだろう。筆者はモーリス・ベジャールの舞台の一部をビデオで見たことがあるが、まず舞台の空間が狭い。それに、どうしてもダンサーの肉体的な動きに目がいってしまって、音楽に集中できなくなる。しかもベジャール独特の群舞の扱いはよくも悪くもグロテスクあるいはエロティックで、気の小さい筆者はちょっと怖じ気づいてしまうほどの怖さもある。

 この《春の祭典》、音楽だけで充分だ。

 音楽だけで充分なバレエ音楽をもうひとつ。武満徹の《ドリームタイム》(『武満徹作品集〜作曲家の個展〜'84ライブ』 CBS/SONY CSCR 8371〜2)。脈絡があるような、ないような、形式的に不定形な音の移り変わりが、空間的にも時間的にも不思議な世界へ誘う音楽だ。筆者は、この曲のバ レエを見たいとは思わない。

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bogomil's CD collection 041-050

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